山にはほとんど登らないけれど、9合目を越えてから、最後の1合が一番大事だとか大変だとかいう話。
わたしとあなたが一度「関係した」、関係がある、という事実は、その後会えなくても肉体が滅びても関係なく、関係は、あり続ける。
先生がそんな話をした月末。
何一つとして同じ出来事はない。呼吸と姿勢。
つまりキーボードをカタカタやってるこの手も媒介に過ぎない。
もう9月が半分過ぎたということに驚きを隠せんのだが、そんなこと言ってたらもう年末迎えるんだろうな、きっと。いろいろ間に合うのかなとか思ってしまうけど、しょうがない。
家から保育園まで子どもの足でも2,3分とかからない距離だが、鳥さんの声を聞いたりねこじゃらしを拾ったり側溝の水を眺めたり、毎日が冒険と発見のムスコ氏。
サボるためにちゃんと頭を使う、ということをサボると、結局サボれない問題。
ついこないだ正月が明けたと思ったらもう8月が終わっている。
帰りの道すがら、「俺はエリート信者になれないからまだ洗礼は受けられないよ、それに心の準備が出来上がってないし」と言った。エリート信者って何?そんなものはないよ、と笑って返すと、エリート信者はエリート信者だよ、なんかこう、階級とかあるでしょ?と訊かれるので、ないよ、と笑ってしまう。
我ら夫婦には、独特なコミュニティ言語がある。コミュニティ言語とは、少数民族やとあるコミュニティ内で話される独自言語だ。我ら家族にはそれがある。
色んな感情を心の引き出しに無理やり仕舞い込む。整理整頓は、時間がやってくれるはずだろう。きっと、そうであって欲しい。
あの世にはデジタルもフィジカルもなく存命中の私たちが訪ねていくことはできないのだが、先にあちらに行かれた方々がこちらに残していったいろんな宿題があるので、僕に手がつけられるものから手をつけている夏だ。
刑務所アート展の運営団体・Prison Arts Connections(プリズン・アーツ・コネクションズ、略称PAC)を今年の1月に一般社団法人として登記しました。
日本の人は、「mixi」という単語を聞いて、即座に自分の黒歴史がフラッシュバックしてヒエッとなる人と、「なんですかそれ?」という人と、2種類に分けられる。
楽しかったこと、悲しかったことをシェアできる相手がいることと、親密な相手や集団においても「わたしだけ(あるいはわたしたち二人だけ)のナイショ」を抱えられることは、同じだけ、いやもしかすると後者の方が大切かもしれない。
「冬季うつってあるじゃん、それの夏版みたいな状態だったんだな、俺は。夏季うつだ、夏季うつ」
と、リビングに寝転がりながらぼやいてみたら、
「それはね、ただのうつだよ」
とツマに返された。正しい。ツマの言うことはだいたいいつも正しい。
それは、考えると同時に味わうことであり、確かめると同時に驚くことでもある。
スポーツをする人がストレッチをするように、ピアノを弾く人が指ならしをするように、ものを書くことも身体運動なのだから当然、なんらかの準備体操をした方が良いだろう。

全容が見えないなかで「賭け」に乗ってくれる編集者がいてこそ作家は前に進める。