「やさしいキスをありがとう」
彼女は目をつむったままそう言って、そのまますうすうと眠りに入った。僕は彼女の顔を―今日までただの一度も触れたことのなかった彼女の寝顔を見た。その頬に引き寄せられるようにして伸びていく自分の手が視界に入り、僕はビクンと身震いした。慌てて手を引っ込め、そして、自分の呼気が、視線が、心音が、衣擦れが、これ以上彼女の眠りを妨げないようにと祈りながら、ゆっくり、ゆっくりと身を起こして布団から抜け出した。壁を背にして三角座りをし、手を伸ばしても届かない距離をとれたことを確認してから、もう一度、布団の中の彼女に視線を向けた。彼女は変わらず、すうすうと寝息をたてている。
年上のひと。うつくしいひと。
僕は三角座りをしたまま目を閉じた。夢の中でも彼女の寝息がすうすうと聞こえていた。やさしい音だと思った。
目が覚めたときには彼女はいなかった。まるではじめからいなかったかのように、音も、かたちも、布団の皺もなくなっていた。宿の女将さんに尋ねてみても、なにもわからなかった。前の日に一緒に歩いた温泉街の店を一軒一軒回ってみたが、やっぱりなにも、わからなかった。つい昨日のことのはずなのに、記憶の影もつかめなくなっていた。交番を見つけたので、捜索願を出してみようかと思ったところで、僕は彼女の本名も、住所も、職場も、出身も、家族も、他の人たちとの交友関係も、何一つ知らないことに気づいた。
年上のひと。
彼女はどこに行ったのだろう。僕は彼女の何を見ていたのだろう。僕は誰といたのだろう。
「やさしいキスをありがとう」
東京に帰って一週間ほど経ったころ、僕は「ありがとう」が言えなくなっていることに気づいた。アパートの隣室に越してきた人がお菓子を持って挨拶に来た。受け取ってお礼を言おうとしたが、喉がキュッと詰まって声が出ない。なんだこれ。声を出すことも引っ込めることもできない。苦しい。
「大丈夫ですか?」
半開きのドアに寄りかかって唇をビクつかせる僕を、隣人が困惑と心配の混じった表情で見ている。すみません、ごめんなさい、その、大丈夫、です、これ、わざわざどうも、です。咄嗟に思いつく限りの言い換えでどうにか礼を伝えて扉を閉めた。どうしたんだ。どうしよう。
トラウマ症状でしょう、と医師は言った。「ありがとう」という言葉を残して去っていった彼女を思い出して、喪失の恐怖が喚起されているのだという。至極まっとうな、理屈の通った見立てだと思った。ことの経緯を聞けば誰だってそう解釈するだろう。僕が医師だったとしても同じ見解に至ると思う。
そうだろうか。僕に「ありがとう」と言った彼女は、はじめからいなかったかもしれないのに?存在しない思い出に、喉を締められ言葉を奪われるなんてことがあるのだろうか。
「原因」を突き止めるどころかその実在が怪しいというのに、しかし、「症状」はある、もう在ってしまっている。
他に何も変わったところがないのに、たった一つの言葉を発せられなくなっただけで、僕の身体は油の足りない歯車のようにぎこちなくなってしまった。
ありふれた、それでいて替えのきかない言葉。大事なときに、大事なひとに、感謝を伝えるためだけではない。さほど強い意味や意図を込めず、日常的に、ほとんど反射的に、僕たちはこの言葉を交わし合い、それを相手への敬意や尊重のサインとしてきた。物の貸し借り、商品やサービスの売買、ちょっとした頼みごとや仕事の手助けなど、有形無形の価値の移動に、ほとんどセットでこの言葉が発せられる。それを「言う」だけで評価が上がりはしないが、「言わない」「言えない」者は減点の対象となってもおかしくない。すみません、どうも、かたじけないです、恐れ入ります、サンキュー。不自然に思われないよう別の言葉でごまかすにも限度がある。すぐには問題にならなかったとしても、リスクを抱えたまま人と会話するのは恐ろしい。迫害を恐れて出自を隠す異邦人はこんな感覚で生きているのだろうか。そんな大げさな。でも実際、どうしたらいいんだろう。
あなたの辛い別れの体験と、「ありがとう」という言葉は、本来は独立した別事象なんです、「ありがとう」で人が消えるわけではないことを、安心できる環境で経験していくといいでしょう、いわゆる暴露療法というものです、服薬で様子を見ながら、少しずつ、段階的に。医師に提示された治療法を、一つずつ順番に試していった。積極的なクライエントだったと思う。他にすることがなかったから。大学の卒業を間近に控えての「発症」で、こんな状態ではまともに働けるはずがなく、会社に相談しようにも状況を説明できる気がしなかったので、大変な不義理と知りつつ内定を辞退した。平謝りに謝ったので、言葉の問題は起こらなかった。
治療を始めて3ヵ月。効き目は、なくはなかった。
あ、あ、あ、ありがと、ね。
どうも、ありがと、です。
挙動不審な人見知りか、敬語が不十分な若者と思われるぐらいの限局性吃音者となった僕は、人との会話が最小限で、かつ、多少無礼や不審に思われたとしても大きな問題にはならないであろう仕事を探して、ビルの清掃員になった。手取りは少ないが、アパートで一人、縮こまって暮らしていく分には問題ない。生きていける。だけど、それで、どうしよう。僕は、どうしてこうなったのだろう。
「やさしいのね、あなた。ずいぶんとやさしい」
働き始めて一月ほど経った頃、久しぶりに彼女の夢を見た。見た、と言えるのだろうか。彼女の顔も、髪も、ピントの合わないカメラのようにぼやけていた。ただその声は間違いなく彼女のものであったし、それは僕が実際に言われたことのある言葉だった。そのときも僕は、触れることを、触れた先の変化を恐れて、一度は伸ばした手を引っ込めたのだった。僕が彼女の目を、表情をもっとよく見ていたならば、言葉を言葉だけでなくその色や音や体温と共に聴こうとしていたならば、彼女が何を言いたかったか気づけたかもしれないのに。「ありがとう」が終わりではなく、はじまりの言葉になったかもしれないのに。