朝、子どもを保育園に送ってから、すぐに家には帰らず、少し歩くことにした。高尾山方面に国道沿いを10分ほどいって、途中で脇道に入ったところにある小さな神社に登ってお参りをして帰る。なんのことはない、ただ歩いただけなのだが、スマホを置いて出たのが良かった。
家に帰って、午前中に2件、午後に1件、Zoom会議。合間に細々した作業をしたり、少し横になって休憩したりして、2時半頃にまた家を出て、今度は高尾駅方面に歩いていって、駅前のカフェを2件はしごして、お迎え時間まで読んだり書いたりした。
昨年インタビューをした人と別件での打ち合わせだったのだが、そこで改めてお礼を言ってもらった。相手に喜んでもらえるのは書き手冥利に尽きる。その人の経験、その人の人生、その人から出てきた言葉を、聞き手/書き手のわたしがどう受け取ったのか、受け取ったうえで、それをまた第三者にも分かち合えるようにどんな言葉で表現するのか、という仕事であり、それは結局、毎回毎回、インタビュアーである自分の人生と言葉が問われ返すことに等しい。うまくいくかはわからない、ある種の「賭け」と言ってもいい、だがそれゆえに、自分の身体ぜんぶを投入するに値する仕事だ。
「鈴木さんは、何を成し遂げたい人なんですか」と、打ち合わせの途中でヒュンッとボールを投げてもらって、おぉ、となって、その問いに答えて、また色々な話をした。
去年はなかなか苦しい一年だったのだが、そのなかでも色々もがいて、後半から段々と兆しが出てきていて、年が明けてから、いくつか意思を持ってアクションを取り、言葉を変えたり、時間の使い方を変えたり、これまでより積極的に、率直に、周りの人に助けを求めたり相談したりするようにした。
「信頼」というのは、一緒に時間を過ごすなかで、お互いの言葉や行動を見て、その背後にあるその人の信念に触れ、その結果として、言い換えれば相手への評価として、後から生じるものと一般には考えられるだろう、もちろん半分はそうだと思うのだが、もう半分は、結果以前の意思、賭け、コミット、だと思う。相手が自分のことを信頼してくれていようといまいと、これからその人との協働がどのような進み方でどのような結果に終わろうと、はじめにまず「私はこの人を信頼する」と決める、先にそう決めた上で、信頼に恥じない行動をする、自分の持てるものを差し出す、発揮する、表現する、ということなのだ。少なくとも僕はそうありたい。
ものを考えて書くことは、なんとも不格好で、燃費が悪い。自分の言葉と思考と人生のなんと凡庸なことかと嫌になって手を止めたくなる。しかし、そうやって自己否定して投げ出すことは、「楽しみに待っています」と言ってくれた人を裏切ることに等しい。とにかく手を動かす。約束が勇気を生む。
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「トラウマに苦しむ人間こそ、本来の意味で創造に開かれた人間なのである」
郡司ペギオ幸夫『創造性はどこからやってくるかー天然表現の世界』