「いやー、久しぶりだね」と言って、その前に会った日がいつだったか遡ってみると、4〜6年ぶりであり、まじかもうそんなに経ったのか、とびっくりする。ここ一ヶ月ほどはそういう「久しぶり」の再会がいつもより多かった。
時代によらず、みんな歳をとればそんなものだろうとも思うが、ここ数年に関しては、パンデミックによって時間の流れ方、空間の使い方、人との距離感が変わった(実際に何がどう変わったかというだけでなく、そのような気がする、という私たちの体感、肌感も含めて)ことが、「もうそんなに経ったのか」感を増幅しているようにも思う。
加えて、僕と、僕に近い年齢の友人たちに関しては、この「4〜6年」がちょうど30代前半・中盤から中盤・後半つまりアラフォー、中年に入っていく年数であり、体力が落ちたり体重が増えたり体調を崩したり結婚したりしなかったり離婚したり再婚したり子どもが生まれたり生まれなかったり増えたり増えなかったり親が定年退職したり介護が必要になったりならなかったり引っ越したり家を買ったりローンを抱えたり転職したり起業したり復職したり古巣に出戻ったりなんだりかんだり…をそれぞれに経験して、「いやぁ歳とったなぁ」としみじみ語り合えるような年数でもあった。
その一方で、「久しぶり」でもあるけど、年数の割に「久しぶり感」がない、という矛盾した感覚も覚える。それは、直接会わなくともチャットやメールでやり取りをしていたり、言葉を交わさずともWebに上げられる近況・足跡を目にしていたりと、デジタルメディア経由でテキスト・画像・動画情報を受け取り合っていたことによるものだ。肉体を伴って会うのがずいぶん「久しぶり」であっても「昨日の続き」のような感覚で話せるのは、確かにデジタルメディアの「恩恵」と言って良いだろうな(と同時に、Webに足跡が残らない人、連絡を取らなくなった、取れなくなった人のことを思う。多くは、思う、思い出すだけ、なのだが)。
再会できること、できたことを喜びつつ、しかしその一方、再会よりは少ない頻度ではあるものの、僕たちより先にこの世を去った人がいること、訃報、を受け取りもする。ある日突然、という知らせもあれば、祈りながらもある程度予想・覚悟をしていたうえでの知らせもある。
あの世にはデジタルもフィジカルもなく存命中の私たちが訪ねていくことはできないのだが、先にあちらに行かれた方々がこちらに残していったいろんな宿題があるので、僕に手がつけられるものから手をつけている夏だ。