月末の余白

このところ展示の準備などでだいぶ慌ただしく、まぁまぁ元気は元気であり、本や展示やその他のプロジェクトやらで「原稿」は毎日たくさん書いてはいるのだが、「日記」を書く暇がなく、いや時間がまったくないわけではなかったのだろうが、日記という私的な文章を書くモードに切り替えるのがなかなかむつかしく、疲れもあり、お子たちも元気いっぱいで、日々は過ぎ去り、もう5月末、マジかよ。ブログに前回日記を上げたのが2月18日のようだ。3ヶ月以上経ってる、季刊誌かよ。ちょっと気持ちと時間の余白が生まれたので、子どもを送ってから近所のドトールでこれを書いています。

歩いているときも座っているときも、常時頭の中には言葉が泳いでおり、書き残しておこうと思うことは多々あるのだが、いざこうやって手を動かしてみると、それら「トピック」を一つひとつレポートのように書く気にもならず、それはまた別の機会に、ということで、ここまでなんら有意義な「情報」はないのだが、手を動かすことそれ自体が目的というか、呼吸というか、運動というか、収穫というか、わたしが多少リラックスして心地よくなるのでまぁいいかという気分である。のぼせやすいし落ち着きがないので銭湯に行っても烏の行水みたいにすぐ上がってしまうのだが、サウナの人たちが言う「ととのう」ってのはこういう感覚なのだろうか。いや、日記書くのに汗かいたりしないからな、ちょっと違うか?

高尾に引っ越してきて1年と2ヶ月ぐらい。急ぐこともなく、そのうちご縁があるだろうと思うのだが、自分が住んでいる街で、高尾〜八王子あたりで、何か1つ、仕事とか場を持ちたいなぁと思うようになった。仕事の大半は自室やカフェで出来るリモートワーク・デスクワークで、何か用事があって出かけていくときは、いま一緒に動いている仲間たちがだいたい東京の東の方にいるので、ちょっとした遠出になり、それはそれで気分転換になっていいのだが。生活圏と生活導線、徒歩と電車、デスクとオフィスとコモンスペース、移動と滞在、その流れのなかで生まれる思考も言葉も物語も変わってくるし混じり合っていく。生活をどうつくっていくか、つくりかえていくかは、それはもう、表現に直結する話です。まぁだからこそ、肩に力入れてやるもんでもないのだけど。

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最近読んでいる詩集、阿部嘉昭『日に数分だけ』内、「日記人」より

日のあふれるつながりのうち
いくつかをちいさくおもいおこし
単語をしるすひとはさいわいだ
なにも帳面にはかかないまま
あるくかたわらのへきめんなどに
であったことがらやすがたを
すくなくのこすひとがうつくしい