「冬季うつってあるじゃん、それの夏版みたいな状態だったんだな、俺は。夏季うつだ、夏季うつ」
と、リビングに寝転がりながらぼやいてみたら、
「それはね、ただのうつだよ」
とツマに返された。正しい。ツマの言うことはだいたいいつも正しい。
病気との付き合いはもう5年だか6年だかになるので、進研ゼミで習うまでもなく、この抑うつ状態/症状はすでに「知っている」。時間を引き伸ばして人生トータルで考えれば(というか、自分が死んでから後を生きる人たちが何かしら受け取ったり拾ったり引き継いだりしてくれるであろうことも含めて)どうとでもなるのだという根底のオプティミズムも揺らがない。とはいえ、そうはいっても、沈んでいる最中はなかなかにしんどいもので、「ツマも子どもも友人たちも達者で立派にやっているというのに、俺は乳も出ないし金も稼げないし日々のことすらヘロヘロで要領も悪いしなんて情けない!」などと嘆いたりメソメソ泣いたりしていたのだ。弱るとつい、能力主義の物差しで自分を痛めつけてしまう。世界はもっと広いことを、僕はとうに識っていたはずなのにな。
3月末に高尾に引っ越してから気づいたら半年が経った。新生活は誰だってバタバタするものであるが、もう「新生活」とは言えない月日が経ってからも一向に余白が生まれず、というか、バタバタしているうちに色々と状況が変わって身体的にも精神的にも経済的にも身動き取れない状態になってしまって、だんだんと焦りを感じ、抑うつが強まっていき、夏の暑さに体力をますます奪われ、底を打ったのが9月の上旬。これはダメだ、弱ってる、助けてーって、ツマや友人や仕事仲間にSOSを出した。
「底付き」とは、先人たちもうまい喩えをしたもので、こういうのは言葉にして助けを求められた時点でもう回復、上昇基調に入っているのである。別にその後も状況が大きく変わったわけでもないのだが、9月の後半にかけてだんだん心はヘルシーになっていった。上がったり下がったりの波そのものをもう少しどうにかできないものかと思わないわけでもないが、回を重ねるごとに波の乗り方は、溺れかけたときのリカバリーの仕方は、ちょっとずつうまくなっているとは思う。
…ということを9月の終わりに振り返って書こうと思っていたら、もう10月半分終わったってよ。まじ。まぁしかし、1日1日を過ごすなかでの焦りはなくなった気がする。ようやく暑さが和らいできました。いやぁ暑かったね。
状況が大きく変わったわけでもなく、急に気力体力が充実してパフォーマンスが上がったわけでもなく、言わずもがな、相変わらず、儲からない日々なのだが、一つ自分で「変えた」ことがある。底を打って浮上しだした9月の中ごろから、もう「作家」と名乗ることにした。いまこういうことを書こうとしていて、でもまだなかなか書けてなくて、普段はこういう仕事やプロジェクトをしていて…などと自己紹介の入口でゴニョゴニョモニョモニョしないでスパンと一言そう名乗ってから始める、そのように在る、生きることにした。ヘルシーである。