立岩先生のこと

立岩先生は自分でもたくさん書く人だったが、歴史を遡って書くべきことを書き記していくには到底一人では間に合わないこともよく分かっていたからからこそ、後進の教育と、数多の資料のアーカイブ(それは仕事を引き継ぐ誰かが現れたときの結節点・参照点となる)に力を入れてきたのだろう。

先生は2022年3月に『遡航』というオンライン雑誌を立ち上げたのだが、その運営を手伝ったのが先生と最後にご一緒したお仕事になった。この雑誌を運営しながら、叢書を編んでいく構想もあって、それも途中まで進んでいた。以下は、その遡航の巻頭言。

 原稿がたくさん査読で落とされる。査読をいちどでもやったことのある人はわかると思うが、それははかなりの部分、もっともなことだ。そのこと自体をどうこう言うつもりは、ここではない――そのうち言う。ここではそれより、そんなことをしている間に、あるいはその手前で怖気づいてためらっている間に、いやそんな仕組みがあろうとなかろうと、思いがあろうとなかろうと、とにかく、書かれないことが多すぎる。それがよくない。おびただしい過去のことそして現在のことが調べられ書かれることがないまま積み上がる。積み上がるならまだよい。知られず忘れられたことは、消えていく、あるいは最初からないことになる。それは未来の構想も痩せたものにする。誤らせることにもなる。
 だから、書かれるべきものをまずたくさん書いてもらう。それを、何度でもやりとりし、よくしてもらって、よくなったら、載せていく。職業研究者になるつもりなどなく、査読なんかどうでもよという人には査読付きでないただの論文という形態でも掲載させてもらう。ただその場合でも、間違いを指摘し、意見を言い、よくなることを期待し、よくしてもらう。さらに、資料を資料として提示する、その営みにも場を提供する。
なにがよい、の基準になるのか。そのことについても考えることはあるが、それは、また次の号に、もっと長い文章で述べることにする。とにかく調べられ書かれることが、あまりに調べられ書かれていない。それはほんとうにまったくだめだ。それだけは確実に言える。それで、日頃忙しい忙しいと言っている人たちが、なんでわざわざこんなことをと言われるのだろうが、この雑誌は発刊された。ごくごく真面目に、言論状況全般が改善されるまで、1000本掲載されるまでは、続けていこうと考えている。
立岩 真也「緒言」 2022年3月 『遡航』001号 p.2

ある日の立岩邸での飲み会、僕と島影さんが知り合いを呼んで、予想よりたくさん集まっちゃって(ごめんなさい)たいそう盛り上がり、こんなに来るなんて聞いてねえぞーと先生は文句を言いながらも自家製野菜やらお酒やらでもてなしてくださった。偶然、学会で京都に来ていた医学書院の白石さんも飛び入り参加、途中で本の話題になった。そのとき先生は、一人の人間が生涯で書くべき本は1冊、2冊ぐらいのものだというようなことを言っていた。その割に先生分厚い本たくさん出してるじゃないですかーと即座にツッコミが入ったのだが、言わんとすることはわかる。一人の人間が、その「生涯で」、その人の個人史と社会史・世界史が交錯するなかで、他の人ではなくその一人が「書くべき」本、いわゆるマスターピースとなるような本は、やはり1冊、2冊あるかないかのものだろう。もちろん、そうではない本が要らない、質が低い、ということではないし、その「一冊」というのも、無から突然生まれてくるものではない。読んで、書いて、聴いて、書いて、話して、書いて、考えて、書いて、また書いて、と、無数の断片の集積の先にその「一冊」が書けるかもしれないし、書けないかもしれない。しかし、結果はどうあれ、書いたものは残るし、書いてきたものを編むことで生まれる本もある。

先生の出した本は確かに分厚いものが多いのだが、開いてみると、Webや雑誌などで先生が書いてきたことの再編・変奏もそれなりにあり(つまりその本で語られることの一部は別の場で既に出会っていることもある)、また本文と同じぐらい脚注がたくさんあるので、見た目の分厚さと、俗に「立岩文体」と呼ばれるもの(僕はあれけっこうリズムが合うのか読みやすくて好きなんだけど)によって(潜在)読者の心理的ハードルが勝手に高くなりがちな面もあると思う(とか言って僕も全部は読めていないのだが)。

先生はたくさん書く人で、分厚い本も確かにたくさん出しているのだが、その「分厚い本」たちが編まれる以前に、毎日毎日、大学や研究室や自立生活運動関係の色んなメーリングリストへの投稿や、色んな人へのインタビューや、学会やシンポジウムでの講演や、雑誌への寄稿や、科研費の申請書や、教え子たちの博論審査へのコメントや博論本への巻末解題原稿や、色んなところで書いていた。そしてそれらは差し支えがない限り、また作業が追いつく限り、基本的になんでもarsvi.comにアーカイブしてきており、それをまた色んな機会、文脈、テーマに応じて参照し直し、加筆修正を加え、息を吹き込み直してpublishし続けていた。

『遡航』という雑誌(その背後には、先生が次々色んな人に声をかけて「よろしくです」って追加していった200人以上のメーリングリストもある)は、そういう途切れのないプロセスとしての「書く」ことを、先生の属人性に依存しない形で展開していくためにつくられたものなのだろうと思う。

リサーチクエスチョンとか研究・執筆計画とか学問上の意義とかそういうのはどうでもいいとは決して言わないが、しかし、そういう「あかでみつく(酒飲みながら皮肉と愚痴混じりに先生が言うことがある)」な評価基準にすぐに達しない(査読が通らない)からといって、それで落ち込んだり悩んだり自分を責めたりする時間があるならとにかくまず取材して資料集めて書き残していけと、手を止めるなと、院生に対してはいつもそんなふうな指導をしていた。

博士取ろうとするならそりゃあそれなりの理屈とお作法は必要になってはくるが、それよりも、あなたの問題意識と、あなたが飛び込んでいる、飛び込むことができるフィールドはユニークで、そこから面白いものは必ず書けるはずだから、まずは会うべき人に会いにいって、その人が生きているうちに話を聞いて可能な限り書き残していけと、特に昔の障害者運動の担い手なんかは、高齢化と障害・疾患でいつ死んでしまうかわからないんだから、お前ら早く行けと、いつも口酸っぱくして言っていた(実際、そうなのである。先生と出会ってからのこの数年だけでも、先生より先に、色んな人の訃報を受け取った)。

それはもっともなことで、しかしそうした「断片」「途中経過」を書き残すきっかけや掲載する媒体やそれを「もと」にした掘り下げの相談・議論の場が足りないから、既存の学会・学術雑誌や大学院内の研究指導・学内紀要などとは違う立ち位置で、(そこには先生の問題意識・問題提起も含まれていたが)補完的な媒体として『遡航』を機能させたいと考えていたのだろう。隔月刊行・完全オンライン、さらに「緩めの本」として叢書シリーズを立ち上げるなどという強行スケジュールを堅持しようとしていたのもそういう意図があってのことだと思う。

で、鈴木は博論どうすんだ、なんか書けば書けるだろう、そうですよねぇどうしましょう、なんて相談の合間に、誰か書く人いねえかなって先生がストックしているテーマをいくつかぶん投げてもらって、その一つが「闘病記」(をはじめとする、病・障害・痛みを経験した人のナラティブ)とそのアーカイブについての研究で、まぁやってみますわってことで遡航に2本論文書いて、社会学会のシンポジウムで発表して、叢書の1冊目はアーカイブをテーマにするから1章担当してってことになって、その原稿を書いていたところで、立岩先生が先にがんで行ってしまった。まったくもう。いつか僕が生涯の「一冊」を書けたときに、立岩先生に巻末解題を書いてもらうという目論見は叶わなくなったのだが、そんなことを考えてうんうん溜め込んでいる暇があったらとにかく書けるところからどんどん書け、という話なのだ。それが立岩先生の「指導」である。

「よろしくです」
「はい」

川を遡るのにさほど大きな船や荷物は要らないこと、航路は人の数だけあり、自分で見つけなければならない一方、それらは存外に色んなところで繋がり、交わり得るのだということ、道半ばでも記録を遺しておけば誰かが後に続いてくれるかもしれないことなどを、立岩先生から教わりました。教わった、というより、示してもらったという方がただしいかもしれません。
(1月27日に京都で開かれた立岩先生を偲ぶ会で、メッセージ投稿フォームに書いたもの)