日本の人は、「mixi」という単語を聞いて、即座に自分の黒歴史がフラッシュバックしてヒエッとなる人と、「なんですかそれ?」という人と、2種類に分けられる。
楽しかったこと、悲しかったことをシェアできる相手がいることと、親密な相手や集団においても「わたしだけ(あるいはわたしたち二人だけ)のナイショ」を抱えられることは、同じだけ、いやもしかすると後者の方が大切かもしれない。
「冬季うつってあるじゃん、それの夏版みたいな状態だったんだな、俺は。夏季うつだ、夏季うつ」
と、リビングに寝転がりながらぼやいてみたら、
「それはね、ただのうつだよ」
とツマに返された。正しい。ツマの言うことはだいたいいつも正しい。
それは、考えると同時に味わうことであり、確かめると同時に驚くことでもある。
スポーツをする人がストレッチをするように、ピアノを弾く人が指ならしをするように、ものを書くことも身体運動なのだから当然、なんらかの準備体操をした方が良いだろう。
立岩先生は自分でもたくさん書く人だったが、歴史を遡って書くべきことを書き記していくには到底一人では間に合わないこともよく分かっていたからからこそ、後進の教育と、数多の資料のアーカイブ(それは仕事を引き継ぐ誰かが現れたときの結節点・参照点となる)に力を入れてきたのだろう。
「中年」のはじまりはいつかというと、人生において、増えるもの、得るものよりも、減るもの、失うものの存在感が上回ったときなのかもしれない。
僕がどれだけ役に立てているかはわからないが、起業家たちが、出会うべき人や課題と出会い、手を取り合えるようにと願って伴走している。言葉、対話、物語は、暗闇のなかで自分と相手の「輪郭」を浮かび上がらせる助けになる、かもしれないと思う。
書かなくても生きていけるのだが、しかし、書かないことで、書く習慣が途切れることで、自分が世界からなにかを感じ取り、世界と関わり、世界と語り合う、動機、アンテナ、関心、視点、発想、言葉、何もかもがじわじわと鈍っていく。
一言で言うと、僕はこの数ヶ月でバカになったのではないかという気がする。出涸らし、である。緩慢な退化。
朝起きて、夫に近所の小川珈琲にモーニングを食べに行かないかと提案する。スクランブルエッグの載ったプレートが美味しそうで、前々からずっと気になっていたのだ。
1週間に1,2日ほどデジタルデバイスから離れて、体を動かしたり青空の下で働いたりしたい。先週ふとそう思った。
「崖から飛び降りながら飛行機を組み立てる」という、スタートアップ業界で有名なたとえ話がある。
僕がいま書いているもの、書こうとしているであろうものは、なんだろうか。「こういう飛行機」と言葉にできる程度の設計図も、まだない。飛行機ではない可能性が高い。井戸を掘るような行為に近いかもしれない。ただ今はまだ、どこを掘るかも探り探りだ。リソースの調達方法や、そこに働く力の違いはあるが、自分が手を動かさなければつくれないし、のんびり手をこまねいている時間はない(墜落するなり喉が枯れるなりして死んでしまう)ことは同じだ。
いま原稿用紙に書きつけているものは、まだ筋も構成も人物も物語もあったもんじゃない、セルフ箱庭療法みたいな、小説「以前」の何かでしかない。もうしばらくはこうして身体を動かして出していくので精一杯かもしれない。妊娠初期。
九州、大分から押切真人さん(自立生活センターおおいた)、長崎から山口和俊さん(長崎自立生活センターこころ)が東京に来てくれるとのことで、11月3日にNPO法人ALS/MNDサポートセンターさくら会の東京メンバーで「秋のお出かけ」を実施しました。
僕はいつ会っても、「不安定なまま安定している」というような評をもらった。
トピック
・チェックイン
・メールマガジン「コトナル」について
・ウェブサイトのリニューアルについて
・最小単位の出版について
・みんながいい感じに楽しく食っていける方法について
・この定例会について
ひとつずつ、世界との信頼を取り戻していって、そしてひとつずつ、執着を手放していっている
人生は素晴らしい。生きるに値する。そのことを僕はちゃんと識っている。何があっても大丈夫なのだ。
ゆうへい
・『リコリス・リコイル展』たのしかった
・前半は京都、小田原と日帰りで遠出続く
・後半はツマ・ムスコのコロナリレーで濃厚接触自宅待機(私はなぜか無事)
ゆり
・1億年ぶりにプリクラ撮った
・初コロナ
・私からのリレーでお熱のあおくんが全然寝なかった、その寝不足をそのまま半月は引き摺ってる
・はじめての経鼻胃カメラでピロリに出会う
いちか
・スヌーピーランドに行っていっぱいのスヌーピーに会えて嬉しかった
・クレーンゲームいっぱいして楽しかった
・ショーンカフェに行って席がブタさんの隣だったのがめっちゃ嬉しかった
あお
・ハイハイで毎日冒険
・初お熱、初コロナ
生活をどうつくっていくか、つくりかえていくかは、それはもう、表現に直結する話です。