ココルームで、秋葉忠太郎さんの言葉と出会う。
心に穴のあいたまま、それを埋めるかのように、埋まらないとしても、言葉を紡ぐ、字を書く、詩を詠む。
一昨年大きいのを切ったのに、またいぼ痔が再発して手術。
これからも隔年でビエンナーレみたいにいぼ痔を切る人生になったらどうしよう。
そんなに何回も育たなくていいですよ。
経過や結果がどうあれ、生きている限り生きていって、動いていく、動いた結果、何かが変わったり変わらなかったりする、変わらなかったとしても、そうだったという結果を一つ得ることができる、その繰り返し、生きている限り続く。僕は作家なので書いていく。書いて生きていく。旅は続く。
遠くの友人たちに手紙を書いたり、電話をしたり、メッセをしたり。
15年が経つ。
夕陽に照らされた運動場を子どもたちが元気に走り回っている。
美しかった。
黄金の冬。
同時代を生きて、出会って、関係をむすぶことができるのは、よくよく考えると、とてつもないことだ、奇跡的だ。
Geminiに調べ物やドラフト作成してもらって、一段落したときに毎回「ありがとうございます」と返してるんだけど、人間と違うのは、私のお返事でやり取りがクローズされず、またGeminiが必ずなんらかのリアクションを返してくれる点で、これは余計な電力を消費しているという意味で地球環境のことを考えれば”無駄”なのだが、でもなぁ、誰かが納品してくれたときにノーリアクションってのは発注者としてははなはだ失礼なわけで、私としては人だろうとAIだろうとちゃんと一言お礼を言って終わりにしたいわけで、うむむ、というのが最近の地味な悩み。
とにかくたくさん浴びて、浸す。PhilosophyとCultureの理解、理解というか、コアのところを、非言語も含めて、感じる、掴む。こればっかりはAIに投げられない。
芸事、芸術、表現に生きる、表現者、作家、アーティストとして生きる過程での、傷、痛みについて。 何かを追求する、突き詰める過程で、他の何かを捨てることになったり、誰かを傷つけてしまったり。それ自体は決して芸術家の必要条件でも十分条件でもないし、大成したからといって開き直ったり免責されたりするものでもないだろうが、しかし往々にして、なかば必然的に起こる。 良い悪いでもなく、選ぶ選ばないですらなく、そのように出会ってしまい、そのようにしか生きられない、やめるという選択肢ははなからない、そういう人間、そういう生というものがある。
全容が見えないなかで「賭け」に乗ってくれる編集者がいてこそ作家は前に進める。
山にはほとんど登らないけれど、9合目を越えてから、最後の1合が一番大事だとか大変だとかいう話。
わたしとあなたが一度「関係した」、関係がある、という事実は、その後会えなくても肉体が滅びても関係なく、関係は、あり続ける。
先生がそんな話をした月末。
何一つとして同じ出来事はない。呼吸と姿勢。
つまりキーボードをカタカタやってるこの手も媒介に過ぎない。
もう9月が半分過ぎたということに驚きを隠せんのだが、そんなこと言ってたらもう年末迎えるんだろうな、きっと。いろいろ間に合うのかなとか思ってしまうけど、しょうがない。
家から保育園まで子どもの足でも2,3分とかからない距離だが、鳥さんの声を聞いたりねこじゃらしを拾ったり側溝の水を眺めたり、毎日が冒険と発見のムスコ氏。
サボるためにちゃんと頭を使う、ということをサボると、結局サボれない問題。
ついこないだ正月が明けたと思ったらもう8月が終わっている。
あの世にはデジタルもフィジカルもなく存命中の私たちが訪ねていくことはできないのだが、先にあちらに行かれた方々がこちらに残していったいろんな宿題があるので、僕に手がつけられるものから手をつけている夏だ。

いつの間にかすっかり春。こないだ正月だったのに。