努めて冷静に、論理的に話そうとしていても、お互いの気持ちにしこりが残ったままではどこまでいっても決定打には至らないわけで、そういう時は身を投げ出して「告白」するということなしには進まなかったりする。
まったくエレガントではない。むしろみっともない。
口数でもなく理屈の立派さでもなく、吐き出された言葉がどれだけプリミティブなエネルギーを持っているかでしかない。
どもっていても、言葉少なでも、むしろそれがその人の「叫び」だったりする。
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努めて冷静に、論理的に話そうとしていても、お互いの気持ちにしこりが残ったままではどこまでいっても決定打には至らないわけで、そういう時は身を投げ出して「告白」するということなしには進まなかったりする。
まったくエレガントではない。むしろみっともない。
口数でもなく理屈の立派さでもなく、吐き出された言葉がどれだけプリミティブなエネルギーを持っているかでしかない。
どもっていても、言葉少なでも、むしろそれがその人の「叫び」だったりする。
たとえば、どれだけ表向きには「愛されるコミュニティを」と聞こえのいいことを言っていても、裏で「囲い込み」とか「刈り取り」と言ってれば、結局それはユーザーを冨の収奪の対象と見ているということである。
と、言い切ってしまうと「いやいやそれはあくまでマーケティング用語として便宜的に使ってるだけでしょ」という釈明を受けるかもしれないが、用語というのはそれが使われる背景となった世界観が前提にあるわけで、それを無疑問に使い続けることが自身の思想・信条も徐々にその世界観に浸しているのだということには自覚的になった方が良い。
「便宜的に」とエクスキューズを入れるよりは、内部向けと外部向けの言葉遣いに乖離がなく一貫している方が、どの相手とも自己矛盾を起こさず気持ちよくコミュニケーションを取ることができる。
あるボキャブラリーを選択することで、自分がどのような世界観に依って立つことになるのか、あるいはそれを言葉として発することで、相手にどのような印象を与えるのか、「類義語」と言われる言葉が複数あったとして、あえていずれかを選ぶことによる微細な違いは何か。
そういったボキャブラリーの裏側にどれだけ敏感であれるかが、自己理解の解像度や、相手に届ける情報の強度に繋がってくる。
ソーシャルセクターにビジネスの視点、用語、方法論が持ち込まれたことによる功罪。良い部分ももちろんあったのだろうけれど、背景の世界観の違いに鈍感なまま、それを何にでも適用できると思ってマーケティング用語をぶん回してしまうことで、見失うものもあるだろう。
朝、テレビの週間お天気予報で「今週も危険な暑さが続きます」と言っていたのが地味にインパクトあって、「暑さ」に「危険な」という形容がつけられることってなかなかない。
この暑さは私たちの身体に「危険」が及ぶレベルだということである。改めて文字にすると恐ろしいものがある。
学校にエアコン入れるのに住民投票がなされて反対票が3万集まったとか、五輪の暑さ対策には打ち水とか、あまり大きな話をしたくないた思いつつ、さすがに「この国大丈夫か」と心配になる見出しがタイムラインに流れてきている。もうね、たぶん偉い人含めてみんな暑さで頭クラクラして判断力がこうアレな感じになってる可能性もありますが、身体に「危険」が迫ってきている暑さなわけですから、とにかく周りがどうこうじゃなくて銘々に出来うる限りの自衛した方が良いかと思う。
友人が男性用日傘を買って超快適って言ってたので僕も週末買おうかな。問題はすぐ忘れたりなくしたりしそうってことなんだけど。
暑さが本格化する前からのことだけど、通勤ラッシュが嫌すぎるのでなるべく6時台に出勤する超朝型スタイルに変えており、そのことをもって「これは実質的にひとりサマータイムなのでは」って昨日ツマに言ったら「いや夜まで働いてるからそれサマータイムじゃなくて単純に労働時間増加」と返されて「ホンマや!」ってなるみたいな、私も暑さで脳みそやられてんなという感じなのですが、とにかくみなさんくれぐれも安全第一でどうぞひとつ。
これは「危険な」暑さなわけで、我慢は美徳だとか昔はどうだったとかそういうの全力スルーで安全確保ですよ安全確保。
会社着いた。金曜日がんばろ。
チームで働くというときに、強みを活かそうとか多様性を活かそうとかそういう話がよく出てくるけれど、これをスキルとか専門性に応じた分業みたいに矮小化するとかえって変な話になるという感覚がある。
一人一人の成長の時間軸とか、現在組織が置かれている制約や期限とか、そういう前提条件の中で全員の持てるリソースをより善く活かし合おうぜという話であって、専門性云々というより、その環境の中でその人に「いまできること」は何か、ということに着目する。
原典不明の(探せばあるかもしれないけど)、使い古された教訓フレーズで
「若者には時間と体力があるがお金がない、壮年はお金と体力があるが時間がない、老人にはお金と時間があるが体力がない」みたいな話あるけれど、これは別に年齢の話だけではない。
スキル的にジュニアであったとしても、シニア(スキルはあるけど時間はない)に目標やその追い方を整えてもらったら、あとはそこに時間とエネルギーを投下することが出来れば立派なチーム貢献なのだから、どっちが偉いっていう話でもない。
「できることにフォーカスする」というのは、「お互いが持てるものを差し出し合う」ということだろう。
でも、だからこそ、誰もが不完全であることを前提に、自分自身の持てるものをちゃんと出し切ることにコミットする、自分のキャパシティに対して誠実である、というのは大事だと思うのだよな。
最近はもっぱら編集者の採用・育成のこと考える日々。正確には、事業と、メディアと、コンテンツの成長ビジョンとセットで、それに追いつき追い越せするような形で、ちゃんとビジョンを実現可能な人材が揃っているという組織状態を維持するためには、今からどんな計画で採用・育成していけば良いのか?という問いであって、うへーって感じ。
ここ2年ぐらいはザ・新規事業って感じで遮二無二走り抜ける日々で、要所要所で幸運にも素敵な人と出会って採用できたり、立ち上げ当初からいたメンバーがチームを支え、成長させてくれたりでなんとかなってきたのだけど、だいぶノウハウも溜まってきて、最初の事業より次の事業、その次の事業と、どんな風にコンテンツ制作やそのためのチームが立ち上がっていくのか、だいぶ再現性を持って見えてくるようになったと思う。
伴って、人材採用・育成においてももう少し再現性・計画性を持って進めないと、ちょっと間に合わんなというスピード感と規模感にはなってきたので、色々と急がねばです。
自分たちがつくってきたコンテンツの良し悪しを構成する要素の因数分解ができる、また良いものをつくるためのチーム・個人としての方法論を言葉で説明することができる、という能力は、職業的編集者・ライターとして、特に事業会社でやっていく上では必須スキルだなと思うけれど、いろんな年齢・経験の方と面接する中で、それが必ずしも多くの方に備わっているものではないということがわかってきた。
このスキルについては、年齢やこなした案件の数はあまり相関しないようて、経験年数が一定程度あっても、「ふわっとした感覚」でやってきちゃっている人が少なくないのが正直なところ。
ただこれは、これまでメディア業界の会社や編集部組織が、編集者・ライターのそういう能力を明確にしたり伸ばしたりすることをしっかりやってこなかったことのツケであるかもしれなくて(僕は昔のことは知らないけど…)、少なくとも事業会社として自分たちで編集部組織を持ってやっていく以上は、ちゃんと人が「育つ」仕組みとエネルギーを内部に溜めていきたいし、私たちが採用時に求める「人物像」というものが、より明確に外部に伝わるように発信していかねばなと思っている(より良いマッチングを目指すという意味でも)。
「別に今でもそんなに余裕があるわけじゃないけど、毎月の家賃や食費もギリギリだった4,5年前と比べると、少し先々のことを考えられるぐらいにはなってきたね」
昨日の夕方は友人の結婚披露宴にお呼ばれしていて、同じテーブルになった4人でそんな話をしていた。新郎含めた彼らとは、出会ったタイミングが微妙に違うものの、だいたい6〜7年ぐらいの付き合いで、田端のとあるシェアハウスの住人だったり(正確には僕だけ住んでないのだけど東京に家がない時期にしょっちゅう泊まっていた)、東日本大震災のあとに一緒に東北に行っていたり、大学にいた期間が通常より長かったり、誰一人一般的な就職活動をしていなかったりと、そういうあたりで共通点があるつながりなのだが、まぁとにかく当時はカネがなかったのだ。
それが、気がついたら30歳を向かえており、それぞれに結婚をしており、おやまぁなんとって感じ。仕事の方は、会社に務めたり会社を興したりお医者さんになったり変わらずフリーだったりパラレルだったりそれぞれなんだけど、一応は自分の職能でもっておカネをどうやって稼ぐかがわかっていて実践できるようにはなっており、月々の家賃や食費に不安を覚えるようなことはなくなった。むしろ、自分だけで食っていく分には別に困らないんだけど、家族やチームや会社、かかわる人たちと持続的に今後も働いて暮らしていくには今からどうしておけば良いのか?ということが悩みどころになってきていて、つまり僕たちのなかに、ようやくまともな「投資」という物差しが備わってきたと言えるのかもしれない。
この日話題の中心になったのは、家とか土地とか、つまり中長期的に「どこで」住むのかという話。
地元で土地と家を安く買えるかもしれない話とか、ニュージーランドの人はライフステージに応じて家を替えるのだけど、ちゃんと手入れをして購入時より価値を上げて売るから家計収支としては全然ペイするんだという話とか。さすがにそんな金がいま即日キャッシュでポンと出るほどの経済状況ではないのだけれど、それでも短期的に仕事の量を増やして一気に貯蓄をつくるとか、ローンを組むとかといった、ちょっとした「踏ん張り」によってまったく不可能ではないぐらいのオプションにはなってきた。
2年前にこんな記事を書いた。カネがなかった頃の話だ。
この中で、卒業直後のカネがなかった頃に、企業にちゃんと就職した同級生たちは新卒一年目から資産運用の話をしていて、そんなものが基礎リテラシーとしてもう備わっているのかと内心仰天したものである。
いまもまだ、投資信託みたいな、まとまったお金を運用して増やす、みたいなことをしている/できる状態ではないのだけれど、それでも、もう少し広い意味での投資…生まれてきた子どもの将来を考えてお金をどう使ってどう積み立てていくか、どこに住んで家をどうするのか、自分がいまやっている仕事の中長期的な成長に向けて、いまどんな人を採用して、どういう計画で育成していくのか、歳をとって自分自身の体力は衰えていくなかで、いまどこに労力を投下するのか…などといった、ちょっと長い物差しを持てるようにはなった。
振り返ってみても、昨日同席したメンバーそれぞれ、当時はそうせざるを得なかった何かがあったのだろうし、仮にもう一度人生やり直したとしても、そんなに器用に立ち回れなさそうだ。結局キャリアとか暮らしとかおカネというものは、自分にとってしっくりくる付き合い方を、試行錯誤しながらつかんでいくしかないように思うから。
ま、30歳成人説ってことで、ちょーっとだけオトナになりましたか、私たち。
暑い日に立ち寄ったセブンでアイスコーヒーをラージサイズにしたり、スーパーに食材を買いに行ったついでにハーゲンダッツをカゴに入れたり、ランチにビールやワインをつけちゃったり、披露宴から二次会会場への移動に大した距離ではないけど疲れるからとタクシー捕まえちゃったり、そういう日常のちょっとしたプラスオン出費をするときに、僕は同行者に対して「オトナだから」と、言い訳なのかなんなのかよくわからない定型句を発することがあるのだけど、つまりそういう衣食住の余分な部分において選択権を持つことが出来るようになったのがオトナの楽しさである。我ながらスケールが小さい。
他の家の子とか、現代っ子たちは違うかもしれないけど、子どもの頃は、そういう「日常の些細な贅沢」というのは、なけなしの小遣いを貯めてようやく買えるものであったり(それでも総額所持金は少ないので一個の贅沢のインパクトは大きい)、親に頼んで買ってもらうものであったり(そこにはなんらかの"理由"が要る)、そもそも年齢不相応でオプションとのならないものであったりするから(お酒は飲めないし、タクシーに乗る場面がそもそもほとんどない)、決して日常でも些細なことでもない、ちょっとした非日常の冒険である。
子どもが贅沢を「選べない」のは、そもそも自分でお金を稼いでいなかったり、自己責任のもとお金の使途を判断しマネージする能力が育っていなかったり(ゆえに保護者が代行する)ということなのだと思うが、子どもかオトナかという線引きも、よく考えると極めて曖昧なものなので、もう少しケースバイケースで、子どものうちからでも自律選択可能な事柄については、子どもに任せちゃっていいのではなかろうか。
自分が「オトナ」になってからというもの、未成年でも自分の職能で立派にお金を稼いでいたり、自分でそれぞれの選択肢を吟味して進路を選んでいたり、そういうしっかりした次世代の子たちに出会ってきたが、そこまでのレベルでなくとも、親子でルールを決めて「家庭内通貨」を作ってしまうとか、子どもが自らの責任とアクションで「選択権」を得られる幅は、僕が子どもの頃よりもうちょっと広げてあげたいなと思ったりする(ムスメ、まだハイハイもしないけど)。
もう一個、オトナの権利として、一定働いたら「有給休暇」が付与されるじゃないですか。明日は有給使って休んじゃおっかな、温泉でも行こうかなみたいな。
子どもは、よっぽどの熱が出るとかしないと学校は毎日5-6時間朝から夕方までみっちり参加、みたいなのが前提になっているけど、子どもにだって「有給」があってもいいじゃないのと。1日2日休んでも家庭学習・自主学習でキャッチアップできます、あるいは小テスト・レポート提出で代替します、みたいな条件付きで休んでいいみたいなやつ。
っていう話をツマにしたら、最近は「げんきやすみ」って言って子どもを平日に遊びや旅行に連れていったり、どこかに出かけるわけではないけどちょっと休んで元気チャージするようにしている家族もいるよーって。なんだ、もうあるのか。いいじゃん「げんきやすみ」、響きがいい。子どもが大きくなったらそういうの積極的に導入していきたい。
「仕組み」とか「ルール」というのは、それ自体が目的だったり偉かったりするのではなくて、チームで同じ目標に向かって最大限に力を発揮するために、継続反復的な業務の効率を上げたり、その分生まれた余剰時間・エネルギーをよりクリエイティブな仕事に向けたりするところにその意義がある。
もちろん、仕事をしていると、状況は刻一刻と変わっていくし、やっていくなかで新しい論点が見つかったり、前提条件が変わったりすることも珍しくない。また、仕組みやルール自体が至上命題になって硬直化することも望ましくない。
とはいえ、一度チームで「決めた」ことに対しては、まず全員がその型でやり切る、ということは最低限の礼儀であり責任であり、信頼である、と思う。
それが永久不変のものではないにしても、その時運用している仕組みやルールは、今現在の見通しから、これは揃えて運用していくのが重要だよね、効率的だよねという判断のもとつくったものだから、一定の耐用性・妥当性はあって然るべきであるし、その意義を検証するためにも、しばらくの時間はきちんと決めた通りに、全員が運用しないと話にならない。
「現状の仕組みでは、○○な点に対応できないのでは?」といったイシュー提起は誰もがすれば良いし、その結果より仕組みが洗練されていくと良い。ただ、イシュー提起がされた後には、再度検討して、ちゃんと意思決定をしてからフォーマットを変える必要があって、合意を取らないままに個人で勝手に運用を変えるみたいなのをごっちゃにするとみんなが困ったことになる(バラバラな入力をする、やると決めたことをやらない)。
本質的には、より良い方法で目的に向かって進むことができればそれでいいのだけど、方法そのものを疑う・柔軟に議論するみたいなものと、決めたことをちゃんとやり切る、みたいなものを、ふわっとぐにゃっとごっちゃにすると、よくない。とてもよくない。これは信頼の問題だから。
なんにせよ、物事を「スイスイ進められない」時期というのはあるのだけれど、「なかなか進まない」ということの背景や実態はさまざまだ。
①一見停滞気味だけど、次の追い風に向けた凪の期間と捉えて、試行錯誤の手は止めず、やれることを愚直にやり続ける、という状況
②自分にコントロールできない外部要因としての雨・風・嵐が来ていて、とにかく振り落とされないように、沈まないようにと、自分たちの身を守ることに技術とエネルギーを尽くしながら、いつか来る晴れ間を信じて耐えている、という状況
③もう船底に穴は空いていて、無駄な抵抗と感じつつ、少しでも船やみんなの命を引き延ばすために、必死で水をかき出しながら、来るかどうかわからない救助船に一縷の望みをかけている、という状況
未来をどれだけ前向きに信じられる状況か、ということと、状況がどの程度アンコントローラブルかによって、ずいぶんとかかってくるストレス、精神的疲労度は違ってくる。
人間がしんどくなるのは、体力的なしんどさだけではなくて、セルフコントロール感が持てないことによる精神的なしんどさも多分にあるので、そういう場面でのお互いのケアやサポートをどれだけ出来るのかというのが、組織のレジリエンスとして重要なのだろうな。
もちろん上記は単なるメタファーだし、実態としての状況と自分たちの認識にギャップがあることだって少なくないので、詰んだと思ってもまだまだやれることが残っていたりもするんだけど。
もっと言うと、同じ困難な状況下でも高い精神性を保つことが出来るかは、(それまでの生育歴込みで)やはり個人の差というのは出てくるわけで、それはフランクルの『夜と霧』で教わったことでもあるなぁ。
そもそもそんな状況にしないために平時から手は尽くすのだけれど。
既存の概念で自分たちの活動をしっくり説明し切れないなと思ったら、「とりあえずの名付け」に逃げないで、しっくりくる言葉や概念を見つけたり作ったりできるまで、そこに留まらないといけない。
時代や世代共通の価値観やムードというものがあって、なんとなく共通する、大きく向いている方向は同じ/似ているよねというような感覚を抱かれたり、そのような確認や語りかけをされることはあると思う。
そういうふわっとした「世代感覚」とか「界隈感」みたいなものもまた、それを先んじて予見し捉えていた人がいて、すでにその概念に名前が与えられていて、みんなもその言葉をとりあえず使用して、自分たちや自分たちの活動をdescribeする、ということがある。
だけど「すでにある」概念で自分たちの活動の本質を捉えられている感覚を持てないのであれば、惰性でその概念を使い続けるのは、かえってリスクがあるように思う。
ダイバーシティとかコミュニティってとりあえず言っちゃうのは容易いのだけど。ほんとにそれが目的や価値だと思ってやってる?という問いかけ。
新しい概念をつくるということに、サボらずちゃんと向き合った方が良い。
私たちが向き合っているのはどんな人で、その一人の人生が、私たちのサービスや、私たちとのかかわりを通して、どんな風に変わっていくのか、「物語」としてまず描いてみる。
それを、一番手触り感のある動詞や形容詞で表現してみる。
既存の概念と違う感覚を覚えたなら、そこが新しい概念を開いていく契機なのかもしれない。
カタログを並べられて、「そのどれでもない」と言えることをする。
「これでいいですか?」と決裁者にお伺いを立てるような納品の仕方はあんまりよろしくないなと思う。
大抵の場合、つくる人と見る/決める人の間で基準がすり合ってなくて、結果つくる人に迷いが出ている時だから。
「これでいいですか?」と伺いを立てる背後には「これでいいのかどうか私には分からない」という迷子感がある。
それはつくる側だけの責任ではなくて、依頼側が作業の目的やアウトプットイメージをより明確に伝えることで大半解決するんだけど、つくる側も不明瞭な点があれば追加で確認取りに行くというアクションが取れるわけで、まぁつまりコミュニケーション取ろうねって教訓に収斂しがいなんだけど。
ただ、そうやって仕事のお作法や納品物の「フォーマット化」を進めるだけでは解決しない問題があるなと思う。
それは「良さ」の物差しとでも言うべきもので、デザインやコーディング、ライティングに編集、果てはプレゼンテーションの試合運びに至るまで、「表現」の質の問題が最後に残る。
それは、「です」と「である」と「なのである」だと相手に与える印象全然違うでしょみたいな文末表現の選択問題から、写真の配置や行間の空け方、そもそもの構成・ストーリー展開の組み合わせに至るまで、高低さまざまな抽象度で「なぜこれが良いのか」を問うポイントが、ものづくりのプロセスの中に存在している。
特定の分野に精通した「プロ」と呼ばれる人たちは、長年の研鑽と経験によって、問われれば「なぜこれが良いのか/ダメなのか」を説明できる。
だから「これでいいですか?」と問われてフィードバックを返すこともできるのだけど、こういう表現の質問題は、最終的に一対一対応の場合分けされたマニュアルに落とすことは不可能か、やったとしても膨大で実用性のないものになってしまうだろう。
じゃあ仕事における細部の質については、弟子/部下が師匠/上司にずっと「これでいいですか」とお伺いを立てるしかないのかっていったら、それでは個人としても組織としても非線形な成長は生まれない。
毎回つくる側が「自分としてはこれが良いと思って作りました。なぜなら…」と説明できるぐらいの(現時点で最高値の)思考と理解レベルで出していく(相手のフィードバック任せにしない)ことが出来ると、お互いのオーナーシップも学習の質も上がって良い。
そのためにはつくる側も見る側にも共通の土台、視点やボキャブラリーがある程度あった方が良くて、それが要は「コンセプト」とか「編集ポリシー」「デザインポリシー」といった、抽象的な価値を言語化した何かが必要になる。
そうしないと「良さ」の物差しが誰かうまい人の脳内にだけあるという状態を脱しないから。
しかしながら、ポリシーやコンセプトというのも、とりあえずつくって、額に飾って置いとくだけでは機能しないので、それを基に議論やアウトプットを戦わせるというのを習慣化していくこととセットでやんなきゃいけない。
惰性が一番の敵。南無南無。
「そんなにマイルドに自分を編集しなくてもいいんじゃないの」
期末面談で言われたことは、確かにその通りで、それが自分をしんどくしているのだなと思う。
1年間、よく働いたし、成果も出した。子どもが生まれたり、担当するチームやプロジェクトが増えて並走したりと、自分のからだひとつに対して向き合うべき「面」は増えたのだけど、どうにかこうにか色々乗り越えて無事年度末を迎えることが出来た。それはまぁ良かったんだけど、まぁそれだけである。
戦略は間違ってないけど、勝つべくして勝った感じがする。
「やるべき」ことはクリアだけど、「問い」が足りない。
手持ちの知識と経験で対応できることに追われていて、新たな「一次情報」を浴びる機会が減っていっている。
これらが全て自分にとって良くない兆候であることは明らかで。気持ちのよくない状態が続くのならば、大きく環境を変える必要がある。そうでなければじわじわと年老いて萎れていくばかりだ。
そして、変わりたいのなら、誰かに用意してもらうのではなく、自分で環境をつくるところまでが自分の責任なのだ。30を過ぎたというのはそういうことなのだと思う。
今の職場には、組織やチームとしての成果にコミットする一方、個々人の成長・挑戦を賞賛するいい空気が漂っていて、それが良いエネルギーの循環を生み出している。まだまだ歴史が浅いので足りないことや慌ただしいことばかりではあるけれど、芽生えたものが根っこを伸ばして「文化」になっていけば良いと思う。
「あなたはこれからどうしたい?」とチームメンバーに問いかけるくせに、自分のことを抑えているというのは、やはり健全ではない。
お互いがお互いの挑戦と成長を賞賛する、その結果チームとしても最大限に成果を出せる、という状態が成り立つためには、前提として一人ひとりが何を望んでいるかを言葉にして共有することが重要で、誰か一人でも抑えて隠しているとそれは機能しないんだ。そういうチームをつくろうと言っている自分が一番出来ていないというのは笑い話で、それが冒頭言われたことなんだと思う。
年度末の最終金曜日。
締め作業と、事業部の納会と、隙間にその他もろもろの事務連絡と…と相変わらずのドタバタだったのだが、隙間を見つけて先日面談をしたボスにこそっと話しかけに行って、そこでおずおずと宣言をした。
「次の一年で絶対これをやるから、応援してほしいっす」
「いいねぇ!全力で応援するよ!」
彼は笑顔でそう返してくれた。
「こないだよりいい顔してんじゃん。言葉に出すと気持ちいいでしょ」
ほんとにその通りで、最後の最後にスッと気持ちが楽になった。
やっぱりこの人、すごいなぁって、思う。
次の一年はもうちょっと正直に、欲張っていこう。
それでもきっとやっていけるという信頼を、いま自分と共に過ごしてくれる人たちに対して、抱いている。なのでたぶんきっと、大丈夫。
火曜日朝の燃えるゴミに、オムツのたくさん入った緑の消臭袋が加わった。
まだ日の昇る前、ツマとムスメを起こさぬようにそろりと家を出る(ツマは起きてたかもしれないが)。
なんかちょっと古臭くて嫌だなとか思いながらも「とーちゃん仕事がんばってくるからな」的内心のつぶやきと、1週間の休み明けで、4営業日(今週は全社イベントもあるので実質3営業日)しかない怒涛の日々をうまく社会復帰できるかなというぼやき。まぁとにかく出社である。
先週1週間は有給と週末休を組み合わせて1週間のお休みを取り、しばらくツマの実家にお世話になっていたツマとムスメを迎え入れるためのプチ育休だった。
迎え入れる日に大掃除が全然終わっていないという体たらくだったが、それもなんとか終わり、ムスメの授乳・寝かしつけ・入浴・オムツ替えetc.の諸々を分業でこなしつつ、合間の調理や食事や洗濯や掃除片付けや買い出しやあれやこれやを隙間に済ませつつ、と3人での新生活を進めるにあたってのひとしきりの基礎動作は1スプリント終わったかなという感覚。
合間にちょろちょろとデスクワークをしたり、なんだかんだ1,2回諸用で出社したのだけどwお留守の間もチームのみんな銘々に進めてくれている様子をslackやメールで確認しながらも、比較的穏やかな時間を過ごさせてもらった。
さて今日からまた本格復帰というか、まぁ1週間程度なのだけど、基本的には今まで通り私はフルタイム勤務なわけで、しかし一方で今までのように夜遅くまでオフィスに残るのではなく、食事・入浴のために早めに帰社するみたいな時間の使い方にシフトせねばならんわけで(それもあってここ半年は朝型にシフトしていったのだが)、これから新しい「日常」のリズムがだんだんと刻まれていくのだなという感覚。
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連休の最終日。
「OTON GLASS」の島影さんたちのオフィスを訪問。
父親の失読症をきっかけに島影さんが企画・開発を始めたスマートグラスで、内臓カメラが文字情報を読み取り、日本語・英語で読み上げてくれるプロダクトだ。
noteには動画ファイルをアップできないので画像のみになるが、これがかなりの精度で驚いた。僕が持ってきた発達ナビの媒体資料だが、フォントの文字だけでなく、ロゴに含まれる文字情報もちゃんと読み取ってくれた。英語翻訳も相当なものだ。
当初想定していた失読症やディスレクシアの人だけでなく、全盲・視覚障害の人がヘルパー無しでも手元の物が読み取れたり自動販売機で商品を選べたり、外国人観光客が日本語の標識情報を翻訳で読み取れたりと…さまざまな人の「読む」体験を拡張し、ひいては生活の質を向上させるポテンシャルのあるプロダクトだった。
全盲の人が自動販売機で一人で買い物が出来る、ということにも象徴されるが、人間の身体能力をテクノロジーが拡張することは、単に生活機能を補完するだけでなく、今まで諦めていた社会的・文化的活動を自分でできる・選べるということなのだ。
島影さんはじめOTONチームの皆さんはどなたもお話していてとっても気持ちがよく、あぁこの人たちは「未来」を作ろうとしているんだなぁという、そういう気というかムードというか前向きなエネルギーをもらった気分。
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ほんとは昨日飲む予定だったけどインフルでダウンした東藤さんとチャット。
「子育てしながらでなかなかまとまった時間取れないけど出版に向けてじわじわ書き出してる」という話をしたら、「ナボコフは売れる前お風呂で小説書いてたらしいよ。書く自由はどんな環境でもあるはずだー」と励まされた。
うん頑張ろう。とにかく小出しでも良いから断片を毎日隙間に書いては出すというのは、ベースとしてちゃんと確保・継続しよう。最初から完璧を目指すと手が止まってしまうので。
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夜は友人たちと燻製アパートメントで食事。出産祝いにお花をもらった。
父親になって見る目の解像度が上がった事象があること(新生児系の疾患・障害とか、保育園問題とか)、一方で巷の育児家事系の止むことない炎上案件はどこか手触り感がないこと、個々人の小さな物語、0か100かでない選択の網の目を掬う必要があることなどひとしきり最近自分のなかで高まってるトピックを聞いてもらって、それをちゃんと書こうってなった。「一人で抱え込まないでみんなにどんどん共有してケツを叩いてもらうのが一番良い」という結論だった。
そんな感じの連休最終日。からの火曜日朝。
働くぞー。
立川行きの南武線に乗りながらこのnoteを書いている。
今日は、高尾の方にあるツマの実家に行って、ツマとムスメを迎えにゆく日である。
ムスメはすくすくと育ち、今のところ大きな病気もなく、というか体重が早くも5kgに迫るというビッグドーターであり、先日無事お宮参りや家族写真、1ヶ月健診など、雪が残る高尾の地にてつづかなく終えたところで、産休中から出産直後のおおよそ3ヶ月強とお世話になったツマのご実家を離れ、今日から家族3人での暮らしが始まるわけである。
だけども、問題は、今日の朝、掃除が終わっていないということだ。
ツマを迎えるにあたって、生活を整える意味でも、ツマにわずかばかりのリフレッシュの時間をつくるためにも(銭湯とかマッサージとか)、わたしもムスメとゆっくりふれあう時間をつくるためにも、今日から来週月曜にかけての1週間、まぁ有給と週末連休を組み合わせただけの簡素なものなのだけれど、プチ育休を取ろうということで、昨日2/5(月)までに急ぎの案件はもろもろ駆け込みでぶち込んでガシガシ猛烈に進めていき(終わらなかったけど)、ツマとムスメを迎えるまでに、タスクを一覧化した上で家の掃除・片付けをちょっとずつ終わらせて、そして一週間休むぞー休むんだーというつもりでおりました。
はい。大掃除がまだ終わっておりません。
やっぱり小分けにしてとかはほとんど無理だったので(前日までに40%ぐらいは進んだ。ごめんちょっと盛った25%ぐらいだ。いや20%だ)、もうこれは前日の夜が勝負だ、決戦は月曜日!2/5の夜に全部やる、夜なべして家を超きれいにしてそしてツマとムスメを迎えにゆくのだーという作戦でおりました。
月曜最後の打ち合わせを終えて、渋谷で丸亀製麺を食べ、10時ぐらいに家について、よしやるぞーってなったはずなの。はずなのよ。
でもね、起きたら7時。
どうしてこうなった。
いや私もね、30歳にもなりましたので、自分のことはよくわかっているつもりで、だいたい〆切直前にならないと火がつかないタイプというか、前日前夜が一番パフォーマンス出るというか、なのでほんと、一個一個の案件をギリギリ全開パワー火事場のクソ力を納期直前にグイッと半ば意図的に出してそれで乗り切ってきたタイプというか(合間に〆切を調整するという寝技も使いこなしながら)、まぁでもやるときはやるっていうか、なんだかんだで当日の朝には間に合わせるタイプなんですよ。先日も「悠平さんの〆切ドリブン運用やばいっすね」って後輩に褒められたとこ(褒めてんのかな)。割といい記事書いたと思う、その日。
という矢先にこれよ。
油断、慢心。お腹のたるみ。
なぜベストを尽くさないのか。
オット猛省、ツマ呆れ顔。
とりあえず、ツマに電話で平謝りして、「寝室に避難できる状態にだけしてくれたら、あとは午後やればいいから」というリカバリープランを提示され(よかった!シーツと布団干すという時間かかる系タスクだけ先にやってたのよ。威張ることじゃないけど)、鬼の勢いで寝室にでけクイックルワイパーウェットタイプをかけ、シャワーを浴びてわが家を飛び出しました。
お休み前に色々みんなにメールしたり原稿チェックしたりしながら南武線が進んでおります、なう。noteを書いている場合かと。
昨日はとある大学の先生を訪ねる用事があったのだけど、本題の前に先生のゼミにちょこっとだけ顔を出すことになった。
少人数のゼミだったのと、こちらの仕事の分野とも近く、また彼女たちが就活を控えていることもあり、どんなことを考えているのか質問したり、会社や仕事の内容を少し紹介したりした。
そこで先生から「学生のどんなところを見ているのか、どんな学生を採用したいと思っているのか教えてほしい」とのリクエスト。
色々言ったけれど、要約するに「世界と自分はどう関わっていきたいのかという、課題意識やビジョン」と、「自分が変わっていくことに対する勇気、あるいは素直さ」と、その両方が大事ですかね、みたいな話をした。
で、先生的には普段学生に対して感じている印象や心配事に刺さるものがあったらしく、なんだか盛り上がって。
曰く、ここ最近ふれあう学生の中には、「自分らしさ」なるものにとらわれていてなかなか柔軟に自分を変えていくことが難しい子が多いとのことだ。
何か確固たる「自分」というのがあって、それを確立することが大事で、一度決めたならあまり変えない方がいいんだ的な。
ちょっとメディアの責任もあるかもしれない。「オレ流」とか「自分なりに」とか「私らしい生き方」とかそういう言説が、表層的に受容されがちなのかも。
「自分」というのは無から生まれるものではないから、他者との関わり合いや比較からしか見えてこないし、また長い人生で他者と関わり合うなかでダイナミックに変化していくものだと思う。
当然、長い長い線としてみた場合、誰一人同じ人生を送っている人はいないし、あなたという人は替わりの効かないかけがえのない存在であることは大前提として。
しかしそれは「今」だけ切り取って簡単に見えてくるものでもなく、簡単に箇条書きして「定義」づけられるものでもない。「今」に固執しすぎると未来に変わっていく可能性が損なわれることもある。
ましてや21,22歳の大学生だ。飛び込んで働いてみて変わっていくことなんていくらでもあると思っていた方がいい。
あと、意外と他人の方が自分のことよく分かってくれてたりしてね。就職活動でも、実際に働きだしてからからでも、面接官とか上司とか同僚とかお客さんとか、他人からフィードバックをもらってはじめて気づくこともたくさんある。
「自分らしさ」なんてものはいつ定義したってただの「仮説」に過ぎず、また実際の「自分」というものも定義して捉える間もなく絶えずアップデートされていくものだぐらいに思ってた方が楽だと思う。
(新卒に限った話ではないけど)
日本のシューカツシステムに問題がないとは言わないし、僕はその流れに乗ることができずにフラフラしながらどうにか仕事にありついた口だから、あれなんだけど、色んな可能性に目を向ける機会としては、楽しみながらうまく使うと良いのではないかな。