「これでいいですか?」と決裁者にお伺いを立てるような納品の仕方はあんまりよろしくないなと思う。
大抵の場合、つくる人と見る/決める人の間で基準がすり合ってなくて、結果つくる人に迷いが出ている時だから。
「これでいいですか?」と伺いを立てる背後には「これでいいのかどうか私には分からない」という迷子感がある。
それはつくる側だけの責任ではなくて、依頼側が作業の目的やアウトプットイメージをより明確に伝えることで大半解決するんだけど、つくる側も不明瞭な点があれば追加で確認取りに行くというアクションが取れるわけで、まぁつまりコミュニケーション取ろうねって教訓に収斂しがいなんだけど。
ただ、そうやって仕事のお作法や納品物の「フォーマット化」を進めるだけでは解決しない問題があるなと思う。
それは「良さ」の物差しとでも言うべきもので、デザインやコーディング、ライティングに編集、果てはプレゼンテーションの試合運びに至るまで、「表現」の質の問題が最後に残る。
それは、「です」と「である」と「なのである」だと相手に与える印象全然違うでしょみたいな文末表現の選択問題から、写真の配置や行間の空け方、そもそもの構成・ストーリー展開の組み合わせに至るまで、高低さまざまな抽象度で「なぜこれが良いのか」を問うポイントが、ものづくりのプロセスの中に存在している。
特定の分野に精通した「プロ」と呼ばれる人たちは、長年の研鑽と経験によって、問われれば「なぜこれが良いのか/ダメなのか」を説明できる。
だから「これでいいですか?」と問われてフィードバックを返すこともできるのだけど、こういう表現の質問題は、最終的に一対一対応の場合分けされたマニュアルに落とすことは不可能か、やったとしても膨大で実用性のないものになってしまうだろう。
じゃあ仕事における細部の質については、弟子/部下が師匠/上司にずっと「これでいいですか」とお伺いを立てるしかないのかっていったら、それでは個人としても組織としても非線形な成長は生まれない。
毎回つくる側が「自分としてはこれが良いと思って作りました。なぜなら…」と説明できるぐらいの(現時点で最高値の)思考と理解レベルで出していく(相手のフィードバック任せにしない)ことが出来ると、お互いのオーナーシップも学習の質も上がって良い。
そのためにはつくる側も見る側にも共通の土台、視点やボキャブラリーがある程度あった方が良くて、それが要は「コンセプト」とか「編集ポリシー」「デザインポリシー」といった、抽象的な価値を言語化した何かが必要になる。
そうしないと「良さ」の物差しが誰かうまい人の脳内にだけあるという状態を脱しないから。
しかしながら、ポリシーやコンセプトというのも、とりあえずつくって、額に飾って置いとくだけでは機能しないので、それを基に議論やアウトプットを戦わせるというのを習慣化していくこととセットでやんなきゃいけない。
惰性が一番の敵。南無南無。