僕は恥ずかしい

僕は恥ずかしい
何かを食べている姿が恥ずかしい
軽薄そうに笑った顔が恥ずかしい
流暢に出て来る言葉が恥ずかしい
何か美しいものに出会った時に、簡単に心を奪われてしまうことが恥ずかしい
そのことをすぐ夢中になって話してしまうことが恥ずかしい
誰かの苦しみを見た時に、何かしないではいられない気持ちになって、
何かをした気になってしまう自分が恥ずかしい

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絶望を分かち合うという希望 - 熊谷晋一郎さんインタビュー

「わたし」には、無限の可能性があるわけではない。身体も歴史も有限である。

では、病気や障害による症状、望んでもいなかった出来事や経験……さまざまな「痛み」すらも、自分の人生の有限性として、我慢して生きていくしかないのだろうのか。それとも別の道があるのだろうか。

「わたし」と「回復」をめぐる、熊谷晋一郎さんの物語を辿る。

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YELL

 「生きることは表現することそのものだ」と思ったのはいつだっただろうか。表現という切り口で自分を振り返ってみると、その時々の自分が見えてくるように感じる。

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11 大根引き

 冬は、夏のように毎日畑へ通わなくても、野菜は元気だ。だからつい畑から足が遠のく。先週末も今週末も雨が降ったから、10日ぶりの畑だ。ここ最近のわたしはからだも心もあまり調子が良くなかったけれど、畑に行ったら元気が出るかもしれないという淡い期待を抱いて向かう。

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2. ある浮き草の夢

我が家は祖父の代からの「転勤族」で、私も父の転勤に合わせて、小学生の頃から転校を繰り返してきました。都会から田舎までさまざまな地域で過ごしましたが、根を下ろす「地元」は持てずじまいです。「障害ひとり親」、という現在の立場に至る前から、「転勤族の子ども」というマージナルな立ち位置から世界を見つめていたのかもしれません。

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いびつなものとしての私たち

僕は恐らく軽度のADHDだと思うし、躁鬱病(双極性障害)だろうし、適応障害かも知れないし、まず間違いなくアル中で、他にもなんやかんやあるかも知れない。でも僕にはそういった診断は一つもついていない。たまたま主治医が「そういう」人ではなくて、診断名をつけようとしなかったのだ。一方で毎週新しい診断名が増えていった友人もいる。

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