2. ある浮き草の夢

 我が家は祖父の代からの”転勤族”で、私も父の転勤に合わせて、小学生の頃から転校を繰り返してきました。都会から田舎までさまざまな地域で過ごしましたが、根を下ろす”地元”は持てずじまいです。”障害ひとり親”、という現在の立場に至る前から、”転勤族の子ども”というマージナルな立ち位置から世界を見つめていたのかもしれません。

 今日は、そんな私の幼少期からの”記憶”を振り返る旅にお付き合いください(連載第1回「はじまりの記憶」はこちら)。

 転勤族といっても、馬車で送り迎えをされていた祖父の時代に、父が受け入れ先の学校でちやほやされていた経験と、私の体験はまったく異なります。
 転入した学校では、地元の人たちからは一定の距離を置かれて、この一身を観察されているのが分かりました。よそ者を受け容れることに慣れていない地域ほど、そうでした。よそ者に向けられる目線の成分は、戸惑いが半分、好奇の目が半分といった感じです。
 とはいえ私もまだ小さな子どもでしたから、転校してひと月もすると土地の方言にすっかりなじんで、外から見れば地元の子と区別がつかないほどになりました。しかしそれでも、伝統のお祭やちょっとした集まりなど、地元の人たちの親密な場=コミュニティの”内側”に入れてもらう機会はなかなか得られませんでした。

 それから一年か二年すると、また父に転勤の辞令が出されます。
 せっかく新しい土地で友だちができても、別れは、ほどなくやってくる。

 若い苗木がひたむきに根っこを伸ばしているときに、とつぜん根こそぎにされるなんて、初めのころは思いもよりません。
 新しくできた友だちとは、つたない文字で子ども同士の文通をしはじめるのですが、地元での友人関係が広がるにしたがって、転校生はあとまわしにされ、二年くらいで返信は途絶えてしまいます。
 そうした情け容赦のない別れが度重なると、子ども心にもつらくなってきます。中学生になってからは、どうせすぐ別れることになるのだからと、土地になじもうとか、地元の人と同じ言葉を話そうとすること自体をやめました。

 高校生くらいになると、よそ者の私を遠巻きにしていたはずの人たちが、東京への憧れを私に重ね映し、向こうから近づいてくるようになりました。そうした表面上の「接近」はありましたが、それは私という人間についている”属性”だけを見ての判断で、地元の人たちにとって”よそ者”なんて、結局はいてもいなくても分からないくらいどうでもいい存在だったような気がします。
 それだけに、たまに例外としてめぐりあった方々――近所のハルちゃんのお母さまや、幼稚園で仲良しだったクミちゃんちのばあやさん、同級生のシンくんのお母さま、となりのお宅のご主人、といった優しく目をかけてくださったおとなのことは今でも忘れられません。

 さて。大学生になってからのことです。途中で転出した地方の高校の集まりが、東京で開かれました。その高校で出会って以来の親友だった友人がクラス会に誘ってくれたので、とても嬉しくて、私はいそいそと出かけていきました。ところが会場にたどり着いてみると、みんなは私のことをすっかり忘れているようなのです。私は二年ぶりに再会したクラスメイトのことを、みんな覚えているのに……。

 中高生のころに出逢う友だちは、人生を支えるかけがえのない仲間になる、と言われます。しかしそれは、同じ時間・空間を共にするなかでつくられる濃密な”思い出”があってこそなのでしょう。私と高校のクラスメイトが一、二年生のときに一緒に過ごした記憶は、私が転出したあとの高校生活で上書きされてしまったのかもしれません。顔見知りたちと共に歓談の場にいながら、私には共有できることがほとんどないのですから。それから呼ばれることは二度とありませんでした。

 小学校から高校卒業まで七つの学校で、私はそれなりに適応する努力をしましたし、それなりに友だちもつくっていたのですが、結局は蚊帳の外に置かれつづけていました。
 子ども時代が終わるころ、私はすっかりよそ者として、寄るべなく宙を漂う雲か、浮き草のようになっていました。

 父は盆暮になると長距離ドライブをいとわず、自分の車を運転して、家族を双方の実家に連れだしました。夏はさえぎるもののない平野で熱風にさらされ、冬は冷え込む盆地の個々出るような年末年始のために、深夜や早朝のドライブをしました。風光明媚でもない凡庸な土地の、文化も考え方もちがいすぎる人たちばかりの田舎に連れていかれる帰省は、子どもにとって苦痛でしかなかったように思います。
 しかしそこには、浮き草のような子どもに、せめて肉親のつながりを与えたいという、父の願いがあったのかもしれません。

 気づけば、年長者の多かった父方の肉親は、すっかりあの世に移住してしまっていました。
 2011年3月11日に起こった大きな地震と津波、そして原発事故。父の遺した家には母方の祖父母が束の間のおだやかな暮らしを営んでいました。そこは、プルトニウムの舞い降りる地となりました。

 圧倒的な津波の映像を見ていると、のみこまれていく人々の悲惨を想い、放射能汚染によって帰るところを失った自分の身の上を想い、私の現実感は瞬くまに遠のいてしまいました。

 濁流にのまれる海辺の町の映像から目が離せないまま、私はいつのまにか、
「この津波がこれまでの悲しみや苦しみをすべて押し流して、流し去ってくれたら良いのに」
と、ひたすらに夢想していました。