1. はじまりの記憶

 おとなになって自分の暮らしをつくるようになったら、午後にはアフタヌーンティの支度をして、オーブンからいい匂いが流れてくる温かな空間で、愛しい人たちとお茶のテーブルを囲みたい……というのが私の憧れでした。

 結婚して2人の子どもに恵まれ、それから、ひとり親に。ティータイムにはケーキ二種を焼き、一口サンドイッチと果物を用意して一緒に囲んでいた当初から、いつのまにか15年をこえる年月が経ちました。

 ふりかえりますと、おだやかな日も寒風の吹きすさぶ日も、子どもたちと過ごすテーブルに知恵をしぼって、いつも豊かさと温かさが醸し出される幸せな場所にしようとしてきたように思います。 

 ところがひとり親になって、子どもたちとの暮らしを細腕ひとつで引き受けるようになると、どういうわけか、私への風あたりは強まりました。

 それまでも、社会人として、自立した女性として、仕事をすればするほど、あらゆる角度からの盛大なハラスメントに見舞われていました。不登校生徒だったところから大学院まで修了し、高度な専門知識と技術を身につけても、頑張ればがんばるほどに逆効果だったのかもしれません。

 ふと気づけば、
 「シングルマザー」と、さげすむニュアンスで呼ばれたり、
 「難病」のなかでも、指定難病の枠組みにはない難病の重症患者となって、車椅子なしでは暮らせなくなったり、
 「障がい者」として十把ひとからげにされて、赤ちゃん言葉で話しかけられたり、

私にはたくさんの”マイノリティ”ラベルが貼られ、差別対象として刻印づけをする人たちがおり、ありとあらゆる否定・蔑み・罵りが向けられるようになったのです。 

 でも、私は私でした。

 もう私の細胞のほとんどは入れ替わっているというのに、生まれたときから現在のこの瞬間まで、おなじ人間のままです。

 どんなふうに呼ばれようが、公正でなければ幼な子のように憤り、生まれたときのように、やる気満々で生きています。このように変わらずに生きてこられたことは、たいへんな僥倖のような気もします。

 いまの私は、起きている時間のほとんどをベッドの上で過ごしていて、出かけるときにはリクライニング付きの車椅子が手放せません。

 そのような異形の障がい者となったとたん、街なかで見知らぬ人から、
 「なんで出歩いてるんだ!」
と、とつぜん怒鳴りつけられたことも一度や二度ではありません。まるで、忌まわしいものにでも出くわしたかのようでした(正直なところ、どちらが醜悪かというと、車椅子にもたれている私よりも、二本足のいきり立っていた人たちのほうだと思うのですけれども)。

 ひとり親ですから、子どもの学校の保護者会に行くのは私しかいないので外出している。それだけのことです。

 車椅子生活になる前の元気なときに、子どもたちを子供乗せ自転車の前後ろに乗せて、交差点の横断歩道で信号待ちをしていたら、唐突に私の自転車の後輪の上にある荷台をつかんで自転車ごと揺さぶり、暴力で脅かしてきた人がいましたが、それと似たような感覚でした。

 自転車を強引に左右に揺らして絡んできた人は、何かを言っていました。けれども脈絡のない行動は意味がわからず、奇妙な言動は、罵りことばが身につかない私の語彙には見つからなくて記憶にとどめることはできませんでした。

 わるいことなどしていないのに、失礼な、あるいは奇妙な対応をされることが多すぎます。
 女一人だから?
 ケアにあたる人を大切にしないのが日本の伝統だから?
 障がい者だから?

 子どもたちが健やかにすごせるようにと、その暮らしを細腕ひとつで頑張って運営しているのに、そうした人をもっと困らせたり、危険にさらしたりする。そんな心がけがあろうとは、おどろきでした。

 車椅子であろうがなかろうが、よく生きたぶんだけ人生は豊かに満ちてきています。そしてあいかわらず、私が私であることには変わりがありません。

 ところで、ひとり親が障がい者になると、それまで受けられていたひとり親支援サービスを召し上げられる、もしくはひとり親支援と引き換えに親自身に支給される障害年金が打ち切られるという「併給禁止」の制度が半世紀にわたってまかり通っていたことをご存じでしょうか。

 昨年(2021年)春の法改正がなされるまでは、そうでした。

 障害年金は、障がいによって働けないぶんを補って生活の保障を試みる、人類の歴史と知恵の結晶です。けれども昨春の改正法が施行されるまで、ひとり親への支援は一方的に召し上げられていたのです。

 おかしな制度によって、子どもたちとの暮らしは、理不尽なまでに追いつめられていました。

 日々の困りごとだけでなく、子どもたちの未来がぶ厚い暗雲におおわれていくのを傍観しているしかないのは、親として耐えがたいことでした。調べて行くと、私たち親子だけでなく、それまでに多くの親子が長年苦しめられ、生死の瀬戸際に追いやられていることも分かってきたのです。

 当時の私は連日38℃から39℃を超す発熱に苦しむ病身にあり、医師から絶対安静を命じられていました。それでも、一家の大黒柱であり、主婦として家庭の切り盛りを担い、子どもの学校でのいじめ事件になけなしの体力を注ぎこんだりもしていました。

 いよいよ息も絶え絶えになって、生命機能は風前の灯火のようになり、私も病の苦しさにすっかりまいってしまって、先に亡くなった人たちが苦しみから解放されていることを甘美に思うばかりでした。

 それなのに、突きあげるように湧いてきた想いは、差別的な処遇を許していた制度のこと。

 「こればかりはあまりにもひどすぎる! このままでは死んでも死にきれない!」
という魂の叫びのような心の声でした。その声に突き動かされるようにして、しばらくすると身体はふたたび呼吸をしようとし、身じろぎしはじめました。

 これほどまでに弱って小さなひとりの人間に、揺るぎない意志が備わったとたん、なにげない身近な事柄が、つぎつぎと宝石のように光を放ちだしました。初めはかすかなきらめきでしたが、しだいに奔流を創りだして輝いてゆきました。

 私はすでに多くの自由を失っていましたが、もともと極端に内向的だった自分がわずかな体力をふりしぼって、ときには命を削るようにして病床を這い出し、電動車椅子を駆っていました。どうか協力してくれないかと説明してまわりました。

 リクライニング付きの電動車椅子は、寝たきりの不自由な身体を運ぶ”足”を与えてくれる、現代の魔法であり、私の身体の一部です。

 あたりは闇
 暗がりばかり
 そして「ひとり」

 胸には命の灯火
 命は希望の種子

 あとどれくらいの時間が私に与えられているのかは分かりませんでした。けれども、種火のように小さな私の灯火を、もっと光の広がっている世界につなげたい、と心から願っていました。

  あきらめないで!
  くさらないで!
  挫折禁止!
  あがきなさい!

 これは、立派な研究者となった先輩たちが、へなちょこで、未熟な私に伝えてくれてきた言葉です。

 気づけば、真っ暗な水底で子どもたちとじっとしていた私は、名もなき”ひとり”からの小さな経験をもとに、国の法律を改善する運動を始めることになりました。

 ただただヨチヨチと歩みを進めるしかない私と子どもたちは、まるでペンギンのようでしたけれども、気づくと、子どもたちは青空を羽ばたくようにして、光の豊かな明るい海を泳ぎだしていました。