3. 紡がれる細糸たち

正月の思い出

 転勤族の父とともに、根を下ろす ‘地元’ を持てずに各地を転々とする子ども時代でしたが(前回の記事)、年に二回、夏のお盆と冬の年越しには親族が集う時間がありました。父方は五人きょうだい、母方はきょうだいが二人と少なめでしたが、少なければそのぶん母や祖父母のいとこまでが一つの家族のようにして交流しておりました。

 暮れには大晦日までに親族が一つの家に集まってきて、元旦を迎えます。一眠りしてから目覚めると、子どもたちは新調してもらった肌着によそいきの服を身につけます。そして、
「明けましておめでとうございます」
の挨拶をしに、年長者のもとへあがるのです。

 一番最初に家長のもとへ、その後は年長者から順々に、というのが習わしでした。正座で新年のご挨拶をしてお年玉をいただいたら、そのままチョコンともう一度三つ指をついて、
「ありがとうございます」
とお辞儀をします。何度もそうしていると、自分がまるで応接間の窓際におかれた ‘水飲み鳥' になったような気がしました。‘水飲み鳥’ というのは鳥の形をしたガラス製のおもちゃで、フラスコ型のお腹に赤や青い色の液体が入っていてゆらゆら揺れるガラス製の置き物です。くちばしを濡らした水が蒸散すると温度変化でフラスコの液体が移動して鳥が揺れる、熱力学の法則を利用したもので、感情のない動作を繰り返していました。

 三が日は、台所を休ませるために重箱にご馳走を詰めておくのが ‘おせち’ 料理の由来だと言われます。けれどもそのころは、高度経済成長後で人々がモノの豊かさにのめりこむ時代でしたから、贅沢に浸りたい気分からか、作りおきの重箱のおせちだけでは不満が出てきます。

 正月には年越しそばやおせち料理の準備に始まって、大皿に盛りつけた刺身やローストビーフ、揚げたての大きな海老フライなどを追加して準備するので、台所仕事にきりはなく、女性たちの休まる暇はありません。

 殿方はゆったりとグラスを傾けながら談笑し、女性たちは酒肴を補充するために立ち働いていましたから、幼い私はおとなの邪魔をしないように屋敷の離れに行かされて、いとこたちにボードゲームやトランプを教えてもらうなどして暇をつぶしておりました。

 十歳くらいになってからは、おせちづくりの手伝いをするようになり、それは楽しみでした。

 茹で卵の熱いうちに白身と黄身をべつべつに裏ごしして、白と黄色の二層が蒸しあげた錦玉子の断面がくっきりと鮮やかに出たときや、黒豆が思いどおりにふっくらと仕上げられると、うれしかったものです。

 ところが大量の松前漬を任されるようになってスルメや昆布の口当たりが良くなるように細く切ろうとムキになってくるころには、ハサミを持つ手の指がへこんで痛むのをこらえるような苦行が増えてきました。そうして次第に、お正月は楽しみばかりではなくなってまいりました。

 もともと好んで手伝いをしはじめたのですが、目立たないところで誰にも労われることもない作業です。私は部屋の片隅で手を休める暇もなく延々と働き、ひとり手指の痛みをこらえているのに、おとなの女たちは台所で女どうし、ウィスキーのグラスを傾ける男たちはソファで男どうし。どこかで賑わう声を聴きながら、気づけば私には談笑する相手もいないというのが、私にとっての”イエ”の正体でした。

”異端”がつないだ歴史

 大家族の正月は未来永劫つづくかのように思っておりましたが、そうしたイエは予想に反して信じられない早さで失われて行きました。なぜなら家(イエ)制度において一族が栄えるかどうかは、男の従兄弟たちの繁栄しだいだったからです。

 あいにく男系である父と父の兄の息子たちは結婚をすることがなく、子どもがいないため、イエの根幹となる本家は急速に小さくなりました。跡つぎのいないイエが絶えるのは時間の問題です。

 ふりかえってみると一緒に過ごすのが当たりまえだった大家族は、五十年もしないうちに、すっかり小さくなってしまいました。

 けれども、私たちが絶滅するわけではありません。国が絶えても街がのこるように、イエが絶えても一人ひとりは、個人としてのこっています。さらには本家が絶えても、親族は思いもよらない形で広がっていました。その名まえ(苗字)も思わぬ形で受けつがれています。

 それは離婚した私、そして外国人と結婚した従姉妹、それからその子どもたちです。また、日本橋で商社員をしていた大叔父とその子孫です。大叔父は戦前に海外移住して戦争に巻きこまれることがなかったため、住まいや家族を焼かれることもなく、いまでは日系四世となる子どもたちが育まれています。彼らの苗字は、私と同じです。

 離婚にしても外国人との結婚にしても、海外に新天地を求める移民にしても、家父長制のもとではそしりを受けました。一人ひとりの事情はともあれイエの維持に貢献しない”異端”だとみなされたためです。

 異端とされた者たちが大きな変化やきびしい境遇におかれたとき、”正統”な立場にいる親族たちは、一族として認めない異端者との付き合いを閉ざし、絆はどこへやら、困難におかれた人間を孤立させるだけでした。

 ところが半世紀後、家の名を受けついで一族を発展させていたのは、”異端”とされた者たちにほかなりません。

 百年の計とはいわなくても、家長にせめて五十年の計が備わっていたら、と悔やまれます。

 進化は異端から生まれ、多様性を受け入れることは集団を活気づけることでした。親族の栄枯盛衰をふりかえりながら肌身に感じております。

 さて、なぜ大叔父一家が戦争に巻きこまれなかったかというと、移住先のブラジルは、世界大戦では蚊帳の外にあったからです。いっぽう日本にいる一族で田畑がなく街に暮らす者たちは、空襲で住まいごと一切合切を焼かれ、あるいは兵隊として遠くのジャングルで戦死してしまいました。

 幸いにも戦後の日本に生まれ育った私たちは、戦災に直接巻き込まれることなく過ごすことができています。それでも現在に至るまで、世界各地で紛争が絶えません。これを書いている今も、ウクライナやロシアで市民が暮らしを脅かされているのは皆さんご存知の通りです。

 子どものころには朝夕テレビをつけておりましたが、ニュースでは連日のように世界各地での戦火と混迷が報じられていました。将来、知恵や力を備えたら、「私は破壊することよりも創造することに生かしたい」と、子ども心にも願うようになりました。

 私たちヒトは、生まれたその日から無事にすごせたとしても、生きられるのは三万日くらいが平均寿命とされています。

 その途中で病にたおれた私は、平熱にもどらない日々に、三千日もついやしてしまいました。助かったけれども不自由の少なくない心身をたずさえて、このあとどれくらい時間が与えられているのだろう、と正直なところ心細くなることもあります。

 しかし生命は、まだまだ解明されていないことも多く、さながら現代の秘境のようです。私も病とのつきあいが十年以上となりまして、神様に与えられた時間にはことさらに限界を設ける必要はないように思うにいたりました。

 それまでのように身体の声を無視することはせず、よく耳をかたむけるつもりですが、これからも大いに夢を描き、夢をかなえながら、細く長く歩みを進めていくつもりです。そうして生きていれば、私たちはいつしか想像を超えたすばらしい未来に出逢っていくということ。人類史上かつてない人生を生きようとしていることに気づくと、面白くてしかたありません。

愛することと祈ること

 昨今では家族のあり方も多様化し、このごろはハレもケもなく、正月らしいことをしないで過ごす人も増えているように思います。

 おせち料理といえば家族で囲むものと思っておりましたが、おいしいと評判の店が一人用にしたおせち料理を売りだすと、早くに予約でいっぱいになってしまいますし、おせちも用意せずにおひとりで、「正月は、ふだんどおり過ごします」という声も聞くようになりました。

 私も一度、「ものはためし」と、一人きりでふだんのように過ごす年末年始を試みたことがあります。すると、お正月らしい清々しさは薄らいで、自分がただ旧(ふる)くなり、そのままでは朽ちていく一方のような感覚がしました。

 家族が集まればおのずと自分のルーツを目のあたりにします。新しい暦を迎えるために集うことは、自分の生きかたをリフレッシュしてくれるきっかけになるようなのです。

 西洋ならクリスマス、東洋なら正月といえば、仕事の手を休めて集うことのできる大義名分をいただいたようなもの。私たちの時代こそ、大切な家族や親しい友だちとゆっくり過ごすひとときを作って行きたいと感じております。

 北半球ではいちばん寒くて暗くて、生命が息をひそめてしまうかのような季節に、さまざまな文化の人々がそれぞれに寄り集まろうと考えだしたのは興味深いですね。

 見えないものにはなかなか気づかないもので、一人ぼっちで正月を過ごしている方のことも、不自由で出かけられない方のことも、理不尽な差別に遭って苦しむ方々のこともあまり知らずにまいりました私です。病を得る前までの私は元気なだけが取り柄で、ほんとうにおバカでした。

 いま私がここにいるのは、生かされているからにほかならない気がいたします。この名もなき小さき者に対して、少数派ながら熱く励ましてくださった方々、そしてどこかで守ってくださっている方々を想わずにはいられません。

 そのとき病にたおれた私が――身じろぎひとつままならず自由に操れていた言語も失っているとき――できることといえば、愛することと祈ることだけでした。ただ、小さな一人の人間が出来ることでそれ以上のことがあるでしょうか。

 自分にあとどのくらいの時間が与えられているのかは分かりません。いまはこの世のジゴクは人が作っていると思い知ったからこそ、この世にテンゴク(天国)を作りたいという願いを胸に秘めております。