一度に何もかも出来ないというのは当たり前のことで、やらないことを決めようというのもよく言われることではあるけれど、ちゃんと"やめる"というのは意外と難しい。
そりゃあなんでも一度に出来たら格好いいけど、中途半端に安請け合いするのが一番良くない。
こういうのは「調整」とかじゃなくて「意思決定」の問題であって、ズルズルじわじわ無理ない範囲で…というのはだいたいうまくいかない。入り口のところでの意思決定がいかに大事かというのを最近痛感する。
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一度に何もかも出来ないというのは当たり前のことで、やらないことを決めようというのもよく言われることではあるけれど、ちゃんと"やめる"というのは意外と難しい。
そりゃあなんでも一度に出来たら格好いいけど、中途半端に安請け合いするのが一番良くない。
こういうのは「調整」とかじゃなくて「意思決定」の問題であって、ズルズルじわじわ無理ない範囲で…というのはだいたいうまくいかない。入り口のところでの意思決定がいかに大事かというのを最近痛感する。
目の前で回送電車がミュイーギャンミュイーギャンと奇妙な音を立てて待機している
と思ったら出発した
回送電車の運転手というのは、どんな気分なのだろうな。お客さんや荷物を乗せて運搬するという役割を担っているわけでもなく、しかし回送電車がある、というのは鉄道網の運営上の必要があってそうなのだろうから、次の稼働エリアまでの移動とか、あるいは車庫に入れるとか、回送電車にもなんらかの目的地があって運転手もそのための役割を担っているのだろう。
また当然、回送電車の運転手さんも一日中、一年中ずーーーっと回送電車の運転手さんなわけでもなかろうから、たぶんなんらかの法則に基づいて運転手さんたちのシフトに回送電車担当の回が割り当てられるんだろう。
「正解」はググったり鉄道会社に勤める友人に聞いたりすればわかるのだろうけどそれはまぁどっちでもいいんだ。
鉄道システム全体がうまーく回っていくためになんらかの理由で、回送電車が「ある」、というのが大事。
ないとたぶん回らないんだ。
夫婦揃って忙殺されnoteの更新どころか二人で家メシする頻度もめっきり減っていた夏。気づけは9月も終わって10月、前回の更新が8/20というのに驚き。
ツマのお腹もますます大きくなる今日この頃。三連休の最終日、久しぶりに家でお絵かきしましょうかという食卓、なのだがオットはなんか今日憂鬱みが高まっている。
オット「ゆりさんさ、あれだよ、あれ、マタニティブルーとかなんないの」
ツマ「ならないっつーか、なってるヒマがないって感じ」
オット「そ、そうなのか…ツレが鬱になっとる場合じゃない…」
ツマ「いや、それはしょうがない、それとこれとは別。あ、そうそう、マタニティブルーに対応してパタニティブルーってのがあるんだって。造語じゃなくてpaternityっていう英語がある」
オット「それはあるでしょ。paternalism(父権主義)とか使うじゃん、政策的介入とかするとき」
ツマ「ちょっと日常生活で使わない言葉わかんない…」
オット「でも俺のはパタニティブルーとかじゃないところでヘロヘロに弱ってるからプレパパとして甲斐性なさすぎるしあれだわ」
ツマ「いやわかんないよ、隠れてプレッシャーとか感じてるのかもよ」
オット「そうかなぁ」
ツマ「あ、そうそう、さっきフィンランドベビーボックス注文したよ。まるっとセットになってるやつ。ベビー服もこないだ買ったし、タオルはいっぱいあるし、あとは生まれてからでも間に合うやつがほとんどだから、買い物系はだいたい完了」https://www.finnishbabybox.com/ja/
オット「えー、マジで。あとなんか俺やれることあるっけ…」
ツマ「いや別にやることないのはいいじゃん笑 まぁ、あとは健康的で文化的な暮らしをしてくれたまえ。赤子を元気に迎えるために」
オット「早くこの抑うつ傾向を治そう(会話反芻してテキスト打っててテンションの低さに引いた)」
ツマ「いやそれは焦ったからってすぐ治るもんじゃないからwちゃんと休みをとろうぜ」
#11 「ツマと、でかくなった腹と、弱ったオット」2017/10/09
本日の夕げ
・ゴーヤチャンプルー(この絵日記でたぶん二度目の登板)
・むかごごはん
・お味噌汁(キャベツその他)
上がオット作
下がツマ作
下半期始まって第1週。新しいメンバーが来て新鮮な気持ちと、9月で卒業したメンバーもいてちょっとさみしいねという気持ちと、どうあれ私たちの日常は進んでゆきます。
チームの目標や、コンテンツの作り方、個々人の役割など上半期と大きく変えていこういうところ。メンバーの入れ替わりも相まって、なかなか慌ただしいが、みんなの表情を見ていると、嬉しい。
ミッションを再定義して、それが運用フローまで落ちてくるまでのプロセスでは、そもそも今までの「枠」の延長では議論できないので、一人ひとりが仮説や試案を考えて持ち寄ってはディスカッションする、次の宿題をクリアにして解散してまた集合する、みたいな感じで何度か揉んでいく必要があって、必然コミュニケーションの頻度が上がる。そしてこういう時はそれぞれが率直にどんな問題意識や願いを持っているかが表出しやすかったり、個々人が暗黙知的に積み重ねてきた実はすごいじゃんそれ、的なノウハウの共有・棚卸しがなされたりするから面白い。
粘土をこねくり回している感じ。全くの無ではなく、漠としたイメージは持っているけど、完成設計図があるわけではない、触ってみんとわからんなというね。
あと、「そういうのは私が巻き取るんで悠平さんは悠平さんがやるべきことやってください」とか言ってもらったりして、ひゃーすんませんというのと、うわぁ頼もしいというのと、私も頑張りますはい、みたいな。へへへ。
学校ではありましたよね、衣替え。この日から夏服でーす、冬服でーすみたいな。一斉切り替え。
よくよく考えると夏服に変えた直後はちょっと寒い日もあるし、冬服に変えた後でもなんかあったかい日もあるし、季節や気温の変化はアナログであってデジタルでないのだから、一律変更というのはいささか"不自然"ではあるものの、僕のような季節感のない人間にはありがたいシステムだった。
気温の数字を見ても暑さ寒さのイメージが湧かないし、ましてや昨日や一昨日と比べてどうなんてこと言われても、昨日の気温なんざ覚えてられないし、もっと言えば天気予報をそもそも意識して見てないもんだから、その日の気温で調整しろというのはかなーり難易度が高い。
なのでこの季節はいつも服装に悩む。うっかり薄着しちゃって風邪を引きそうで危ない。
うん、でもなんか、最近ちょっと変化というか、もうアラサーで10代20代の体力ではなくなったからか、「寒い」環境の方への反応の閾値は下がってきたというか、「あ、これ寒いわ、風邪ひくわ、気をつけよ」みたいな思考が浮かぶようにはなってきたのよ。
はやく人間になりたーい妖怪人間、皮膚感覚レベルアップ、みたいな。
先月の参加した「箱根山学校」の舞台、箱根山テラスの設計者である、長谷川浩己さんの新著『風景にさわる ランドスケープデザインの思考法』が家に届いた。
まだほんの前半しか読めていないのだが、箱根山学校の浩己さんのお話の中でもエッセンスはお聞きしていて、そこでの印象も含めてだが、「風景にさわる」というキーワード、もっと言えば「さわる」という態度、関わり方に非常にしっくり感を覚えていて、ここ最近、仕事をしていても頭の片隅に常に泳いでいる感じがする。
世界は他者で満ちていて、風景はすでにそこにある。ランドスケープ"デザイナー"の仕事は風景をゼロから"クリエイト"することではなくて、そこにある風景の構成要素、人や自然、その関係性や時間的蓄積と向き合いながら、あるいは自ら参加し、関与しながら、その文脈の中で新たな場を設えていく…そのような営みの上での態度を、「さわる」という動詞で表現されたのだと思う(まだしっかりと読んで咀嚼できていないので些か乱暴なサマリーだが)。
きっとこれは、メディアやコミュニティにおいても、会社や組織においても、同じことが言えるだろう。
いわゆる"運営者"の立場にある人(自分も含めて)が、メディアや事業を"立ち上げる"という動詞を使う。多大なエネルギーを要する取り組みなので、その側面も一定あるのは間違いないが、一方でやはり、風景はすでにそこに"ある"というか、社会や歴史の文脈、その中で僕たちが今後関わりたいと思う潜在読者となりうる人たちがどのように暮らしてきたかということを無視しては成り立ち得ない。
組織づくりにおいてもそうで、採用や育成といっても、やはりその人がそれまでどう生きてきたかの文脈を無視しては成り立たない。
一方で、「さわる」という動詞が面白いのは、他者に対する畏れを持ちながらも「わたし」がやはり関与する存在であることが織り込まれているからだと思う。
他者がすでに存在しているのと同様に、わたしもすでに存在している。そして影響し合っている。
「相手の主体性を引き出す」とか「黒子に徹する」とか"立ち上げる"という前のめりな動詞とは逆に、自分が引いて相手を立てる、みたいな言い回しがなされることもしばしば。
距離感の取り方という意味で、それがいつも間違っているとは言わないけれど、客観性とか非当事者性の皮を被って、自身がもたらす影響に対して鈍感になることも恐ろしいなと思う。
などと考えているうちに出勤したので続きはまた今度。
「ドア閉まりまーす、お身体お荷物お引きください、間も無く発車します、閉まりまーす」
朝も7時を少し過ぎると早くも駅員の呼びかけが窓の外から聞こえてくる。もうすぐ自分もあれに乗るのかーとか思うとげんなりする(ここで「やれやれ」とか書くと村上春樹だ。読んでないけど)。
満員電車に対する抵抗感が増した。都会で働いていて完全に避けることなど不可能なのだが、出来る限り乗りたくないなぁと思ってしまう。中央線沿いに住んでた頃は、若かったのかこじらせてたのかぎゅうぎゅう詰めでくっさい満員電車に乗せられる我らTOKYO民みたいな情感を勝手に抱き「東京で消耗なんてしてないぜ、別に田舎に行かなくたって過ごし方考え方次第だもんね、ふふん」なんて思ってたもんだが、もうなんか最近は体力的なアレと一緒に気力的なアレもアレである。満員電車つらい。
結果、極端な朝型になった。5時台とか6時台とか猛烈早い電車に乗ってオフィスに行くみたいなバカな対策をしている(今日はちょっと遅くなって見事にラッシュに捕まってしまったけど)。
そもそも東京の土地面積に対して人が多すぎるのだみたいな文句を言ってもマクロな状況は個人でひっくり返そうもないので、個人とかチームとか会社とかの単位で可能な限り柔軟な働き方を実現していきながら身を守るしかない。
たとえば、自チームの勤怠に関しては、それぞれのシフトの総量はあれど、出社時間については一律に9時とせず、8時半でも9時半でも10時でも選んでもらうようにしている。
ただ、個人の自由が組織の運営に支障をもたらすと感じさせてしまうと結局お互い窮屈になるので、チームの運用ルールとセットで見ていかないと機能しない。会議は何時以降にしか入れないとか、朝イチに急なチェックや作業依頼を差し込むなとか、仕事の受け方、総量や納期コントロール、優先順位の付け方etc.をうまいこと工夫していく必要がありますね。
あとは、人間、メンタル弱ってると同じ事象でもダメージ変わってくるので、「ちょっと今週来週は出社遅くさせてください」とか「仕事の量少し整理調整しようか」とか、ベースのルール+弱ったときの合理的配慮も重要だし、それを言い出しやすい組織文化つくらないといけませんね。
30年近く生きてきて、自分自身もけっこう揺らぎや浮き沈み大きめの人間であることを自覚しているので、結果自分の身を守るためでもあるんだけど。
土日の2日間、府中にて今年最後の学生向けサマーインターン(もはやサマーなのか)にメンターとして参加。
2日間で定められた領域の社会課題を解決する事業・サービスを立案するというやつなのだが、チームごとに議論のプロセスも仕上がりも様々で、またその中での個々人がぶつかる課題や直面するストレス、それに対する反応・変化らもまた様々であり、毎年なかなかに面白い。
などと偉そうに言ってみたりしたが、実はメンター側の自分自身も、やはり同様に自身の課題を突きつけられる場であるのだ。
学生の側は毎年新しい顔ぶれなわけで、彼らはこれまで日常生活でほとんど真剣に考えたことがない社会課題なるものと取っ組み合いをする。
一方でメンター陣は、新たに参加する社員もいるが、複数回、複数年のメンター経験がある者の方が多く、だんだんとノウハウや見通しは蓄積していく。
2日間という全体所要時間の中でどの程度の進捗なのか、ここからどのような変化が予想されるか、チームの様子や関係性を見ながら、全体としても学生個々人としても最大限の成長・進捗ができるように、介入をしたり、任せたり、する。
とはいえメンターも人なので、当然にバイアスはかかる。メンタリングのスタイルも違うし、学生に対する評価の観点も(もちろんすり合わせはするが)属人性はゼロにならない。これまでの事業経験・マネジメント経験から形づくられた信念も異なる。
常に読み違えの怖さはある。そもそも他人というのは予想通り・思い通りにいかないから他人なのであるし、「知らない」ことばかりゆえに(比喩やポエムではなく実際に)可能性に満ち溢れているのが学生なので。
(私たちは歳を取れば取るほど「知っている」世界に引っ張られる)
「知ってるつもり」の予定調和に流されていないかを問われているのはこっちの方なのだ。
そんなこんなで、終わるたびにとっても疲れるけど「あー、仕事もっとがんばろ」ってなるんだよね、毎回w
何か新しい機会や仕事が動き出すときに、以前の仕事を評価してくれてのお声がけであるときはとても嬉しい。もちろん、過去の"当時"に未来への期待や見通しを持って仕事していたわけではないが、後になって評価してもらえる仕事というのは、その当時、その瞬間、関わる相手に対して善く向き合えていたなという仕事である。
きっとそういう仕事は、単に「いい仕事をするぞ」と意識していればできるわけではなく、自分や関わる人たちのエネルギーの使い方、巡り方が心地よいものになるようになっている必要があるのだと思う。
直前になって慌ててみたり、余裕がまったくないときには難しい。個人技だったり関わる人が少ない場合はなんとか乗り切れることもあるが、チームでアウトプットを出す時にはそうはいかない。いざという時にグッとみんなが良い形でエネルギーを出せるように普段から何をしておくか。編集長って組織を編集する仕事なのだと思う。
昨夜の帰り道に知り合いとバス停でばったり。
「いつもは電車なんですけど、たまにバスでゆっくり帰るんです。クールダウンタイム。至福のひととき」
僕はいつも通り電車で帰るつもりで道を歩いていただけだったので彼女とはそこでお別れしたけど、ほんとに至福のひとときなんだろうなぁという、によっとした表情が印象的だった。
最近、行きか帰りの時間に余裕があるときに、ひと駅分歩くということをしている。「毎日違う道を通って帰る」って言う人もいた。
日常のルーチンに自分がノイズをもたらす感覚の楽しさだったり、帰り道、バスや徒歩で少しばかりひとりの時間を取れる安心感だったり。
デジタルデトックスっつって頑張って連休をとって山奥にリトリートするのももちろん良いのだけど、都会の勤労人、そうそうしょっちゅうやれるもんではないから、日常のなかにこういった余白を作っておけると良いかもね。
仕事は仕事で、みなさんそれぞれやるべきことや色んなお付き合いを踏ん張っているわけで、かといってそれ以外の時間もわたくしたち気づけばソーシャルメディアに包囲されたりしてますから、ほっといてもらえるというか、そもそも私以外誰もいない、みたいなひきこもりタイム&スペースis貴重。
「もうすぐ30にもなるし、年末に子どもが生まれるんだったらなおさら。そろそろ働き方考え直していく時期かもね。今までは体力で乗り切ってこれたと思うけど」
というようなことを会社のカウンセリングで言われたのが先週のこと。
確かにそうだよなぁ。自分でもその必要性は一番わかっている。最近ちょっと疲労が溜まりに溜まってなっかなか回復しねぇなぁという日が続いていたので、言われるまでもなく、「そろそろだよ」のサインなのだろうと思う。
毎日朝早くから夜遅くまで働いて、家は寝るためだけに帰って、みたいな生活がずっと続けられるとは思っていない。
というか、自分はマネジメントの立場なので、全体のアウトプットを最大化することが役割なわけで、むしろ自分があくせく駆け回って持たせている状況は不健全っつーかマネージャーとしては未熟なのだって話でもあるよね…
(とかいいつつも、まだまだ立ち上げフェーズのプロジェクトが多くあり、すぐに手離れする類のものばかりではないのが辛いところだが、まぁそれも含めて乗り越えるべきというか…)
ただやっぱり、お腹の中に子どもがいない男性の方が、「働こうと思えばなんぼでも働ける」状態であるというのは間違いなく、「なんとかしなきゃなぁ」とぼんやり思うのでなく、相当の意思を持って行動や時間の使い方レベルで変えていかないと、なかなか脱皮はしにくいよなぁと思う。
自分のお腹を痛めてわが子を世に出す母親には、「産休」という不可避の仕事離脱タイミングがある。そして、長さには個人差はあるものの、生まれたあともしばらくは「育休」期間であり、これまでの仕事を離れてわが子と向き合うのだ。
最近では、僕の回りの友人にも育休を取るパパがちらほら。けれども、現時点ではまだまだ少数派と言わざるを得ないし、会社勤めのパパの多くは、仕事を継続しながら育児にどう向き合うか、子どもと向き合うなかで働き方をどうしていくか、という問いのなかで、それぞれになんとかやっていっているのだと思う。
我が家も夫婦共働きである。部署は違うが同じ会社だ。ツマもよく働く人だが、前々から自分にとって育児のプライオリティが一番高いと言っており、育休はフルで取るつもりであること、ツマの実家が都内にあって比較的支援を得やすいこと、等々もあり、ツマは「もちろん育児は関わってほしいけど、仕事続けたいならそれも大事にしてがんばってほしいし、育児はまぁ私がいるから無理ない範囲で」ぐらいのスタンスである。
で、僕の方はどうか。担当事業やチームのフェーズ、年末生まれるけどその後の年度末に予想される繁忙など鑑み、「育休…取れるなら取って子どもと向き合ったほうがいいけど、ちょっとさすがに難しそうだなぁ。でも仕事に裁量はあって、リモートでも対応できることも多いから、働き方工夫して、うまく家庭とのバランスを取っていきたいなぁ」と、そんなことを頭のなかでボヤボヤ考えている、なう。うーん。
少し前に「牛乳石鹸」のCM方面でボヤ騒ぎがあり、まぁあれは企画演出の稚拙さが大半の要因な気がするが、とはいえ、「今時亭主関白でもないし、育児に理解あるつもりだけど、その分仕事との折り合いのつけかたに戸惑う」みたいな、働くパパの現代的戸惑い、というのは正直あると思う。
いずれにしたって、「子どもが生まれたら仕事をセーブしよう」なんて言って急に変えられるはずないんだから、今からじわりじわりと変えていかなきゃならんのだよな。「これは自分でやらないと」と思っていた仕事も、誰かに手渡してみれば意外と回ったり、なんなら自分に出せなかった価値を生み出してくれたりするもんだから。
「やらないこと」を決めたり、「やらないために何をどう整えて、誰にどう立ってもらうか」を考えたりが自分の仕事だよな。ま、いい機会だ。
"ギャグ漫画家が上司の命令で「新人教育マニュアル」を作った"、というベニガシラさんのTwitter投稿漫画がよく拡散されていた。
まず①全体像を説明する、②いきなり難しいことではなく初歩から教える、③自分がやって見せ、相手にやらせ、評価する(口頭説明だけで終わらせない)、④定期的に声かけする、⑤段階を踏んで次の仕事へ…と、5つのポイントがまとめられている。
その中身自体は、新しく入ってきた人に仕事を習得してもらう上での鉄板ステップというか、特段不思議なことはない真っ当な内容なのだけど、「これ、当たり前のはずなんだけど、世の中意外とできてる人少ないし、自分も含めて、同じ人・職場でもできてる時・できてない時の差も出るよな」と考えた。
この漫画に描かれたことは、一つの基本の型というか、当然新人さんも一人ひとり違う人間だから、理解のスピードや方法も、習得のスピードや方法も異なる。なので実際は、上記のようなことを意識しつつも、相手の反応をみて、つど教え方や伝え方をチューニングしていくことが重要だと思う。
文書マニュアルだけでは意味が入ってきにくくて、図やフローチャートなど視覚補助が多い方が理解しやすいという人もいれば、逆に口頭説明(聴覚理解)の方がわかりやすい、という人もいる。1回で相手のいうことをトレースできる人もいれば、何回か繰り返す中で自分にしっくりくるリズムを見つける人もいる。
「学び手は常に正しい」という言葉が僕が携わる教育・発達支援の領域にはあって、伝える・教える側ではなくて学習者自身の側に立つことを重要視した言葉なのだけど、働く現場を見ていると、(自戒もあるが)やっぱりなかなか理想通りにいかないことしばしば。
それは結局、教える側の生存バイアスとか楽したい心性によるのだと思う。
やっぱり「(上司から見て)理解・習得の早い、要領のいいやつ」とか、「(教える側がこれまでやってきたスタイルに対する)適応力が高いやつ」というのは一定数いて、そういう人に対する評価は高くなりがちである。それは自分にとって都合のいい・可愛い存在だからではないか?ということを常に差し引いて考える必要がある。
「俺の若いときはさぁ、見よう見まねで習得したもんよ」
「いやー、もうちょっとできると思うんだよね、期待してるからあえてハードルを高くしててさ」
「彼はやっぱ優秀だよねぇ、すぐキャッチアップするし」
etc.
こういう発言が、学習者自身の反応とか、個々人の多様性とか、教える側である自身の適応力・提示の仕方に対するリフレクションなしに発せられているときにこそ、リスクが隠れているのだと思う。
学習者、新人、部下の立場からは教える側、ベテラン、上司に対するネガティブフィードバックって相当しづらいのだ。我慢することでミスマッチが表出しない、そのうち耐えきれなくなって…という事態も起こり得る。
自分のコピーを作ろうとしてないか?コピーになれないやつの可能性を潰してないか?これはいくら意識してもしすぎることはない…
なかなか「答え」の出ない問題というのはあって、その時に「うちはこうだった」「わたしはああだった」と自分の体験を交換し、とめどなく「雑談」するというのは、一見して解決に向かっていないように見えて実はとても意味があるように思う。そもそも「答え」がないのであるから、誰が「正解」を出すか競い合うことに意味はない。それぞれが好き勝手に表出した意見・体験を、これまたその場に居合わせたそれぞれが、好き勝手に参考にすればいいのだ。
お茶を飲みながらあーだこーだと言って、それぞれのn=1でしかない体験談をほどほどに参考にしながら解散し、身代わりのいない自分の人生に戻っていく。
昨晩の「深夜の保護者会」は、さまざまな立場・心境の保護者の声が交じり合ういい番組だったと思う。番組全体として変に力が入っていなくて
https://togetter.com/li/1154323
テレビ・ネットで見てる人が外からコメントを投げ込むのも含めて、一人ひとりが思い思いに悩んだり考えたりすればいい。
この土日は1.5日分ぐらいはひたすら寝て終わった。そういうつもりではなかったのだけど気付いたらもうこんな時間、という感じで全然目覚めなかったのだ。身体が休息を必要としているのだと思う。
9月は色々あってなかなかに散々なコンディションだが、底をつけば次は浮上、なのは知っている。もう少し辛抱だなぁという感じ。
この日記もリハビリのようなもので、内観のリズムが乱れていると、外に発する仕事の文章にもあまりいい影響がない。ひとまずは細々と続けようと思っている。
朝の「ZIP!」で安室奈美恵の引退について触れられている。
引退発表を受けて、ファン歴10何年だというファンの涙のコメントとか、タワレコでは急遽安室奈美恵コーナーを設けられ、CD・DVDが売れていることとか、カラオケで「Can you celebrate?」が熱唱されている様子とかが紹介されていた。
僕が小学生の時とかまさに「国民的歌手」だったもんで、確かになぁ、SMAP解散に並ぶぐらいの衝撃はあるのだろうなぁと思う。
こういう世の中の"どよめき"は、数字としても観察可能で、当然引退発表からここ数日のAmazonやらタワレコやらTSUTAYAやらの安室奈美恵関連商品の売上は有意に上がったであろうし、カラオケでも安室奈美恵曲の再生数は跳ねたことだろう。
とはいえ当然、個人のレベルで見ると熱量の違いはあるわけで、たとえば僕なんかは「あぁ引退かぁそうかぁ」とテレビを見てはいるけど、急に安室メドレーばっかり聞くようになったりCDを買い揃えたりはしていない。
でも一方で、"行動"に移したファンがいるわけで。ZIP!でインタビューを受けていたタワレコのお客さん(50代男性)とか、ファン歴10何年だという女性の表情、語り口を見るに、あぁ本当にこの人の生きた歴史のなかで、安室奈美恵という人が大きな存在感を持っているんだろうなぁ、と思わせる。
歌にかぎらず、なにかをつくって表現する仕事をしている人にとって、"他人事で済まない"レベルで自分のこと、自分の表現を真剣に受け止めてくれている人がいるというのは、本当に得難いことである。
で、安室奈美恵ぐらいの国民的歌手、になると、そういう"他人だと思ってない"ぐらいの熱量のファンがたーくさんいるわけで、これまた化物みたいにすげえことだなぁ、と、思う。
とはいえ規模の問題ではないのだ。いやしくもなにかをつくって発信する以上。
人の話の真に受けやすさというか、話の内容もそうだし、そこに乗っかっている相手の意図や感情も含めて、どの程度、どのように濾過して自分の心に入れるかみたいな能力があったとして、私はたぶんその能力がだいぶ低い人間であり、けっこう言われたことをそのまま受け止めてしまって、それでものすごくどよーんと落ち込んで後を引いたり、かと思えば急に発奮して前向きになったりと、忙しい。
さすがに一応、人類やらせてもらってもうすぐ30年になるので多少なりともマシにはなったのだけど、話の割引・濾過能力が働くのは、ビジネスミーティングとかそこそこ距離感のある場だとか、自分が「相談に乗る」というそれなりに冷静さを求められる役割になった場合などであって、近しい人になればなるほど、言われたことを真剣に受け止めやすいところはある。
ただ、これは悪いことばかりでもなくって、近しい人の気持ちや期待を受け止めた結果、上にも書いたようにプラスのエネルギーが生まれるときもあるのだ。「この人のためなら」という気持ちは、色んなしんどさや矛盾を乗り越える原動力になる。
自分にとっては「誰と働くか」というファクターが大きいのだなと思う。
「みんなそれぞれの役割があったり、色んな期待を持って言ってるところもあるし、全部、真剣に受け止めると身が持たないよ」と言ってもらって少し楽になった。アドバイスを真に受けて楽になる、みたいなね。笑える。
少しすき間が生まれて、いい感じ。