先月の参加した「箱根山学校」の舞台、箱根山テラスの設計者である、長谷川浩己さんの新著『風景にさわる ランドスケープデザインの思考法』が家に届いた。
まだほんの前半しか読めていないのだが、箱根山学校の浩己さんのお話の中でもエッセンスはお聞きしていて、そこでの印象も含めてだが、「風景にさわる」というキーワード、もっと言えば「さわる」という態度、関わり方に非常にしっくり感を覚えていて、ここ最近、仕事をしていても頭の片隅に常に泳いでいる感じがする。
世界は他者で満ちていて、風景はすでにそこにある。ランドスケープ"デザイナー"の仕事は風景をゼロから"クリエイト"することではなくて、そこにある風景の構成要素、人や自然、その関係性や時間的蓄積と向き合いながら、あるいは自ら参加し、関与しながら、その文脈の中で新たな場を設えていく…そのような営みの上での態度を、「さわる」という動詞で表現されたのだと思う(まだしっかりと読んで咀嚼できていないので些か乱暴なサマリーだが)。
きっとこれは、メディアやコミュニティにおいても、会社や組織においても、同じことが言えるだろう。
いわゆる"運営者"の立場にある人(自分も含めて)が、メディアや事業を"立ち上げる"という動詞を使う。多大なエネルギーを要する取り組みなので、その側面も一定あるのは間違いないが、一方でやはり、風景はすでにそこに"ある"というか、社会や歴史の文脈、その中で僕たちが今後関わりたいと思う潜在読者となりうる人たちがどのように暮らしてきたかということを無視しては成り立ち得ない。
組織づくりにおいてもそうで、採用や育成といっても、やはりその人がそれまでどう生きてきたかの文脈を無視しては成り立たない。
一方で、「さわる」という動詞が面白いのは、他者に対する畏れを持ちながらも「わたし」がやはり関与する存在であることが織り込まれているからだと思う。
他者がすでに存在しているのと同様に、わたしもすでに存在している。そして影響し合っている。
「相手の主体性を引き出す」とか「黒子に徹する」とか"立ち上げる"という前のめりな動詞とは逆に、自分が引いて相手を立てる、みたいな言い回しがなされることもしばしば。
距離感の取り方という意味で、それがいつも間違っているとは言わないけれど、客観性とか非当事者性の皮を被って、自身がもたらす影響に対して鈍感になることも恐ろしいなと思う。
などと考えているうちに出勤したので続きはまた今度。