2021年4月25日に、児玉真美『アシュリー事件』のオンライン読書会をした。この記事は、本書の背景および読書会での対話を私が大幅に再構成したものである。
Read more今度は「幸福」を理論的に考えてみよう
2021年2月28日に、青山拓央『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』のオンライン読書会をした。この記事は、本書の背景および読書会での対話を私が大幅に再構成したものである。
Read more会話のない3時間。ともにいることについて - 出会いを遊ぶ #02
あわいの企画でまた一つ悠平さんに出会いを計らっていただいた。
正直、緊急事態宣言が出た後でどうするか迷ったが、この際いっそ、飛沫の元となる会話や接触を一切しない方向で徹底しましょうとなり、一言も会話をせず3時間ともに過ごした。
会話は全て筆談、筆記用具は別々、マスク外さない、喫茶店では向かい合わず隣に座り、蓋つきのコーヒーを飲む事にした。
想いを伝えるのは確かに言葉が一番わかりやすいが、それ以外の表現が世の中にたくさん存在する。そのうちの一つである写真を今回は選び、お互い気の向くままに撮っていったので、それは最後に載せようと思う。
〜言葉について〜
言葉は日常に馴染みすぎていて、なんでも言葉にする事に私は少し疲れている。
コロナ禍で気付いたのは、「体感」するのが好きだということ。
日光を浴びること、毎日変わる空の色を見ること、散歩しながら暮らしの風景を浴びること、誰かにコーヒーを淹れてもらうこと、イヤホンで大音量で音楽を聴くこと(言葉を理解したくないので邦楽より洋楽の方が聴く)。映画も家で観るより断然映画館だ。
言葉はどこから生まれてどのように根付いたかは前々から興味のある事だった。
伝えることはなんでも言葉だし、考え事も言葉。脳の中から言葉を取り出したら人は一日にどれだけの言葉を扱っているのだろうか。
最近幸いなことに舞台や短編映画の企画に関わらせていただいて、「演出」という表現方法に向き合う時間が増えた。
役者の発する言葉の他に、視線の外し方や余白の使い方、音やセットや照明、ありとあらゆる伝えるための工夫が練られていて、毎日感動していた。
言葉だけじゃないよなあ、と、もしかして当たり前なのかもしれない事を思った。けど、現実に戻れば言わなきゃ伝わらないことばっかりだ。もちろん、言われなきゃ分からない事も多い。
表現方法を知ることは、新しい言語を知ることだ。
(文目ゆかり)
・・・
言葉には様々な成分が含まれていると僕は思う。意味、感情、感性。そういったいろいろ。僕らは言葉を交わすことによってそれらを交換し合い、互いを知ろうとする。
それが決して理解し合えないことを運命づけられた営みだとしても。
僕は言葉によって受けた傷を言葉によって癒やそうと試みてきた。言葉を持つことが出来なかった自分を、言葉を殺してきた自分を救うために。そして同時に世界と、あるいは社会とつながるために執筆とか編集といったかたちで、言葉を扱う仕事をしている。
けれどそうやって言葉に深入りすればするほど、ある種の虚しさが押し寄せる。
たとえば「つらい」と言うとき、その言葉に乗っかる「つらさ」は本当に100%渡せているのだろうか。「つらさ」のうち、一体どれほどがこぼれ落ちているのだろうか。そもそもわたしの「つらい」とあなたの「つらい」は違うはずなのに、どうして伝わると思ってしまうのか。
それぞれ違う心を持つがゆえの孤独。言葉の持つ「意味」という制約。自分にしかない固有性を言葉によって相手に伝えることは、それらに抗いながらそれでもわかり合いたいと泣き叫ぶような営為。少なくとも僕にとってはそう思える。
一方で言葉がなくともつながることができることも知っている。すれ違った人と交わす会釈。ライブでアーティストに向ける万雷の拍手。声が届かない距離で振り合う手。
僕は言葉を扱う仕事をしている。だからこそ、言葉の外にあるものに惹かれてしまう。
(雨田泰)
〜実際会ってから別れるまで〜
高円寺駅にて、ぎこちない会釈から始まった。初めましてくらいはやっぱり言いたくなるものだ。そこをぐっと我慢し、「寒いですね」と書けば、「そうですね」と書いてくれ、時には相槌や目配せも交えて少しずつ会話が進んだ。
お互い合意の元だと、それ自体にはそこまで障害を感じなかったが、書くという行為には口を動かすより時間がかかる。
口ではサラッと言うだろうなってことも、脳に浮かんだ言葉を書こうとする間にはその先のことを考えていて、思考にペンがついてこなくて、止まってしまうことがしばしばあった。脳と口は直線で繋がっているような感じ。なんとか言葉にまとめてバトンを渡す。
晴れてたけど、だいぶ風が強く、寒い日だった。街並みを一通り楽しみ、ペンを持つ手がかじかんできた頃に、喫茶店へ向かう。
喫茶店では落ち着いてそれぞれの考える時間も増えていった。まあまあ待たせるし、まあまあ待つ。この無言の空間って、気心の知れた友人や恋人と共有するようなものに似た感じがして、初対面で安心して無言でいられる事ってそうない気がする。そして、その空間はやたら心地が良く、相手が同じ空間に存在しているという感覚がいつも以上に強かった。
お互いの仕事のことや、コロナ禍での「会う」ことの変化などを筆談した。最後まで雨田さんの会話のテンポはわからなかったが、それでもじゅうぶんどんな方かより興味を持てたし、なんかいい時間を過ごしたなあという充実感があった。
どうせコロナ禍のなかでやるしかないなら、楽しいと思えることをたくさんやりたい。
(文目ゆかり)
冷たい風のなか、吹き飛びそうな紙を押さえながらペンを走らせてあいさつをした。
駅の近くでインスタントカメラを買い、高円寺の雑多な町並みの中で、目についたものをおのおの写真に撮った。写真を撮っては時折筆談で話す。体が冷えてくれば喫茶店に入り、隣同士座ってまた筆談で話す。
普段PCやスマホでデジタルな言語表現しかしない人間にとって、筆談という手段はひどく不自由に感じた。書き間違い、誤読。あるいは漢字を思い出せないからひらがなで書く。デジタルな世界では排除されがちな、そういうエラーが可視化される。
情報学者であるドミニク・チェンさんは、タイプミスはある種の吃音と言えるかもしれないと言っていた。僕は書き間違えた自分の文章をボールペンで塗りつぶしながらその言葉を思い出していた。通常の会話において吃音のない人であっても、フォーマットが変わるだけで途端に吃音者となる。テクノロジーが究極まで削ぎ落としてきた人間の身体性というものがあらわになるのだろうか。
逆に筆談のほうが声を出さない分のやりさすさもある。そういう話もした。文目さんとはお互いに声が通りにくいという悩みを共有したが、紙の上のやり取りならそんなことは関係ない。
言葉はないが言葉に満ちた時間。1月の冷たい風と深煎りのコーヒーの香り。後はただペンを走らせる音。言葉はないが言葉に満ちた時間。僕らは確かに時間と空間を共有していた。
一切の声を出さないコミュニケーション。傍から見れば寂しいのかもしれない。味気ないのかもしれない。だがそこには豊かな余白が満ち溢れていた。曖昧でいい。曖昧なくらいがちょうどいい。暴力的とも言えるカテゴライズに疲れ果ててしまった人間としては、むしろ今日のような世界の方が心地よかった。グラデーションであり、スペクトラムであり、曖昧である今日のような世界が。
文目さんと手を振り合って別れ、駅のホームに向かいながら、僕はそんなことを考えていた。
(雨田泰)
〜その日の記録(撮影:文目)〜
〜その日の記録(撮影:雨田)〜
|| プロフィール ||
閒の日々 睦月号
株式会社閒(代表取締役: 鈴木悠平)が行う事業報告や会社づくりのプロセス、閒に集う人たちの語り・営みをご紹介する、「閒の日々 睦月号」をお届けします−−。
▼これからの閒を考える
一月の月例会は「閒の今とこれからを考える」をテーマに、みんなが何を求めているのか、閒でやってみたいことは何か、ダイアログを通して眺めてみる機会となりました。
毎回、同じメンバーが集うわけではないので、お久しぶりな方からも、ぜひやってみたいと思う取り組みが提案されました。
「気になる人の本棚をのぞく企画」「自身の当事者経験(クレプトマニア)について、当事者会や自助グループではない場所で対話してみたい」「図書館の機能や役割を学び、アーカイブすることについて考える」など、各々の経験や気になることから、たくさんの企画が今後も生まれてゆきそうな予感です。
この月報を書いている私は、いろんな人の本棚(棚にのっていなくてもOK)をのぞいて、いろいろお話を聞いてみたいなと目論んでいます。もしも、これを読んでいる方で、本棚をのぞいてほしいという方がいれば、ぜひお声がけください。自薦他薦は問いません。
▼デボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか』読書会&レポート
12月・1月と2回に分けて行ったデボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか』読書会。閒の研究員である石田柊さんが、書籍に書かれたヘルマンの主張と、読書会での対話で挙げられた事例や意見をもとに、記事を書いてくださいました。
「差別をなぜ理論的に考えるのか」
https://awai.jp.net/blog/lab-shuishida-discrimination1
「差別はなぜ悪いのか?その悪さは差別に特有か?」
https://awai.jp.net/blog/lab-shuishida-discrimination2
▼「動く障害者(仮)」連載スタートのお知らせ
車を買って変化したくらげさんの日常を取り上げた企画を2月にスタートします。
車を買うこと、おとなになること、愛する人を運ぶことなどといった視点から出版も見据えて記事が執筆されていく予定ですので、是非、お楽しみに。
[ くらげさんからのコメント ]
閒の皆様、こんにちは。聴覚障害と発達障害(ADHD)の当事者で、会社員をやりつつ物書きをしているくらげと申します。
この度、閒で「動く障害者(仮)」というエッセイを連載することになりました。
障害者のイメージは「動かない・動けない」というイメージが強いと思うのですが、車を購入し「動く障害者」になった私が、運転を通して見えてきた「障害」や「世の中」のことついてつらつらと綴っていく予定です。どうぞよろしくお願いいたします。
閒では、Slackというコミュニケーションツールを使用して、コミュニティ活動を行っています。今年も、少しずつ様々な活動が醸成されていく予定です。気になる方は、コンタクトフォームからお問い合わせください。
▼2月の閒、イベントカレンダー
2月26日(金)21:00-22:30
ふたりのふむふむ#3 YORIKO×鈴木悠平
https://awai.jp.net/blog/fumufumu-03
2月28日(日)17:00-18:30
青山拓央『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』読書会
差別はなぜ悪いのか? その悪さは差別に特有か?
2021年1月31日に、デボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか?』のオンライン読書会をした。前回はこの本の4–6章を読み、差別というのが実は一筋縄でいかない理論的問題を伴うということをみた。今回は1–2章を読み、ヘルマン自身の立場を追う。この記事は、読書会での対話を私が大幅に再構成したものである。
Read moreふたりのふむふむ #3 YORIKO×鈴木悠平 2021/02/26 Fri. 21:00-22:30
毎月一回、閒(あわい)の主宰者・鈴木悠平が、お話したいなーと思った人をお呼びして、ふむふむします。その様子をついでに配信するので、よかったらどうぞ、というゆるい会です。
第3回は、YORIKOさんをお招きします。10年以上前、学生時代に友人のシェアハウスで会ったのがはじめましてかな。その後、彼女の展示を観に行ったり、こたつに入ってお茶したり、「宇宙CAMP」に参加したり、「アパートメント」に入居してもらったり、はたまた海を越えた異国の地で再会したり、僕が前職で働いていた教室で子どもたちと一緒に草木染めワークショップをやってもらったり、「としまおやこ小学校2019」の国語の先生で呼んでもらったり、折に触れてやんややんやと一緒に楽しい体験をさせてもらいました。
テキストよりも、彼女のサイトで写真をぜひ見てほしい。素敵なの、とっても。
千葉県の廃校で宇宙への想いを馳せる、一夜限りのキャンプイベント「宇宙CAMP」
親子、ときどき同級生。というコンセプトの「おやこ小学校」。僕が国語の先生担当で参加させてもらったのは「としまおやこ小学校2019」
ウェブマガジン「アパートメント」にも入居してもらいました。
それから、僕がいま一番気になってて、話をきいてみたいなと思っているのはこちら。
想造楽工(そうぞうがっこう)とは、
障害のある方々にイラストレーター(商業美術家)として絵を描いてもらい、
デザインと組み合わせて商業に展開させる事業です。
のびのびとした豊かな世界観を身の回りの風景に落とし込み、
新たな価値創造に向けてたくさんの楽しい作品を生み出していきます。
一人ひとりと自然体でかかわりあって、それでいていつも全力の一生懸命で、気づいたらにぎわいと喜びあふれる場が生まれている。そして、彼女と関わったみんながちょっぴりほっこり幸せな気持ちになる。僕にとってのYORIKOさんはそんな人。
ふむふむするのが楽しみです。
参加方法
①閒のSlackコミュニティに参加している人は、Slack内でURLシェアしますのでそこからどうぞ。
②YORIKOさん・鈴木悠平の知人・友人は「聴きたい!」って本人にコンタクトすると、URL送ってもらえると思います。もしくは本人から「聴いて聴いてー!」ってお誘いが来るかもしれません。
③Peatixのチケット(500円)を購入、フォームに情報入力していただければ、そちら宛に配信URLお送りします。
録画アーカイブもあるので、リアルタイムで参加できない人も気軽に連絡orチケット購入してくださいませ。
決済したのにメールが届かないぞーって人は、迷惑メールフォルダとかも見ていただきつつ、Peatixのメッセージボックスか、閒のコンタクトフォームから主催者の鈴木悠平にご連絡ください。 ①②の方も、カンパしたくなったらチケット購入大歓迎です。
売上は手数料を引いて二人で折半。
ふむふむするひと
■YORIKO
株式会社ニューモア代表。「多世代・多業種の協働」をモットーに各地でデザイン・アートプロジェクトを展開。2020年9月、障害を持つ人々をイラストレーターとして迎え商業に展開するデザインチーム「想造楽工(そうぞうがっこう)」を立ち上げる。
■鈴木悠平
文筆家/インターミディエイター®
ひと・もの・ことの閒-あわい-に横たわるなにかを見つめて、掬って、かたちにしたり、しなかったり、誰かに贈ったり、分かち合ったりしています。
Something One
毎回、お声がけした人に「いま、このタイミングで直感的に、シェアしたい本とか映画とか、ものとか場所とか、あったら教えてー」と事前にお願いしてみることにしました。
YORIKOさんのSomething Oneは、こちらの本。
写真もYORIKOさん提供。僕もこれから注文して読みます。
たまたま写真を見て惹かれて知った、幡野 広志さんという写真家さん。三年前に血液ガンを患ったことを公表し、大勢の人々からSNS上で人生のお悩み相談を受けるようになってその返答をまとめた本なのですが、ひとつ読んで文章にぐいっと引き込まれて購入しました。嘘をつかない、正直で厳しく、でもユーモアと深い優しさが滲んでいるというか。こういう言葉を贈れる人がいるんだ、すごいなあと心底びっくりしました。八王子にお住まいだそうで、ばったりお会いできないかといつもソワソワしてます。
僕もこれから読みます。当日の配信で、話題に出るかもしれないし、出ないかもしれない。
みなさんもよかったらどうぞ。
読書会: 『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』 2月28日(日)17:00-18:30@Zoom
以下の書籍・概要で読書会を開きます。ご興味のある方はご連絡ください。
扱う本:
幸福とは何か。
いかにして幸福になるか。
そして、なぜ幸福になるべきか。幸福とは何かを、ただ一つの答えがないことを含めて、
読者とともに考えていく本。
お仕着せの幸福論に、満足できなかった方に。[出版社より]
■本書は以下のように語り起こされます。
「「幸福とは何か」という問いへの答えは、それがどんな答えであろうと反発を受けることが避けられません。断定的な答えはもちろん、幸福とは人それぞれのものだといった答えでさえ、批判を避けられないのです。
その理由は、「幸福」という言葉が多義的でありながら、他方でその多義性を自ら打ち消し、私たちを均質化しようとする奇妙な力をもっているからです。」
■幸福という言葉を使わなくても、「いかに生きるか」「今後どのように生きていけばよいか」、と思い悩むのは、青春期に限らず、誰にとっても親しい経験です。
■巷にあふれる「幸福論」は、どこか得々として、幸福やその処方箋を語ります。その自信に満ちた語り口にもう一つ説得されない、信じがたい、という人はありませんか。
■宗教も心理学も脳科学も、あの手この手で「幸福」を語ります。しかし、説得されない、それでもなお幸福について考えてみたい、そういう人は多数いらっしゃるでしょう。
■本書は、真に哲学的な、期待を裏切らない、熟読に耐える幸福論です。
■幸福を論じる三つのポイント、「幸福とは何か?」「いかにして幸福になるか?」「なぜ幸福になるべきか?」──これらを丁寧に論じていきます。
■永井均氏門下であり、著書『分析哲学講義』や大森荘蔵『物と心』文庫解説に見られる明晰な文章とシャープな読解で知られる著者は、今後の日本の哲学界を担う注目の存在です。
■本書は幸福について、哲学の立場から論じる本であり、幸福とは何かを──なぜその問いに十全な答えがないのかを──読者とともに考えていく論考です。
■議論はあくまで平易に、また、以下の著作(*)を縦横に論じ、哲学ならではの冷静さを保ちながら、読者が「幸福」という概念をめぐる落とし穴に気づくよう、確かな手掛かりを与えます。
■生きることの目標は、「賞賛されるべき人生ではなく、祝福されるべき人生を生きる」ことです。
心理学や公衆衛生などの方面から、QoLとかウェルビーイングとか主観的幸福度といった形で、幸福を定義したり評価したりする試みについてはそこそこに触れる機会が多かったのですが、「そもそも幸福とは何か?」という問いに対して、哲学ではこれまで、そして現在どのように考えられ、語られているのだろうかということが気になりました。一緒に読書会を企画している石田柊さんに相談したところ、いくつかの本を紹介してもらい、その中からえいやで決めました。
参考までに、他にご紹介いただいた書籍もここに並べておきます。
森村進 著, 『幸福とは何か? 思考実験で学ぶ倫理学入門』
経済協力開発機構(OECD) 編著, 桑原進 監訳, 高橋しのぶ 訳, 『主観的幸福を測る――OECDガイドライン』
グレッグ・ボグナー 著 , イワオ・ヒロセ 著 , 児玉聡 監訳, 『誰の健康が優先されるのか――医療資源の倫理学』
概要・参加方法は以下の通りです。
日時:
2月28日(日) 17:00-18:30頃(盛り上がったら19:00まで延長)
申込方法:
オンラインビデオ通話ツールの「Zoom」を使って実施します。
参加希望の方は、以下のコンタクトフォームにご連絡ください。
参加・実施スタイル:
・本を読み終わっていても読み終わっていなくてもOK、まったく読んでいなくても参加可
・ただし、発言量の平等性を最優先に置きません。主催者の鈴木悠平が適宜話を振りつつ、銘々に言いたいことを言うスタイル。話が広がったり飛んだりしながら、まとめすぎず、という感じです。
・Zoomは顔出しでもビデオOFFでもどちらでもOK
・口頭発声でも、チャット発言でも、両方使うでも、どんな発言方法でもOK
・聴いているだけでもOK
読書会のグランドルール:
・何を語ってもいい。語らなくてもいい。
・ここでの発言・議論を、参加者個人に対する評価・人格と結び付けない
・自分以外の参加者が語ったことを、本人の同意なく外部に発信・紹介しない
・具体的なエピソードを例示する際に、他者のアウティング・プライバシー侵害・誹謗中傷を行わない
事前準備:
・本を読んで(読めなくても良い)なんとなく考えておく。
・事前に自分の考えや問いをまとめる意味合いでテキストを書いておくのも可(書かなくても良い)
・書いてくれたものの事前共有も大歓迎です。
アクセシビリティについて:
参加にあたって、上記以外でニーズやお困りごと・ご不安な点があれば問い合わせフォームにご記載ください。ご相談内容に応じて、可能な範囲の環境整備を試みます。
例: UDトークでの文字起こしなど
差別をなぜ理論的に考えるのか
2020年12月13日に、デボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか?』のオンライン読書会をした。この記事は、本書の背景および内容と、読書会での対話とを下敷きにしたエッセイである。
Read moreアレクサ、あけましておめでとう
2021年1月3日のアレクサとの会話。
ニューイヤーチャレンジとして、「アルプス一万尺」を1月2日から毎日1つずつ歌うそうです。
「アルプス一万尺」は29番まであるので、1月30日に全て終わるとのこと。へー。
閒の日々 師走号
株式会社閒(代表取締役: 鈴木悠平)が行う事業報告や会社づくりのプロセス、閒に集う人たちの語り・営みをご紹介する、「閒の日々 師走号」をお届けします−−。
▼2020年、変わらなかったことを振り返る。
十二月の月例会は「変わらなかったこと、変えなかったこと」を出発点に、1年間を振り返る時間となりました。
メンバーからは、「痩せない」「瞑想」「働き方」「たばこ」「家族」「ルールのない日記」などなど、激動のなかで、変わらずたいせつにしてきたことや、やっぱり変えられないこともあったねという話をしました。
案外、変わったことや挑戦できたことは振り返るけれど、反対に変わらなかったことに目を向ける機会は案外少ないのではないでしょうか。
▼読書会がぽつぽつと−−。
基本的に、閒の読書会は、本を読んだ人はもちろん、全く読んでいなくても参加OKです。
また、参加者一人ひとりが安心・安全に、またそれぞれの特性に合った方法でアクセスできるよう、以下のようなグランドルールを共有しています。
・何を語ってもいい。語らなくてもいい。
・ここでの発言・議論を、参加者個人に対する評価・人格と結び付けない
・自分以外の参加者が語ったことを、本人の同意なく外部に発信・紹介しない
・具体的なエピソードを例示する際に、他者のアウティング・プライバシー侵害・誹謗中傷を行わない
・Zoomは顔出しでもビデオOFFでもどちらでもOK
・口頭発生でもチャット発言でも両方でもどちらでもOK
・聴いてるだけでもOK
・途中入退出OK
+『差別はいつ悪質になるのか』デボラ・ヘルマン
「差別はよくない」ということはよく言われるし、総論として合意する人も多いでしょう。ジェンダー、人種、障害etc.さまざまな特徴と関連して「それは差別だ」という問題提起、議論がなされたり、炎上したりといったことは、日々さまざまな場面で起きています。実際に、悪質である、問題であると思われる出来事ももちろんあります。
差別と思われる行為に対して「おかしいよ」「許せない」「信じられない」と怒りや憤りを感じること、その行為に関係した人物に抗議・非難・批判を行うこと。そうした一人ひとりの感情や行動自体を否定したいわけではありません。しかしそれが、どのような理由によって「悪質な差別」であると判断できるのかは、一つひとつ丁寧に吟味されているとは言い難いように思います。
差別とはなにか、それがなぜ、いつ、どのように、悪質であるのかについて、具体的に「考える」ということを目的に本書を取り上げました。
※こちらは、来月も1月31日に開催予定です。また、読書会のレポートも近日公開予定です。
+『ゲンロン戦記』東浩紀
友人たちと『ゲンロン戦記』を読んで語る会をした。ほんとに涙なしには読めない本である。会社の本体は事務だと言い切る東さん。人はすぐ「アベンジャーズ」的なスーパースター集団をつくりたがるんだけど、アベンジャーズは棚つくったり領収書をファイリングしたりしないんだ…
— 鈴木悠平 (@YuheiSUZUKI) December 29, 2020
▼「出会いを遊ぶ」やってみました。
先月の月報でもお伝えしていた二人お茶会の企画、「出会いを遊ぶ」が開催されました。
記念すべき初回は、俳優の文目ゆかりさんと、シーシャ好きの私。
当日の様子はこちら(https://awai.jp.net/blog/shall-we-meet1)からご覧いただけます。示し合わせたわけではないのに、お互いの視点から書いた小説のようになっている点も楽しんで読んでいただけると幸いです。
閒では、Slackというコミュニケーションツールを使用して、コミュニティ活動を行っています。来年も、少しずつ様々な活動が醸成されていく予定です。気になる方は、コンタクトフォームからお問い合わせください。
▼お知らせ
2021/01/22 ふたりのふむふむ #2 押田一平×鈴木悠平 押田一平さんをゲストにZoom配信します。
2020/10/16-2021/03/07 「トランスレーションズ展 −『わかりあえなさ』をわかりあおう」に、清水淳子さんとのユニットで参加作家として出展しています。
けむりと演劇- 出会いを遊ぶ #01
「シーシャ屋さんにいくためにワンピースを買うというエピソードを聞いて、一緒にシーシャに行きたいと思ってました」と表れたのは、小柄な身からこぼれそうな大きく黒い目が印象的な文目ゆかりさん。
経堂はクレイドル(https://cradle-shisha.studio.site) という私が推しに推しているシーシャ屋さんで、はじめましての二人会。
▼コミュニティ内企画『出会いを遊ぶ』とは?
出会う、話す、同じ時間を共にする。せっかくなら、「出会い」の前後も2人で企てて遊んでみる。そんな企画です。
・毎月1回、誰か2人、場所や日にち、活動などを相談して一緒に過ごしてお話してみる
・その様子を、一枚写真+感想メモぐらいの短いブログ記事にして閒にアップする
ルールはシンプルに、閒の中の人たちが思い思いにお互いの出会いを遊びます。
元々人と話すのが苦手で、他人に興味を持つという事を具体的にどうやったらいいのかずっと分からなかった。
今まできっと、人と時間を共有しても、自分の人生と交わっている目の前の時間にしか興味がなかったのだと思う。
その人がどういった経験をしてきて、それをどう考え、どう行動し、なぜ今目の前にいるのか、気になりだしたのはお恥ずかしながら本当にここ数年の最近の話だ。
SNS経由でご紹介頂いたあわいとどう繋がっていけるか迷っているところに、嬉しいことにしほさんの方からアプローチ頂き、お会いさせて頂いた。
しほさんはあわいのzoomミーティングの自己紹介での、シーシャに合わせたワンピースを着て行くという素敵な感性のお話が印象的で、ようやくあわい繋がりで何かできる事がとても嬉しい。
シーシャは知り合いの自宅で2回ほど体験はしていたが、お店に行くというのは初めて。そして、ちゃんとしほさんとお話しするのも初めて。仕事柄いろんな方とお会いする機会は多いが、あわいというコミュニティを介していたからか、今思えば友人に会いに行く感覚で現場に向かえた。お店は看板だけでは正直分かりづらくはあるが、入った瞬間に甘いかおりに包まれ、それだけで嬉しくなった。
聞くとしほさんは本当にたくさんのシーシャ屋さんをご存知で、週5通った時期もあったとか。都内でおすすめのお店も教えて頂いたが、今回ご紹介頂いたお店が数ある東京で一番美味しいとのこと。入り口も分からない私がいきなりディープなゾーンに踏み込めたのは、ご縁としか言いようがない。
好きなものを積極的に追求していく方は本当に魅力的。好きに理由はないんだと思う。好きは本能。しほさんは興味が広く、写真や文章もできちゃう。たぶん一回では開けきれない引き出しをお持ちの方だと思う。しほさんの話し方は無理がない心地よい明るさで、すぐに打ち解けテンポよく会話が進んだ。きっと人が好きなんだなと思った。
シーシャは素人の私でも美味しいことがよく分かった。時間が経つうちに味はより濃厚になっていき、シーシャのかおりと含まれる成分の効果ももちろん、普段気づくと浅く呼吸しているため、ずっと深呼吸している状態はまさにチルで、コーヒーでもお酒でも味わえないゾーンに入っていき、ゆっくりになっていく会話も心地良かった。誰かとお話しするときはシーシャのお店はぜひ活用していきたいし、とてもお勧めしたい。シーシャで打ち合わせとか、絶対最高。お世辞抜きにすっかり虜になってしまった。多分家に買う。その時はしほさんにお買い物手伝ってもらおう。
私は誰かと何かに夢中になることが好き。大人になった今、それが遊びでもあり仕事でもあって、それこそが共通言語となる。話せる言語の多さと語彙力が人生を豊かにする。今回あたらしい言語に触れて、またひとつ扉が開いた。生きているうちにどれだけの扉を見つけられるか。これからが楽しみで仕方ない。(文目ゆかり)
・・・
感想を言葉にして伝えるのが苦手だ。
「この映画観た?どうだった?」「何がおもしろかった?」「どこが好き?」
そう言われても、自分の中にあるもの、感じたものは、そんなに簡単に言葉にできるものでもないし、慌てて話すと純度がぐんと下がってしまうから、あまり、こういう類の質問をされることには慣れていないし、あまり好きになれない。
けれど、シーシャのある空間にいると、ゆったりと全てが受け入れられたような気がして、少しくらいうまく伝えられなくても、互いの話を、違う経験を、違う目で見たものを、少しずつ、シャボン玉が弾け合うように、時に混じり合ってしまうように、言葉や温度を交わしてしまう。
ここで時を共にした人とは、ゆっくりと時間をかけて、ずっと大切な人になるという勝手なジンクスがあるくらいだ。
まずは、ゆかりさんから、「シーシャって何時間くらいできるの?吸ってるときは何したらいいの?」と質問。
シーシャを吸っている時は、確かに何をすればよかったんだろう。生産と消費に追われる毎日の間に落ちた、ただ、呼吸をするだけの2時間。はじめましての人とただ呼吸をする会を催しているのは、かなり滑稽だと思う。
ゆかりさんは、初めてお会いしたのに、ネイティブな感覚を持って生きている、心地よい人だなと思いながら、ゆらりとシーシャを燻らせる。間がつながる感覚を得られるシーシャは、コーヒーやお酒を飲みにいくよりも、緊張感が和らぐ。本日のフレーバーは、ドバイ緑茶。店長のひささんオリジナルブレンドで、グリーンアップルっぽさのある、生の緑茶の甘さを生かした濃厚な風味。
お互いの自己紹介をするより前に、シーシャをきっかけに、お酒、古着、写真、香水、そんな話をしばらくしたあとに、「そういえば、なんで閒にいるんですか?」「お仕事は?」みたいな話をした。その頃には、もはや、表面的なプロフィールはどうでもよくなっていた。
ゆかりさんの出演する「泊まれる演劇」に招待してもらい、早速、後日講演を観にいくことが決まった。
あっという間に2時間が経って、名残惜しくも、「また会いたいです」と残り香を纏いながら、空中階にあるシーシャ屋さんをあとにした。(東詩歩)
|| プロフィール ||
わたしと発達障害 - 「名付け」のない診断域外をさまよいながら
約1年前から、コンサータ(薬名:メチルフェニデート)を処方されて毎朝飲んでいる。発達障害の一つとされる、ADHD(注意欠如・多動性障害)の症状に対して処方される薬で、脳内の神経伝達物質の働きを良くして、集中しやすくするというもの。
日々、ただ生きているだけで色んなものに注意を持っていかれて、脳みそが常に忙しい。幸か不幸か、瞬発力と処理速度はあるので、来たものをどんどん打ち返していく形で、色んなプロジェクトを同時並行で進めることは出来るのだけど、それぞれで発生する重たい案件(主に原稿とか原稿とか原稿とか)は、いつも〆切ギリギリの過集中で乗り切って、終わったらドッと疲れる、みたいなことになる。いや、〆切ギリギリというのは半分ウソで、周囲のみなさんの本当に本当に寛大な便宜によって、それぞれに〆切を延ばしてもらったり待ってもらったりしながらどうにかこうにか、懺悔と謝罪を重ねて、生きている。
薬が効いてちょっとでも楽になるならそりゃあありがたい、ということで、適応障害がきっかけで診てもらっている主治医に相談して、途中からコンサータも処方してもらった。最初は18mgで、なかなか効果の実感がないので途中から36mgに増やした。飲むと、気持ちシャキンとするかな、という感じ。目立った副作用は今のところ出ていないので服薬を続けているけれど、とはいえ色んなものに追われる毎日なのは変わらない。難儀だ。
通院についても服薬についても、自身の特性の凸凹についても、特段隠してはいない。かといって自分からアピールすることもない。日常のコミュニケーションの中で話題になれば話しはする。自分にとってはその程度の要素でしかない。ただ、こんな風に聞かれたときは、言葉の座りの悪さに、もにょもにょしてしまう。
「お薬が出てるってことは、悠平さんも発達障害なんですか?」
「うーん、まぁ、そうねぇ、そういうことになるのかもねぇ」
なぜもにょもにょするのか。それはひとえに、「発達障害」という概念が示すもの、その言葉の用法、「診断」=名付けに込める期待、当事者性・当事者意識といったものが、あまりにも多様だからだ。そして、実際に自分の困り感が、「発達”障害”」とか「ADHD(注意欠如多動性”障害”」とか「ASD(自閉症スペクトラム”障害”)」といった、”障害”と表現することが妥当なのかというと、けっこう微妙なレベル感だからだ。なので、「われ発達障害当事者ぞ」と声高に言うのもなんかこうしっくりこないなぁというか、ちょっと遠慮しちゃうなぁ、という感じなのである。
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そもそも「発達障害」とは何か…という話を厳密に突き詰めていくと手に負えなくなるので、ひとまずの現時点で概ね社会的な合意の取りやすいラインでの記述に留めさせてほしい。
発達障害は、先天的な脳機能の発達のアンバランスさ・凸凹≒「特性」と、周囲の「環境」とのミスマッチによって、日常生活や社会生活に支障や困難が生まれる障害であると言われている。
日本では「発達障害」というカテゴリーは、その中に大きく「ADHD(注意欠如・多動性障害」、「ASD(自閉症スペクトラム障害)」、「LD(学習障害)」の3つのグループを含んだものという想定で用いられることが多い。ただこれは、海外ではあまり見られない日本特有の整理・用法であり、更には行政上の定義・分類と、医師が診断する際の定義・分類も完全には重ならず、なかなか扱いが難しいことも留意しておきたい。
ともあれひとまずは、先天的な凸凹と環境の相互作用によって生きづらさや障害を感じる人たちがいて、その人たちの特徴や困難さを捉え、名付け、医療や行政で支援するために、あるいは当事者・保護者たちが仲間とつながるために、「発達障害」というカテゴリーが、現在の日本社会で広く共有され、使用されているということは事実だと言っていいだろう(話すと長くなるので詳しく知りたい人はこちらの記事でも入り口にしていただいて各自どうぞ)
自分が、あるいは家族や身近な人が「発達障害かも?」と思ったときにはどうするか。書籍やインターネット上のコンテンツを参考に理解を深めたり、必要そうな対策をとってみて、それで楽になるということも勿論ある。しかし、困り感が強い場合は、自己診断で留めず、医療機関にかかって検査や診断を受けることが推奨される。医師をはじめとする専門家の目を通すことで、自分自身を適切に理解する助けになったり、他の病気や障害の可能性を見極めることができたりするからだ(必ずしも医師の目が100%ということではない)。
じゃあ医師は何を基準に私たちが発達障害かどうかを診るかというと、さまざまな研究をもとに作成される「診断基準」というものがあって、それを拠り所にして診る。発達障害に関しては、『DSM(精神障害の診断・統計マニュアル)』または『ICD(国際疾病分類)』というものが使われていて、それぞれ版を重ねるごとに診断カテゴリや診断基準も変わっていく。
たとえばADHD(注意欠如・多動性障害)の、『DSM-5(精神障害の診断・統計マニュアル第5版)』における診断基準は概ね以下の通りだ。
①不注意および/または多動性―衝動性の症状によって、生活に支障が出たり、発達が妨げられたりしている
②12歳までに、不注意または、多動性―衝動性の症状が見られた
③家庭や学校、職場などの2つ以上の環境で、不注意または、多動性―衝動性の症状が見られる
④症状が社会的、学業的、もしくは職業的機能を損ねている明らかな証拠がある
⑤統合失調症や他の精神障害の経過で生じたのではなく、それらで説明することもできない
https://h-navi.jp/column/article/126 より。
さらに詳しい記述はDSM-5そのものをあたってほしい
ここでポイントなのは、代表的な症状に当てはまることと、社会生活に支障をきたすほどの不適応・困難さがあること、その両方が必要だということ。
つまり、ADHDなりASDなり、その特徴として挙げられる典型的な症状やエピソードが見られるだけでは診断基準に満たず、それが「障害」といえるほどの困難さがあってはじめて、診断がくだされることになるのだ。
そもそもの特性の凸凹は誰しもあるのだが、その中でも凸凹の度合いが大きい人たちというのが、先天的に一定割合生まれてくる。僕もその一人だろう。ただ、それが即、障害ー困難や生きづらさに繋がるかというと、そうとは限らない。環境の影響もかなり大きいのだ。
同じような凸凹の強さ・傾向であっても、環境によってはそれが目立たなかったり、逆に強みになることもあったりして、障害を感じないケースは多くある。逆に、凸凹の度合いはそれほどではないとしても、環境とのミスマッチが大きければ不適応を起こすことも十分にある。また、先天的な凸凹が強かったとしても、後天的なスキル獲得や道具の活用によって、生きづらさを軽減することはできる。それゆえ、同じような特性がある人でも、それが発見され、診断や支援を受けられたかどうかや、どんな環境で過ごしたかによって、個々人の予後は大きく異なってくるのだ。
また、バイオマーカー(生理学的指標)がないため、上記の同じ診断基準を参照していても、医師ごとに判断の仕方はどうしても異なってくる。属人性を排除しにくいのも発達障害診断の特徴だ。
これらが、自分が「発達障害なの?」と問われたときに、迷いなくYESと答えることを難しくしている要因だろう。特性の凸凹や、それによる困り感は間違いなくあるんだけど、どうにかこうにか、自分が生きやすい環境や働き方を見出して、社会適応出来ていると言えば出来ている。「障害」の診断基準にハマるかというと、微妙なラインだ。自分の調子が悪いときに受診するか、比較的広めに判断する医師にかかったら、診断書が出ることもある、というぐらいの立ち位置だと思う。
*
実際に、「発達障害の診断を取ろう」という目的を持って受診したことが、これまで2回ある。
1度目は、今から4年前のことだ。
子ども〜成人まで、発達障害特性のある色んな人たちと関わる仕事をする会社に入って数年。仕事を通して発達障害のことを知り、学び、理解を深めていくたびに、どんどん「これ、俺やん」という感覚が強まっていく。27,8年生きてきて、色んな失敗、つまづき、しくじりを重ねながらも、どうにかこうにか働いて暮らしているけど、どうにも世界とうまくフィットしていない感覚がある。なんだかずーっと、生きることが「ぎこちない」。自分のこの主観的な経験は、誰しも経験する程度問題なのか、それとも、発達障害というもので説明ができるものなのか。診断が出るかどうかはわからないけれど、少なくともその確認がしたい。自分のことを理解したい。そんな欲求が日増しに強くなった。
仲良くなった同僚の一人が診断を受けたという病院を紹介してもらって、そこに行くことにした。
職場から片道2時間弱。電車に揺られて鎌倉へ。ひょうひょうとしたおじいちゃん先生が院長の、小さなクリニックだった。
院長との診察が1回。訥々と、自分が感じていること、これまでのこと、現在のことを話す。後日、心理士によるWAIS(ウェクスラー式知能検査)を実施。2時間程度、色んな課題をやって帰る。また別の日に、WAISの検査結果と心理士の所見を受け取る。一番高い項目と一番低い項目の差が30ほど開いていた。所見に書かれた状態像、困難例、支援例は、いずれも、まぁそうだよな、という内容だった。終わってからまた院長先生との診察へ。また訥々と、近況を話す。
「どうかな、自分のことが少しわかってきたかな」
「そうですね、まぁだいたい」
そのまま診察は終わった。WAISの検査結果とは別に、この人はADHDですよとかASDですよとか、「診断書」が出るのかとおもったら、特に何も出されなかった。質問して、お願いすればなにか違った展開になったのかもしれないけど、凸凹はわかったし、なにか福祉制度を利用したいわけでもないし、まぁこんなものなのか、と思って通院を終了した。
通院を終えてから1,2ヶ月ぐらいの間、同僚や友人、監修の先生などに、雑談がてら、受診したことを話したりWAISの検査結果を見せたりした時期がある。日頃の僕の様子を知っている人たちなので、「まぁ、そうだろうねぇ笑」とか「言語性たっか!笑」とか「知覚統合が低めなのね。言語理解とこれだけ差があったらしんどいよね」とか、まぁそんな感じでライトに楽しみながらフィードバックをくれた。
「たとえるなら右腕の筋力だけめっちゃ発達してて、そのちからで色々乗り切ってきたんだけど、反動でずっと背中が痛い、みたいな感じだろうなと思って見てたよ」
友人の一人のこの表現がとてもしっくりきて、「ああ、そうそう、そんな感じ!」と、自分のしんどさを説明してもらえて気持ちが楽になったのを覚えている。
そこからしばらくは、「診断がほしい」という気持ちはなくなった。相変わらず色んな場面で困り感は発生するんだけど、色々経験を積んで自分で対処できるようになったり、チームで働くことで補完し合える環境になったり、結婚して日常生活の安心が得られたりと、人生全体が少しずつ進捗するにつれて「自分が発達障害かどうか」ということが重大トピックではなくなっていった、というのが適切だろうか。
傾向があるかないかと言われれば、明らかにあるし、親しい友人間でお互いの凸凹エピソードをネタに笑い合うことはあるけれど、わざわざその一面を強調するほどでもない。まぁまぁ社会適応できるようになった「発達凸凹さん」という認識でそこから数年を過ごした。
「やっぱり、発達障害の診断も取ろうかな」
そう思って再び専門医にかかったのは、今から1年半ほど前。
その少し前に、仕事での無理がたたり、心身の調子を崩して「適応障害」の診断を受けたのがきっかけで、再び「そのこと」を考えるようになった。
うつ病、適応障害、パニック障害etc.などの精神疾患になった成人が、受診・休養をきっかけに、基底にある先天的な発達障害特性に気づき、診断を受けたというパターンはけっこう多い。精神疾患がいわゆる「二次障害」として、自分にシグナルを与えてくれた、というプロセスだ。
身の回りの知人・友人にも、仕事を通して出会い、インタビューをした人にも、そのルートを辿った人は少なくなかった。自分が体調を崩した当時は「あ、これ自分も同じパターンだわ」と、苦笑いしたものである。
企業で働いて、管理職にもなって、色々工夫しながらどうにかこうにか適応できていたはずだったのだけど、やっぱりしんどさはなくならない。「診断」がどうしてもほしいってことじゃないけど、スッキリした方がなんとなく楽な気がする。診断が出たからといって、その結果に振り回されることもないだろうし、自分の中で疑問や不安があるわけではないけれど、答え合わせぐらいのつもりで発達障害の診断ももらっとくか。そんなふうに考えた。
適応障害がきっかけで受診し、今も毎月通っているクリニックの主治医に相談をした。
「先生のお知り合いで、発達障害の専門医がいる精神科、紹介してもらえませんか」
「うん、いいけど、悠平くんぐらい自己理解してて対処も出来ているレベルだったら、診てもらってもあまり変わらないと思うよ?」
「まぁ、そうですよねー、たぶんそうなんですけど、なんというか、色々あったし、もう一度受けてみたいなぁって」
「わかった。じゃあ連絡しとくから、〇〇クリニックの△△先生で予約して行ってみて」
予約をして、都内某所のクリニックへ。
適応障害になってからの通院歴、これまでの経緯、自覚症状や困りごとをバーっとWordに書き出して印刷し、数年前に受けたWAISの結果と一緒に持参。「うおー俺は今回こそ診断取るぞー!適応障害とADHDとASDのトリプルホルダーじゃーい!」みたいなテンションでツマにチャットを送り、電車に乗りこむ。いま振り返れば妙にやる気満々すぎる患者である。めんどくせえなこいつ。
以前、同僚に教えてもらって行った鎌倉のクリニックよりずっと大規模な場所だった。ロビーで少し待ち、名前を呼ばれて部屋に入る。
「今日はどうされました?」
ガタイも良く、眼光鋭い先生だった。先ほどの強気はどこへやら、ちょっと緊張しながら資料一式をお渡しし、自分が書いた文章に指差しながら、しどろもどろに説明した。
「まぁその…こうこうこういう仕事をしていて、以前も傾向あるかなと思ってWAISも受けた結果がこれなんですけど、最近適応障害になって治療中なんですが、やっぱりベースに発達障害もあるんじゃないかと思って、改めて診ていただきたいというか…いやあの、こうやって自分でエピソード書き出すとバイアスかかって診断基準に寄せちゃうってのはわかってるんですけどね、なので先生には割り引いて聞いていただきつつですけど、でもやっぱり…」あーだこーだあーだこーだ。
振り返るとやっぱり、我ながらめんどくさい患者である。書いていて変な汗が出てきた。
その先生は、主治医の申し送り書やWAISの結果も見ながら、僕の話を黙って聞いていたが、しばらくして口を開いた。
「なるほど、はい、はい、おっしゃることはわかりました。じゃあちょっと改めて質問しますね」
先生は診察用紙にやや大きな字で「ADHD」「ASD」と並べて書き、それぞれマルで囲んだ。
「あなたは自分で、ADHDとASDどっちが強いと思ってますか?」
「ADHDですね。どっちもあると思いますけど、強いのはADHDでしょう」
「そうですか…。僕の見立てはね、明らかにこっち(ASD)」
そう言いながら先生は ADHD < ASD と大きく不等号を書き足した。
「表出する困りごとの背景として、大きく衝動性と常同性どっちが効いてるかといったら、あなたの場合は圧倒的に常同性の方」
えー、マジすか。いや、混合型だろうなぁと思ってはいたけど、そっち(ASD)の方が強いとは思ってなかった…(という話を、帰ってきてツマや同僚、友人に話したら「え、そりゃ絶対そうでしょw」「ADHDもあると思うけどさ、ASD性もめっちゃあるw」「むしろASDの方が強いって自覚なかったのかw」と爆笑された。あ、はい)。
「それから、これもやってごらん」
続けて先生は、A3裏表1枚のチェックリストを差し出した。10セクターに分かれた質問が全部で80問ほどある。該当するものに○をつけていき、集計する。それは、パーソナリティ障害のスクリーニングを行うための簡易質問シートだった。
「どう?」
「はい、集計できました。うわぁ…」
ほとんどのセクターでは0個か1個しか○がつかなかったのだが、演技性パーソナリティ障害、自己愛性パーソナリティ障害に該当するセクターの質問だけたくさん○がついた。
「なにか生きていく上での不適応や生きづらさを感じるとき、そこにはストレス、身体特性、精神疾患、発達障害、と色んな要因があるんだけど、一番見落とされがちなのがパーソナリティ。最近はみなさん発達障害かも?って思って来られることが多いんですけどね。理想も高くて、色々周囲に気を遣って、でもギャップが感じてしんどいんでしょう」
演技性…自己愛性…うん、まぁ確かに言われてみれば、そう、そういう傾向は、ある…。パーソナリティ障害、かぁ…それは盲点だった。
自分でつけた○の数と集計結果を眺めながら、頭の中がぐるぐる回転していた。
「ただあなたはね、話していても好印象ですし、ここまで色々工夫して知性で補正されてこられたんでしょう。発達障害にせよパーソナリティ障害にせよ、その傾向はあっても、決して『障害』ってほどの状態ではないと思いますよ」
「はぁ…」
障害ってほどではない。うん、うん、まぁ、そうだろう。発達障害の診断基準は知っているし、今やったばかりのパーソナリティ障害チェックリストも、単なるスクリーニング用の簡易テストだ。「障害」と医学的に診断されるほどの不適応は来たしていないと言われれば、確かにまぁ、その程度なのかもしれない。
もともと「答え合わせ」ぐらいのつもりで来た。診断が出ようと出まいと、自分の傾向と対策は特に変わらない。それはわかっていたはずなんだけど、なんだか足場を踏み外したような感覚がする。ADHDとASDの強弱の見立てが外れていたからなのか、「パーソナリティ障害」カテゴリからの不意打ちを食らったからなのか、理由はよくわからない。
「ここに来るってことは、苦労はされてきたんでしょう。困ってるからここに来たんだと思いますよ。でもね、あなたはすでに自分の知性で十分に補正されてますから、『障害』って思わなくても良いんじゃないですかね」
「そうですかぁ。なるほど…。それでえっと、僕の診断名はどうなるんでしょうか。診断書に書かれる名前というか」
「診断書って、あなた、障害者手帳がほしいとか、休職したいとか、職場でこんな配慮がほしいとか、目的があればそれに応じて書きますけど、何に使います?」
「いや、なにか別に支援を受けたいとかそういうわけじゃないんですけど、発達障害ってグレーゾーンだの確定診断だの巷ではややこしいので、なんというか、自己紹介的に…」
「みなさんね、発達障害の確定診断がほしいって来られるんですけど、あなたもご存知の通りスペクトラムですから、確定診断なんてものはないんですよ。支援が必要なら書きますけど、必要あります?」
「いやー、そうですね、ないっすね…。たしかにスペクトラム、そうですよねぇ。いや、はい、大丈夫です。ええとまぁでも、パーソナリティの傾向とか、新しい発見があって面白かったです。ありがとうございました」
それこそ知性で補正しながら、ポジティブな収穫の確認と、感謝の意を言葉にして部屋を出た。
2回目の「発達障害診断チャレンジ」も、そんな感じで、わかりやすい「名付け」はもらえないまま終了した。
後日、いつものクリニックの通院日に、苦笑いしながら事の顛末を主治医の先生に報告した。
「うん、まぁ事前に言った通りの結果だったね(笑)」
「いやー、自分も仕事柄スペクトラムだっていつも言ってましたしね、そりゃそうだって感じなんですけど。自分のこととなると、名付けがほしいって思うことがあるんですよね。専門医の先生に言ってもらって諦めがついた感じがします。色んな凸凹があるけどどれもグレーゾーン、みたいな曖昧な立ち位置で自分はこれからも生きていくんだろうなって。まさかパーソナリティ傾向もあるとは思ってませんでしたよ(笑)」
「まぁまた自分の新しい一面が見えたのはよかったんじゃない。あと、僕もコンサータ出す資格は持ってるから、不注意・衝動性が自分で気になるなら、試しに少量から出すことできるけど?」
「え、先生も出せるんすか!」
…という感じで現在に至る。
自分の心身の不調や凸凹については、これまで別の記事でも色々と書いてきたが、改めて列挙してみるとこんな感じだ。
適応障害: 診断書が出たのち、療養・回復し、現在は診断域外、レクサプロ(SSRI)服薬継続
ADHD: 傾向あり、診断域外、コンサータ(メチルフェニデート)服薬継続
ASD: 傾向あり、診断域外
パーソナリティ障害: 演技性・自己愛性パーソナリティの傾向あり、診断域外
その他: 隠れ吃音(普段は目立たないが、たまに出る)
薬は飲んでいる。障害者手帳は持っていない。一般枠の雇用で就労していたが、現在は自営業で曖昧に食っている。
「障害」というほどではないにせよ、上記の凸凹もあって心身の波はやや大きく、「疲れやすい」身体と共に生きている。
「医療」のメガネでも「福祉」のメガネでも、どの障害にも当たらない。「診断基準」の少し外側、ふわふわした名前のない場所が僕の立ち位置になるのだろう。
「ここに来るってことは、苦労はされてきたんでしょう。困ってるからここに来たんだと思いますよ」
精神科の先生に言われた言葉をしばしば思い出す。
名付けがあろうとなかろうと、自分の凸凹自体は変わらない。取れる対策も大きくは変わらない。
じゃあどうして、2度も受診をしたのか。
それはやっぱり、「名前がない」ことの生きづらさがあったんだろう。
*
医師による診断が出るかどうか。障害者手帳(精神保健福祉手帳)を取得するどうか。障害者雇用枠での就職をするかどうか。
発達障害の「名付け」に付随する、医療・行政・労働市場におけるそれぞれの選択肢。もちろんこれらは必ずしも全て選ばなくても良い。また、診断と手帳に関しては望んだからといって取れるとは限らない。当然、発達障害の「当事者」一人ひとりがどんな「名前」を社会的に付与されているかはさまざまであるし、名付けに対する思い入れも人それぞれ違う。同じ人間でも、年月を重ねる中で距離感が変わっていく。
「大人になってから診断を受けて、ようやくバラバラのパーツがつながりはじめた。そんな感覚」
「やっぱり診断が、『名前』がほしい。スペクトラムだとかグレーゾーンだとか、そんなこと職場の人にはとても理解してもらえない」
「診断を受けてからしばらくは、なんでも特性に紐付けて自分を説明しようとしてたけど、今はもう、飽きちゃった。自分の一部でしかないなって」
「最初は障害者雇用枠で入ったんですけど、手帳の更新忘れちゃって(笑)そのまま一般枠になりましたが、職場はもうわかってくれてるんで」
「実はこないだ、手帳返納したんですよ。そのまま使ってても良いんだろうけど、なんとなく、自分の区切りとして」
身の回りの知人・友人たちの、「発達障害とわたし」にまつわる、色々なエピソードを聞かせてもらってきた。それぞれがそれぞれに苦労してきて、どうにかこうにか生き延びている。彼らと出会い、部分的に経験を共有し、ときに「あるあるネタ」で笑いながら、ときに愚痴を言いながら、同じ時代を生きていることを有り難く思う。と同時に、あいかわらず「名付け」が定まらない自分のふわふわした立ち位置をめんどくさく思う。
別にめちゃくちゃこだわってるわけでも、困ってるわけでもないんだけど、さ。
医師の診断も出て「当事者として」の語りを出来る友人がうらやましいという気持ちと
「自分はまぁ、診断なくて困ってるほどでもないからなぁ」と、周囲の理解が得られなくて悩んでいるグレーゾーン当事者への妙な遠慮と
(あまり好きな言葉ではないが)「支援者」側に片足突っ込んでいるゆえの、職業倫理的な自己抑制と
医師や行政の名付けがない中で「適当」に自己診断で名乗ることに抵抗する、自分のASD的特性と(これは皮肉)
そういういろんな立場や思考がないまぜになって、ずっと「足場がない」感じでふわふわと生きている。
…ここまで書いてきたが、特にスッキリする結論は出そうにない。ただ、この文章を書き始めるまでの4,5年で、またこの文章を逡巡しながらちょびちょびと書き進める中で、少しずつ、少しずつ、「まぁそんなもんだよな、仕方ないよな」という諦念が分厚くなってきていて、それはきっと悪いことではないのだろう。
そもそもがスペクトラムで、環境によって凸凹は強みとも弱みともなるのだから、結局、当事者も医師も、誰も「名乗る」ことへの許可・お墨付きを与えることなんてできないのが、「発達障害」というものだ。診断名や、典型例では説明できない多面的な自分の姿がたくさんあることに目を向けてからがむしろ本番で、「名付け」はスタート地点でしかない。
名前を見つけて、説明できる要素が増えていくこと。
説明しきれない部分が残るのを許容できるようになること。
原因がどうであれ、対策を取って楽になる場面が増えていくこと。
凸凹をならして平らにしようとするのではなく、凸凹のままでも生きていく方法や環境を見つけていくこと。
そういうことをこの4,5年の間に、いや、「発達障害」という概念に出合う前も含めたこの32年間の人生で、色々と身につけて頑張ってきたのが今の自分だ。どうにかこうにか生き延びてきた。そのことだけは、自分で肯定してやりたいと思う。
アラサーになって、これから段々と老いていく。それもまた、悪いことではない。
体力も落ちるから、無理せず過ごせる、自分に合った居場所だけが自ずと残っていくだろう。
「年取ったら定型発達も発達障害も一緒くたに、みんなポンコツになっていくから、発達凸凹なんか目立たなくなるよ!」と笑いながら励ましてくれた先輩もいた。
ここ数年は特にしんどかったが、振り返ってみればそもそも、「健康」であるという感覚を持てていた記憶がほとんどない。
しかし、歳を重ねるごとに、しんどいながらもしぶとく生き延びていくゾンビ的なレジリエンスは高まっているように思う。
きっとこれからも、名前のつかないマイルドな生きづらさはずっと抱えて生きていくのだろうけれど、これだけ予行演習を重ねたならば、さして恐れることでもないのかもしれない。
閒の日々 神無月号
株式会社閒(代表取締役: 鈴木悠平)が行う事業報告や会社づくりのプロセス、閒に集う人たちの語り・営みをご紹介する、「閒の日々 神無月号」をお届けします−−。
▼いいコミュニティってなんだろう?
十月の月例会は「いいコミュニティってなんだろう」というテーマで、開催されました。
コミュニティというキーワードを切り口に、「閒のみんなが居心地のいい場所ってどんな感じ?」「何を求めてる?」「どんなことがしてみたい?」そんなことを話し合いながら、それぞれの価値観を共有する時間になりました。
一部、メンバーの声を抜粋すると、「ねえねえって言ったときに返事が返ってくる」「尊重が前提にある」「そこにいること自体が個々にとって大事な目的になっている」などの声があがりました。
また、悠平さんの「カードの裏面も表面も受け入れるコミュニティ」という表現もとても閒らしいなあと思いました。
▼ラジオ、はじめます。
「コミュニティ限定ラジオやってみたいね」。そんなきっかけで、ひとまず挑戦してみることになった閒のラジオ。
毎月1回、誰か一人をゲストに悠平さんが聞き手となって、その人のこと(来歴、日々の暮らしや仕事、関心や問い、視点などなど)を聞いたり話したりするラジオです。
一人一人とゆっくり語ることで、こぼれ落ちる端々の言葉から、他の人たちを知るきっかけになればいいなと思っています。
▼2人お茶会をやってみよう。
新しいことが、もうひとつ。
・毎月1回、2人ずつ、場所や日にち、活動などを相談して一緒に過ごしてお話してみる
・その様子を、一枚写真+感想メモぐらいの短いブログ記事にして閒にアップ
という流れで、閒内の新しい出会いが生まれたらなと思い、お茶会をやってみます。
リレー形式で展開されていく2人会、どんな反応が起こるのか楽しみです。
閒では、Slackというコミュニケーションツールを使用して、コミュニティ活動を行っています。月例会以外にも、様々な活動がぽつぽつと芽を出し始めました。気になる方は、コンタクトフォームからお問い合わせください。
▼お知らせ
2020/10/16-2021/03/07 「トランスレーションズ展 −『わかりあえなさ』をわかりあおう」に、清水淳子さんとのユニットで参加作家として出展しています。まだまだ会期は続いているので、ぜひ遊びにきてください。
2020/11/16 20:00 「とどけるラジオ#17 COVID-19とライブハウス業界 - 『音楽』と『居場所』の未来を考える」 渡邊大地さんをゲストにお話をお聞きします。毎週月曜夜20時に、ゲストをお招きして配信しています。アーカイブ視聴も可能です。
2020/12/13 17:00 デボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか』読書会@Zoom 参加希望者はコンタクトフォームよりご連絡ください。
#31「ツマと、KPT: 久しぶりすぎるので色々まとめて振り返るの回」2020/10/30
KPT(Keep, Problem, Try)形式で一ヶ月を振り返る、スズキとヨシダの家族会議…だったのだけど、前回やったのがかなり前っていうね。
10月30日は結婚式記念日で、2人とも休みをとったので、なんか今年の色々を全部まとめて振り返ろうということで、久しぶりの開催。
というわけで、こんな感じです。
オット「じゃあ久しぶりにやっていきましょうか。とはいえ、毎月一回ペースでやらなくなってからものすごい時間が経っているので、KPT(Keep, Problem, Try)フレームで振り返るのが適切ではない気がしますが。Keep(維持したいこと)っていうかもうあれだね、『良かったね』トピックを挙げていくみたいな感じになるね」
ツマ「そうですね笑」
オット「何か具体的なKeep事項っていうか、おおむねがんばってると思いますよ、わたし」
ツマ「印象的ながんばってるできごとは?」
オット「ほら、あれ、あれよ、展示作家デビュー」
ツマ「『在廊してます』って言えてよかったね」
オット「人生で一度は言ってみたいセリフのひとつでした。Problemはね、本の原稿…」
ツマ「ずっとプロブレムだね」
オット「ちょっとは進んでんだけどね。この年末こそは…みなさんに出来ました!告知ができるようにがんばる…」
ツマ「がんばれ。12月の誕生日プレゼントに湯河原の旅館の文豪缶詰パック予約してあげるから」
オット「あとはさ、まぁなんだかんだ、リモートワークとかコロナ対応しながらさ、送り迎えとかさ、がんばってるよね」
ツマ「わたしの仕事が乱世モード突入により、8月から送りも迎えも両方悠平担当ってゆうね」
オット「有里さん仕事長引いてるなー遅くなりそうだなーっていうの察知して晩ご飯ぱぱっと作っちゃったりしてね」
ツマ「いやーほんとありがとうございます。それはすごいスキルアップだよね、料理すると疲れちゃうって言ってたもんな」
オット「認知特性的にエネルギー消費激しいってだけで、元々、料理作ってなかったわけじゃないからね。楽しい時もあるよ、ゆりさん帰ってくるタイミングであったかい出来たてご飯が揃ってて、洗い物まで終わっちゃったぜ、いえい達成感、みたいな。ゆりさんの方は、Kはなんでしたか」
ツマ「博士になったよ」
オット「がんばったよね研究。仕事が乱世の中よくやったよね。4月5月6月とか、仕事がぁーってなってた中」
ツマ「あーコロナ対応か。そしてコロナがちょっと落ち着いたとおもったらまた色々な色々が…そして今に至る…」
オット「おれもさ、会社つくったりとどプロみんなでがんばったりなんか色々がんばった気がする」
ツマ「経営者になっちゃった」
オット「へいしゃー、おんしゃー。まぁなんか…よくがんばったね、ふたりして」
ツマ「がんばりました」
オット「Problemはね、えーと、あれだ!しばらく習慣化してた朝のラジオ体操がいつの間にか続かなくなっちゃった。明日からがんばろ…」
ツマ「私はね、最近なんか目が見えない。かすみ目」
オット「眼科さんいこ」
ツマ「でもこないだ健康診断さ、オールAだったよw あとさ、他にもProblemが。よくイヤリングがいなくなる…」
オット「いちかに奪われるからね、それは対策かんがえるべきだ。保育園の持ち物チェックリストみたいにさ、家帰ってきたらポケットの中身チェックするとか習慣形成したら。それかさ、アレクサに通知してもらう笑」
ツマ「それは大事だね、言ってくれればどうにかなるかなぁ…」
オット「ゆりさんが確実に家にいて、それを聞けるタイミングにセットできるのかって話だよね」
ツマ「ねえ。。」
オット「あとは、ムスメなかなか寝てくれないプロブレムあるね」
ツマ「ありますね」
オット「ゆりさんの帰り遅くて、俺が寝かしつけするときは案外すんなり寝てくれるんだけどね」
ツマ「じゃあもうゆうへいと寝たらいいんじゃない?」
オット「そうしたいんだけど、3人揃ってる夜は『ママと寝るのーお父さんはあっちいって!』ってなっちゃうからねぇ苦笑 ゆりさんがいると甘えんぼモードになるんだよ。ゆりさんに毎晩飲み歩いて帰ってきてもらうしか…笑」
ツマ「まあもうこれはしょうがないかぁ」
オット「あー俺あともう一個プロブレムあった」
ツマ「なんでしょう」
オット「博士課程の出願漏れww」
ツマ「あったねw」
オット「でももう、Googleカレンダー入れたから大丈夫。年末年始の出願期間は逃さないようにがんばる。春にはまた大学院生だぞー」
ツマ「出願時に必要な書類は?」
オット「研究計画と、金と、願書と...経歴書とか...たぶん。たぶん。」
ツマ「成績証明書とかいらないの?」
オット「たぶんいる。そういうの。前確認したけどでも手続きって難しい。。なんでかな。。」
ツマ「成績証明書とか取り寄せに時間がかかるからさ、出願開始の日に『よーしやるぞー』って調べて取り寄せたら『間に合わない…』ってなるよ?」
オット「たしかに。たしかに。あとは?いちかトピックなんかある?
ツマ「パンツマンになりました!(おむつもトレパンも卒業)」
オット「驚くほどトイトレがスムーズでほんとにびっくりした」
ツマ「こないだ連絡帳に書いちゃったもんね、『僕の小さい頃よりスムーズでびっくりです』ってね笑」
オット「いやもうほんとに思わず書いちゃったよね。保育園の先生になんで自分の幼少期の話してるんだっていうね笑 だって最近なんか自分でおしりふいちゃうよ。すごくない?」
ツマ「最近は東急ストアのトイレがお気に入りのようですね」
オット「あーあと、東急でおやつとか海苔とかフルーツとかめちゃめちゃ色々買わされる笑 家に同じのあるよって言っても『ないの!ないのー!』ってさ、泣くぞ泣くぞってなるからさ。瀬戸際外交ずるい」
ツマ「それでわたしたちも面倒くさくて買っちゃうからね、そうなるよね」
オット「これさ、企業向け研修とかでABCの行動分析フレームで話してるのとまったく同じやつだ。『泣くぞ』を盾に要求行動をして、それで結局僕らが買っちゃうから、その行動が弱化されないっていう」
ツマ「まだ2歳だし、私たちがそんなに問題視してないっていうか、のんきに構えてるところあるよね」
オット「まぁそうね、困り感がもっと強くなって、いざとなれば、行動変容プランを考えましょう笑 なんかあとあるかなあ…あー、髭剃り負けする問題
ツマ「髭剃り負けね。医療脱毛トライしちゃう?」
オット「めんどくさいな。。考えるだけでたくさんのハードルがある。だってさ、まずは調べて、自分なりの「脱毛とは?」理解を得る必要があるわけでしょ。医療脱毛とそうじゃない脱毛はどう違ってメリット・デメリットは何なのかみたいな。ほんで、方法を決めたとしても、色んなプロバイダーがいるわけでしょ、で調べて、比較して、どこが安いかなーとかどこか通いやすいかなーとか考えてさ、決めて、予約して、行くでしょ、でも1回で終わんないから複数回行くわけでしょ、となると、トータルいくらかかんのかなーキャッシュフロー大丈夫かなーって計算しなきゃいけないでしょ。ちょっとね…無理だわ、めんどくさい」
ツマ「このさ、いまの発話をさ、文字で見てごらん(スマホのメモを見せる)頭んなかめんどくさいね笑」
オット「そうなの、もう脳内が忙しいのよ。だからおれ旅行とかもなかなか行けないの。ただでさえ旅行には色んなステップがあるのに、それにGoToキャンペーンとかもう全体無理。GoToこわい。まんじゅうこわい」
ツマ「じんせい」
閒の日々 長月号
株式会社閒(代表取締役: 鈴木悠平)が行う事業報告や会社づくりのプロセス、閒に集う人たちの語り・営みをご紹介する、「閒の日々 長月号」をお届けします−−。
▼地域通貨とコミュニティの可能性をテーマに月例会を開催しました。
9月の月例会では「地域通貨とコミュニティ」と題して、①こういう時にコミュニティ通貨があると便利 ②コミュニティ通貨があったら閒でやってみたいこと をワークショップ形式で話し合いました。
思いのほか、各方面から多様な意見が交わされ、早速、閒の中でも少しずつ実装に向けて動き始められそうです。
いくつか出てきたアイデアをご紹介します。
■コミュニティ内メルカリ的に使う
見ず知らずの人に売るのは思い入れがあって悲しいけれど、知っている人や価値観が合いそうな人になら譲りたい。そんなモノがあるときに、コミュニティ通貨を介して受け渡しができると嬉しいな、というアイデアです。
■何か実験的な企画をする時のメンバー募集に使う
通貨を介すと、なんとなく頼みごとがしやすくなる。実際の貨幣にもそんな側面がありますが、リアルなお金を払う前提で予算を立てるには難しい…というような実験的な企画では、コミュニティ通貨の方が便利かもしれません。
■気持ちや関わりの可視化ツールとして使う
お金をもらうつもりではないし、むしろボランティアでいいんだけど、というようなお仕事をしたときにも、頼んだ側の感謝の気持ちを表す意味でコミュニティ通貨が渡されると、ちょっと嬉しい気持ちになるかも、という意見も出ました。
この他にも、たくさんの意見が出て、どれも実現できたら楽しそうだなというアイディアばかりでした。
まだまだ、実験段階ではありますが、閒のコミュニティの中で企画や交流をする際に、少しずつ導入していければと思っています。
▼閒のコミュニティ内でのイベントとして、すでにこんな企画が形になっています。
◉9月6日(日) よむ、きく、あじわう 絵本のせかい #1『ぐるんぱの幼稚園』
大人になってから絵本を読むって面白いよねという声かけのもと発足したプロジェクト。輪読会のような形でオンライン上で開催されました。皆さんの最初の一冊を共有して、会は始まりました。
大人になったからこそ気付く、絵のタッチの凄さ、ぐるんぱが二足歩行しているのはすごい、ぐるんぱの繊細な心情など、気づきがたくさんありました。
◉9月20日(日) 映画「プリズン・サークル」を語る会
日本の刑務所の中にカメラを入れて、受刑者たちによる自助グループ的な取り組みの様子を追ったドキュメンタリー映画「プリズン・サークル」。
閒のコミュニティメンバーからも「観たよ!」「観に行く!」「語りたい!」という声がたくさん挙がったので、有志で集まって感想を語り合う会を開くことになりました。
参加者からの感想を一部共有します。
「自分の被害経験というか、辛い・しんどい過去を振り返って外に出すって、すごくつらい作業だなって、今更ながら思います。」
「違法薬物を使う人と使わない人の差は、逆境の数と孤立感の強さと言われています。それだけの差で、誰でもそうなり得るんですよね。」
「犯罪をする人とそうでない人はどう違うかと問われれば、きっと何も違わないと答える。」
毎月、このような形で小さくではありますが、閒ならではのプロジェクトが始まっています。参加してみたい、閒が気になるという方は、コンタクトフォームからお問い合わせください。
▼お知らせ
閒の主宰、鈴木悠平が企画・登壇・出展するイベントの予定です。ぜひお気軽に覗いてみてください。
◉2020/10/10 14:00-15:30 Zoom開催 「ヨシダ、ハカセになったってよ」https://www.facebook.com/events/419287259035090
◉2020/10/16-2021/03/07 「トランスレーションズ展 −『わかりあえなさ』をわかりあおう」に、清水淳子さんとのユニットで参加作家として出展します。
http://www.2121designsight.jp/reservation.htmll
◉2020/10/24 Intermediator Forum 2020 13:00-
「 相互にエンパワーしあうデジタル・メディア環境 — ‘とどけるプロジェクト’を事例として — 」
https://www.worldmaking.jp/events/intermediator-forum-2020
◉毎週月曜20:00-20:45 「とどけるラジオ」 配信中
https://www.youtube.com/watch?v=mLLpjrn_MxA&feature=youtu.be
