あわいの企画でまた一つ悠平さんに出会いを計らっていただいた。
正直、緊急事態宣言が出た後でどうするか迷ったが、この際いっそ、飛沫の元となる会話や接触を一切しない方向で徹底しましょうとなり、一言も会話をせず3時間ともに過ごした。
会話は全て筆談、筆記用具は別々、マスク外さない、喫茶店では向かい合わず隣に座り、蓋つきのコーヒーを飲む事にした。
想いを伝えるのは確かに言葉が一番わかりやすいが、それ以外の表現が世の中にたくさん存在する。そのうちの一つである写真を今回は選び、お互い気の向くままに撮っていったので、それは最後に載せようと思う。
〜言葉について〜
言葉は日常に馴染みすぎていて、なんでも言葉にする事に私は少し疲れている。
コロナ禍で気付いたのは、「体感」するのが好きだということ。
日光を浴びること、毎日変わる空の色を見ること、散歩しながら暮らしの風景を浴びること、誰かにコーヒーを淹れてもらうこと、イヤホンで大音量で音楽を聴くこと(言葉を理解したくないので邦楽より洋楽の方が聴く)。映画も家で観るより断然映画館だ。
言葉はどこから生まれてどのように根付いたかは前々から興味のある事だった。
伝えることはなんでも言葉だし、考え事も言葉。脳の中から言葉を取り出したら人は一日にどれだけの言葉を扱っているのだろうか。
最近幸いなことに舞台や短編映画の企画に関わらせていただいて、「演出」という表現方法に向き合う時間が増えた。
役者の発する言葉の他に、視線の外し方や余白の使い方、音やセットや照明、ありとあらゆる伝えるための工夫が練られていて、毎日感動していた。
言葉だけじゃないよなあ、と、もしかして当たり前なのかもしれない事を思った。けど、現実に戻れば言わなきゃ伝わらないことばっかりだ。もちろん、言われなきゃ分からない事も多い。
表現方法を知ることは、新しい言語を知ることだ。
(文目ゆかり)
・・・
言葉には様々な成分が含まれていると僕は思う。意味、感情、感性。そういったいろいろ。僕らは言葉を交わすことによってそれらを交換し合い、互いを知ろうとする。
それが決して理解し合えないことを運命づけられた営みだとしても。
僕は言葉によって受けた傷を言葉によって癒やそうと試みてきた。言葉を持つことが出来なかった自分を、言葉を殺してきた自分を救うために。そして同時に世界と、あるいは社会とつながるために執筆とか編集といったかたちで、言葉を扱う仕事をしている。
けれどそうやって言葉に深入りすればするほど、ある種の虚しさが押し寄せる。
たとえば「つらい」と言うとき、その言葉に乗っかる「つらさ」は本当に100%渡せているのだろうか。「つらさ」のうち、一体どれほどがこぼれ落ちているのだろうか。そもそもわたしの「つらい」とあなたの「つらい」は違うはずなのに、どうして伝わると思ってしまうのか。
それぞれ違う心を持つがゆえの孤独。言葉の持つ「意味」という制約。自分にしかない固有性を言葉によって相手に伝えることは、それらに抗いながらそれでもわかり合いたいと泣き叫ぶような営為。少なくとも僕にとってはそう思える。
一方で言葉がなくともつながることができることも知っている。すれ違った人と交わす会釈。ライブでアーティストに向ける万雷の拍手。声が届かない距離で振り合う手。
僕は言葉を扱う仕事をしている。だからこそ、言葉の外にあるものに惹かれてしまう。
(雨田泰)
〜実際会ってから別れるまで〜
高円寺駅にて、ぎこちない会釈から始まった。初めましてくらいはやっぱり言いたくなるものだ。そこをぐっと我慢し、「寒いですね」と書けば、「そうですね」と書いてくれ、時には相槌や目配せも交えて少しずつ会話が進んだ。
お互い合意の元だと、それ自体にはそこまで障害を感じなかったが、書くという行為には口を動かすより時間がかかる。
口ではサラッと言うだろうなってことも、脳に浮かんだ言葉を書こうとする間にはその先のことを考えていて、思考にペンがついてこなくて、止まってしまうことがしばしばあった。脳と口は直線で繋がっているような感じ。なんとか言葉にまとめてバトンを渡す。
晴れてたけど、だいぶ風が強く、寒い日だった。街並みを一通り楽しみ、ペンを持つ手がかじかんできた頃に、喫茶店へ向かう。
喫茶店では落ち着いてそれぞれの考える時間も増えていった。まあまあ待たせるし、まあまあ待つ。この無言の空間って、気心の知れた友人や恋人と共有するようなものに似た感じがして、初対面で安心して無言でいられる事ってそうない気がする。そして、その空間はやたら心地が良く、相手が同じ空間に存在しているという感覚がいつも以上に強かった。
お互いの仕事のことや、コロナ禍での「会う」ことの変化などを筆談した。最後まで雨田さんの会話のテンポはわからなかったが、それでもじゅうぶんどんな方かより興味を持てたし、なんかいい時間を過ごしたなあという充実感があった。
どうせコロナ禍のなかでやるしかないなら、楽しいと思えることをたくさんやりたい。
(文目ゆかり)
冷たい風のなか、吹き飛びそうな紙を押さえながらペンを走らせてあいさつをした。
駅の近くでインスタントカメラを買い、高円寺の雑多な町並みの中で、目についたものをおのおの写真に撮った。写真を撮っては時折筆談で話す。体が冷えてくれば喫茶店に入り、隣同士座ってまた筆談で話す。
普段PCやスマホでデジタルな言語表現しかしない人間にとって、筆談という手段はひどく不自由に感じた。書き間違い、誤読。あるいは漢字を思い出せないからひらがなで書く。デジタルな世界では排除されがちな、そういうエラーが可視化される。
情報学者であるドミニク・チェンさんは、タイプミスはある種の吃音と言えるかもしれないと言っていた。僕は書き間違えた自分の文章をボールペンで塗りつぶしながらその言葉を思い出していた。通常の会話において吃音のない人であっても、フォーマットが変わるだけで途端に吃音者となる。テクノロジーが究極まで削ぎ落としてきた人間の身体性というものがあらわになるのだろうか。
逆に筆談のほうが声を出さない分のやりさすさもある。そういう話もした。文目さんとはお互いに声が通りにくいという悩みを共有したが、紙の上のやり取りならそんなことは関係ない。
言葉はないが言葉に満ちた時間。1月の冷たい風と深煎りのコーヒーの香り。後はただペンを走らせる音。言葉はないが言葉に満ちた時間。僕らは確かに時間と空間を共有していた。
一切の声を出さないコミュニケーション。傍から見れば寂しいのかもしれない。味気ないのかもしれない。だがそこには豊かな余白が満ち溢れていた。曖昧でいい。曖昧なくらいがちょうどいい。暴力的とも言えるカテゴライズに疲れ果ててしまった人間としては、むしろ今日のような世界の方が心地よかった。グラデーションであり、スペクトラムであり、曖昧である今日のような世界が。
文目さんと手を振り合って別れ、駅のホームに向かいながら、僕はそんなことを考えていた。
(雨田泰)
〜その日の記録(撮影:文目)〜
〜その日の記録(撮影:雨田)〜
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