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#12「ツマと、夕食: 一寸先は産休」2017/10/19

October 19, 2017 Yuhei Suzuki
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オット「てか今日寒くない?」

ツマ「だから寒いって言ったじゃん朝w昨日より寒いよって言ったのに昨日より薄着で出るから」

オット「なんか大丈夫な気がしたんだよ朝は…しかしもうだめだ、いよいよもって夏は終わったのだ」

ツマ「とっくに終わってるよ。女子がダッフルコート着る夏なんかないよ」

オット「そして近づくツマの産休里帰り。俺ちゃんと生活できるかな」

ツマ「ちょっともう私はリモートであなたの面倒見る余裕ないんでがんばってくださいw」

オット「いやでも最近は改善の兆しが出てるし大丈夫な気がするのよ。あんまり床で寝なくなったし、電気も消すようになったし」

ツマ「いやそれ私途中で声かけてるからな」

オット「え」

ツマ「え、じゃない」

オット「Pありで○ってとこか…」

※療育等の業界用語で、ターゲット行動に関して、他者の声かけなどの補助(プロンプト: P)ありで実施できたかどうかを示す時に言います

ツマ「いや○でもねーよ、起こしても聞かないことあるから」

オット「Pありで△…」

ツマ「それ出来てないってことね」

オット「はい」

ツマ「まぁ睡眠も大事だけど、心配なのは洗濯ね」

オット「2人暮らしのときより洗濯機のドラムが埋まるスピード遅いから絶対に油断する」

ツマ「気がついたらパンツが無いみたいなことなるよ」

オット「Gカレに定期で予定入れよう」

ツマ「パンツの総量マイナス3ぐらいの日にちでリマインダーかかるようにしとこうな」

オット「賢明」

ツマ「今パンツ何枚あるの」

オット「わからん」

#12 「ツマと、夕食: 一寸先は産休」2017/10/19

本日の夕げ

・はんぺんと鶏肉のナゲット

・ゴーヤの唐揚げ

・さつまいもと大根の煮物

・雑穀ごはん

・豚汁

上がオット作

下がツマ作

ちょっと俺うまくなったんちゃう?

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人生の主導権の話、あるいは「好き」を「仕事」にということについて

October 18, 2017 Yuhei Suzuki
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「好きを仕事にする」というのは、もうけっこう手垢にまみれた言葉になってしまったけれど、これを高次元で達成できている人というのは多くはないように思う。それはつまり、関係性のデザインなのだろう。

物事の好き・嫌いというのは、個々人の自由なのだから、「好き」を追求することが他人にとって価値を生むかどうかというのは別に必須条件ではない。別に好きな分野に対して上達や卓越の義務が課されることもない。寝転びながら漫画を読んでいたっていいわけだ。

一方「仕事」というのは他者に向かっての贈り物だから、自分ではなくて相手がどう思うかというのが第一に重要であって、極端に言えば、相手が価値を感じてお金を払ってくれる限りにおいては、自分がその仕事を大嫌いであったってなんの問題もないわけである。

そもそも逆のベクトルを持っているのだから、「好き」と「仕事」が重なるなんてことは当たり前でもなんでもない。

「好き」を「仕事」にできたと思ったら、気がつけば仕事としての要求値がどんどん上がっていき、自分の好きを大事にすることよりも相手の期待値に寄せていくための骨折り汗かきで日々が覆い尽くされる…なんてこともなくはない。

でも「仕事」を通して他者の目にさらされたり、共通言語で語れる人と出会えるというのも確かであって、それは個人の趣味や内的世界の中で「好き」に耽溺しているだけではなかなか開かれないポテンシャルなのだと思う。

あとは一度、「仕事」とか「世間」に思いっきり揉まれて振り回されることで、ほんとに自分の「好き」の中で譲れない大事な要素とそうでないものが見極められるようになることもあるから面白い。

まぁ、無理しすぎて潰れたら元も子もないんですが、緊張と弛緩、開放と内省、振り子を何度か振る中で、みんなそれぞれに、自分にとってちょうどいい振り幅を見つけていけると良いよね。

自分の「好き」に没頭できて、なおかつ他者との接点を持ち、経済性を持てるという環境のデザイン。

そのためには人生の主導権を誰かに渡さないことが重要で、引っ張られたり相手に寄せたりしながらも、最後の最後で自分が決める余地を守ること。

じゃないと「こっちだな」「こうだな」が見えてきた時に、自分の身体を動かせないから。

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ダッフルコート女子による「夏は終わった」宣告 あと弱さに開き直ることについて

October 17, 2017 Yuhei Suzuki
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いよいよもって「夏は終わったのだ」ということを認めざるを得ない感じの気候である。えーでもだって先週ちょっと暑い日があったし、お、これはまだ大丈夫かな?みたいな何に対しての大丈夫かわからないけどそんな感じで油断してたらいつの間にか道行く女の子はダッフルコートとか着ちゃうし(かわいい)自分はうっかりサンダルで出かけちゃって後悔するしでなんだったんだこないだの夏日は変な希望を持たせないでくれ今週なんか毎日雨だし寒いしこれはもう一縷の希望もなく夏は終わったのだ認めざるを得ない。

ここ数週間はなかなか苦しい時期が続いていて、今もまぁ忙しいには忙しいのだけど、先週末から今週にかけてちょっとずつ気持ちは上向いてきた。

昨日のイベントでは、弱さとか有限性こそ資源なのだという話をした。(もっと色々話したんだけどそれはまた別の機会に)

ひとつの物差しだけで見ると量的競争の相対評価になるのだけど、関係性や相互作用のなかでみると色んな強弱を持った人間同士が交わり合うことで結果足し算だけではつくれないダイナミズムを生み出せるのが面白い。

ここ最近のしんどいなーつらいなー弱ったなー期間はまぁそれは私は死んだ顔をしていたと思うんですけど、一方で、実はそうやってエネルギーが減衰していくことが次の活路になっていたんじゃないかなって今は都合よくそう解釈してます。

弱っていること、今自分はけっこう苦手なことをして踏ん張ってることを、開示するというか開き直るというか、まぁ回りも察してくれたのもあるし自分からけっこうSOSを出したりして、そしたらばまぁ皆さん助けてくれるわけですね。気付いたらチームもとっても頼もしい感じになってきて、ほんでよくよく考えたら僕の手元で抱えてるボールとかよっこいしょと背負ってる荷物とか、もっとフィットしてる人に手渡せそうだなーみたいな、いや僕が甘えてて皆さんにお世話になってるだけかもしんないですけど、まぁそんな感じでさ。

弱ったなーうーん弱ったなぁの極みのタイミングでGカレ飛ばした1on1メンタリングが今日あったわけですが、まぁ会うまでに8割方解決していたりしたんだけど、なんだかんだといつもエンパワーしてもらってますよ。

「悠平もそれぐらい悩むときあるんだね。けっこう自己解決するタイプだもんね」

「アーティストはだいたいアップダウンが激しいもんだけどお前は珍しいよね。そんなに周囲に合わせる必要ないよ、合わせたままでよくつくれるね」

とかとか。

踏ん張りが必要な時期なのは変わらずなのだけど、何に一番エネルギーと時間を注ぐかはより明確になったので、気持ちだいぶ楽になったかな、みたいな。

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働く妖怪人間

October 15, 2017 Yuhei Suzuki
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正直、けっこう苦手なことをしているなという自覚はある。

心身いろんなところの神経接続がずいぶんとぎこちない感覚があり、妖怪人間ベムじゃあないけど、「はやく人間になりたぁい」といっつも思いながら、どうにかこうにか日々を乗り切っている。

仕事が早そうに見えるのはごまかし効いてるだけで、私のパラメータ配分は言語処理能力だけに異様にポイントが振られたような感じなので、数的処理とか空間認知とかあるいは人の感情を読んでその場の流れに乗ったり作ったりみたいなものはかなりの苦手意識があり、そういうものはいつも脳内だったり手元のメモ帳だったりを駆使して、一度言語情報に落とすというステップを踏んで、つまり言語で補助線を引きながら理解して対応している、という回り道なのだ。うまくやれてるように見えてても相当疲労する。

しんどいことが多くてもなんだかんだと仕事が続けられているのにはたぶんいくつか理由があって。

1つめはそれがまさに「仕事だから」だ。仕事なんだから、自分の内的葛藤や逡巡や苦手意識なんかよりも、ユーザーが必要としている価値を生み出して届けることのほうが当然に重要なのであり、そのためなら苦手なことだってなんだってやるのだ。やっていくうちに苦手でもできることは多少は増えるし、自分たちのやっていることを必要としている人がいると信じられる限りは勇気だってエネルギーだって湧いてくるってものなのだ。たぶん僕は仕事じゃなかったら、仕事というものがなかったら、何事も続かないし、なおのこと人間になれない。

2つめに、仕事を「働く」という観点で、つまり仕事をする自分自身の側とか、自分と一緒に仕事をするチームの側から捉えたときに、自分のような凸凹が大きい人間でもどこかピースとしてはまるところがあるだろうと信じられるし、そう信じていられるうちは見つかるまでがんばろうと思えるのだ。1つめの話に続けて言えば、仕事というのは「成果」で判断されるものだから、成果を出すための手段は1つに固執しなくて良いわけである。もしたった一人だけで成果を出せ、なんて言われたら、得意も苦手もなく1から100まで血反吐を吐いてがんばる、みたいな選択肢しかないわけであるが、チームでやるならば、自分が苦手なことは自分より得意な人に任せ、その人が苦手なことはこれまた別の得意な人に任せ、という組み合わせでもってトータルの成果を出せればいいわけだから、それぞれが自分の得意に専念できる環境をつくる、というのが最適解になる。妖怪人間でも妖怪人間らしく輝ける場所があったりする。

ところがしかし現実はなかなか理想通りにはいかないわけで、常にあらゆるリソースがベストな組み合わせで揃っていることなんかあり得ないので、なるべくチームとしての最適解を目指しつつも、やはり段階的には、それぞれがちょっとずつ苦手な部分も引き受けて踏ん張って乗り切る、みたいなことは避けられない。

その「踏ん張り」の必要度合いというのは時期によってまちまちだけれど、最近はどうしても大きな踏ん張りが必要な時期であることを自覚していて、そういう時に何が支えになるかっていうと、結局は自分にとって大事な人たちの「信頼」に他ならないのだと思う。僕の場合は特に。

「今は成長痛だね」という言葉と、「お前はお前にしかできないことをやれ」という言葉の両方を僕にくれたのは前の上司なのだけど、その一見矛盾した言葉が意味を成す、両立し得るということを僕は知っているし、どういう思いでそれを投げかけてくれたかを僕は勝手に想像して自分の勇気としている。

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いくら「経過は順調ですね」と言われたからとて、私たち、何に安心できるというのか

October 14, 2017 Yuhei Suzuki

「別に何もなくたって妊婦は自然に涙が出たりするんだから」

寝床でほろりと涙を流したツマに、「どうしたの」と聞いたらそう答えた。

「見通しが立たないもの」

ポツリとつぶやくツマを見てハッとした。

そりゃあそうだ。買い物だの健診だの仕事や生活の話し合いだの貯金のことだの、なんやかんやと「準備」を進めたからとて、我が子がこのまま無事に産まれてくる100%の保証なんて、ない。

「経過は順調ですね」なんて言われながら、ツマのお腹は順調に大きくなっていく。安定期に入ってから特段体調を崩す様子もなく、来月産休に入るとは思えない感じで今まで通りにバリバリ働いている(もちろん業務整理は進めているようだが)。

だからといって、それはイコール、このまま順調に、子どもが産まれてくることに確証を与えない。

ツマの身体に異変が起こって、母子の健康に危機が迫る事態がいつ起こるとも知れない。12月22日が予定日と言われて、まぁ前後しても1週間ぐらいかななんて安心していたら、11月のうちに超未熟児で早産…なんてことが起こらないとも限らない。

「見通しが立たないもの」

そりゃあそうだ。産前産後の暮らしやお金のことについて、いくら万全の予測と準備をしたところで、それは生命が産まれるということの、周辺も周辺、外堀に過ぎないのであって、「準備」の足し算が100%を作ることなんて決してない。

僕はというと、両親学級に参加したり、赤ちゃんの名前事典を買ってみたり、西松屋でベビー商品のラインナップに圧倒されたり、ツマに陣痛が来たときにどう動くかを打ち合わせてみたりしながら、なんとなくツマと子どものことを考えている気になりつつも、とはいえ大して実際的に役に立てることもなく、そんな浮き足立った日々をこうしてnoteで開陳しながら、なんとなく人生が進捗していき、「年末には産まれるのかぁ、パパになるのかぁ」などとお気楽ぼんやりにつぶやいているばかりだった。

やるべき「準備」をto doにして洗い出して、それを「期日」=出産予定日までにこなしておけば、あとは分娩台でいきむツマを応援していれば自動的に子どもが産まれるだなんて思ってはいなかったか。お気楽の極みである。

気丈でしっかりもののツマは、僕がいくらオロオロしようといつも通りの落ち着きぶりで、むしろ産休中に実家に帰ってからの僕の生活を心配するぐらいの余裕を見せていた。 (加えて言うと、最近仕事の方でなかなか苦しい状況が続いていて、どちらかというと僕の方が悩み鬱々とする体たらくで、むしろここ1ヶ月ぐらいは、ツマの方が僕をずいぶんと気にかけてサポートしてくれていたように思う)

起きているとき、ツマはいつだって明るい。それは彼女の胸のうちに不安が無いということを決して意味しない。

当たり前のことである。

そして僕は、そんな「当たり前」のことについて、偶然彼女の涙を目にするまで気がつきはしなかったのだ。

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調整と意思決定は違うんだなぁ

October 13, 2017 Yuhei Suzuki
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一度に何もかも出来ないというのは当たり前のことで、やらないことを決めようというのもよく言われることではあるけれど、ちゃんと"やめる"というのは意外と難しい。

そりゃあなんでも一度に出来たら格好いいけど、中途半端に安請け合いするのが一番良くない。

こういうのは「調整」とかじゃなくて「意思決定」の問題であって、ズルズルじわじわ無理ない範囲で…というのはだいたいうまくいかない。入り口のところでの意思決定がいかに大事かというのを最近痛感する。

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回送電車

October 11, 2017 Yuhei Suzuki
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目の前で回送電車がミュイーギャンミュイーギャンと奇妙な音を立てて待機している

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と思ったら出発した

回送電車の運転手というのは、どんな気分なのだろうな。お客さんや荷物を乗せて運搬するという役割を担っているわけでもなく、しかし回送電車がある、というのは鉄道網の運営上の必要があってそうなのだろうから、次の稼働エリアまでの移動とか、あるいは車庫に入れるとか、回送電車にもなんらかの目的地があって運転手もそのための役割を担っているのだろう。

また当然、回送電車の運転手さんも一日中、一年中ずーーーっと回送電車の運転手さんなわけでもなかろうから、たぶんなんらかの法則に基づいて運転手さんたちのシフトに回送電車担当の回が割り当てられるんだろう。

「正解」はググったり鉄道会社に勤める友人に聞いたりすればわかるのだろうけどそれはまぁどっちでもいいんだ。

鉄道システム全体がうまーく回っていくためになんらかの理由で、回送電車が「ある」、というのが大事。

ないとたぶん回らないんだ。

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#11「ツマと、でかくなった腹と、弱ったオット」2017/10/09

October 9, 2017 Yuhei Suzuki
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夫婦揃って忙殺されnoteの更新どころか二人で家メシする頻度もめっきり減っていた夏。気づけは9月も終わって10月、前回の更新が8/20というのに驚き。

ツマのお腹もますます大きくなる今日この頃。三連休の最終日、久しぶりに家でお絵かきしましょうかという食卓、なのだがオットはなんか今日憂鬱みが高まっている。

オット「ゆりさんさ、あれだよ、あれ、マタニティブルーとかなんないの」

ツマ「ならないっつーか、なってるヒマがないって感じ」

オット「そ、そうなのか…ツレが鬱になっとる場合じゃない…」

ツマ「いや、それはしょうがない、それとこれとは別。あ、そうそう、マタニティブルーに対応してパタニティブルーってのがあるんだって。造語じゃなくてpaternityっていう英語がある」

オット「それはあるでしょ。paternalism(父権主義)とか使うじゃん、政策的介入とかするとき」

ツマ「ちょっと日常生活で使わない言葉わかんない…」

オット「でも俺のはパタニティブルーとかじゃないところでヘロヘロに弱ってるからプレパパとして甲斐性なさすぎるしあれだわ」

ツマ「いやわかんないよ、隠れてプレッシャーとか感じてるのかもよ」

オット「そうかなぁ」 

ツマ「あ、そうそう、さっきフィンランドベビーボックス注文したよ。まるっとセットになってるやつ。ベビー服もこないだ買ったし、タオルはいっぱいあるし、あとは生まれてからでも間に合うやつがほとんどだから、買い物系はだいたい完了」https://www.finnishbabybox.com/ja/

オット「えー、マジで。あとなんか俺やれることあるっけ…」

ツマ「いや別にやることないのはいいじゃん笑 まぁ、あとは健康的で文化的な暮らしをしてくれたまえ。赤子を元気に迎えるために」

オット「早くこの抑うつ傾向を治そう(会話反芻してテキスト打っててテンションの低さに引いた)」

ツマ「いやそれは焦ったからってすぐ治るもんじゃないからwちゃんと休みをとろうぜ」

#11 「ツマと、でかくなった腹と、弱ったオット」2017/10/09

本日の夕げ

・ゴーヤチャンプルー(この絵日記でたぶん二度目の登板)

・むかごごはん

・お味噌汁(キャベツその他)

上がオット作

下がツマ作

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粘土をこねくり回している

October 6, 2017 Yuhei Suzuki

下半期始まって第1週。新しいメンバーが来て新鮮な気持ちと、9月で卒業したメンバーもいてちょっとさみしいねという気持ちと、どうあれ私たちの日常は進んでゆきます。

チームの目標や、コンテンツの作り方、個々人の役割など上半期と大きく変えていこういうところ。メンバーの入れ替わりも相まって、なかなか慌ただしいが、みんなの表情を見ていると、嬉しい。

ミッションを再定義して、それが運用フローまで落ちてくるまでのプロセスでは、そもそも今までの「枠」の延長では議論できないので、一人ひとりが仮説や試案を考えて持ち寄ってはディスカッションする、次の宿題をクリアにして解散してまた集合する、みたいな感じで何度か揉んでいく必要があって、必然コミュニケーションの頻度が上がる。そしてこういう時はそれぞれが率直にどんな問題意識や願いを持っているかが表出しやすかったり、個々人が暗黙知的に積み重ねてきた実はすごいじゃんそれ、的なノウハウの共有・棚卸しがなされたりするから面白い。

粘土をこねくり回している感じ。全くの無ではなく、漠としたイメージは持っているけど、完成設計図があるわけではない、触ってみんとわからんなというね。

あと、「そういうのは私が巻き取るんで悠平さんは悠平さんがやるべきことやってください」とか言ってもらったりして、ひゃーすんませんというのと、うわぁ頼もしいというのと、私も頑張りますはい、みたいな。へへへ。

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この時節の服装の難しさよ

October 5, 2017 Yuhei Suzuki
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学校ではありましたよね、衣替え。この日から夏服でーす、冬服でーすみたいな。一斉切り替え。

よくよく考えると夏服に変えた直後はちょっと寒い日もあるし、冬服に変えた後でもなんかあったかい日もあるし、季節や気温の変化はアナログであってデジタルでないのだから、一律変更というのはいささか"不自然"ではあるものの、僕のような季節感のない人間にはありがたいシステムだった。

気温の数字を見ても暑さ寒さのイメージが湧かないし、ましてや昨日や一昨日と比べてどうなんてこと言われても、昨日の気温なんざ覚えてられないし、もっと言えば天気予報をそもそも意識して見てないもんだから、その日の気温で調整しろというのはかなーり難易度が高い。

なのでこの季節はいつも服装に悩む。うっかり薄着しちゃって風邪を引きそうで危ない。

うん、でもなんか、最近ちょっと変化というか、もうアラサーで10代20代の体力ではなくなったからか、「寒い」環境の方への反応の閾値は下がってきたというか、「あ、これ寒いわ、風邪ひくわ、気をつけよ」みたいな思考が浮かぶようにはなってきたのよ。

はやく人間になりたーい妖怪人間、皮膚感覚レベルアップ、みたいな。

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さわる、参加する、関与する

October 4, 2017 Yuhei Suzuki
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先月の参加した「箱根山学校」の舞台、箱根山テラスの設計者である、長谷川浩己さんの新著『風景にさわる ランドスケープデザインの思考法』が家に届いた。

まだほんの前半しか読めていないのだが、箱根山学校の浩己さんのお話の中でもエッセンスはお聞きしていて、そこでの印象も含めてだが、「風景にさわる」というキーワード、もっと言えば「さわる」という態度、関わり方に非常にしっくり感を覚えていて、ここ最近、仕事をしていても頭の片隅に常に泳いでいる感じがする。

世界は他者で満ちていて、風景はすでにそこにある。ランドスケープ"デザイナー"の仕事は風景をゼロから"クリエイト"することではなくて、そこにある風景の構成要素、人や自然、その関係性や時間的蓄積と向き合いながら、あるいは自ら参加し、関与しながら、その文脈の中で新たな場を設えていく…そのような営みの上での態度を、「さわる」という動詞で表現されたのだと思う(まだしっかりと読んで咀嚼できていないので些か乱暴なサマリーだが)。

きっとこれは、メディアやコミュニティにおいても、会社や組織においても、同じことが言えるだろう。

いわゆる"運営者"の立場にある人(自分も含めて)が、メディアや事業を"立ち上げる"という動詞を使う。多大なエネルギーを要する取り組みなので、その側面も一定あるのは間違いないが、一方でやはり、風景はすでにそこに"ある"というか、社会や歴史の文脈、その中で僕たちが今後関わりたいと思う潜在読者となりうる人たちがどのように暮らしてきたかということを無視しては成り立ち得ない。

組織づくりにおいてもそうで、採用や育成といっても、やはりその人がそれまでどう生きてきたかの文脈を無視しては成り立たない。

一方で、「さわる」という動詞が面白いのは、他者に対する畏れを持ちながらも「わたし」がやはり関与する存在であることが織り込まれているからだと思う。

他者がすでに存在しているのと同様に、わたしもすでに存在している。そして影響し合っている。

「相手の主体性を引き出す」とか「黒子に徹する」とか"立ち上げる"という前のめりな動詞とは逆に、自分が引いて相手を立てる、みたいな言い回しがなされることもしばしば。

距離感の取り方という意味で、それがいつも間違っているとは言わないけれど、客観性とか非当事者性の皮を被って、自身がもたらす影響に対して鈍感になることも恐ろしいなと思う。

などと考えているうちに出勤したので続きはまた今度。

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満員電車で消耗しないために

October 3, 2017 Yuhei Suzuki

「ドア閉まりまーす、お身体お荷物お引きください、間も無く発車します、閉まりまーす」

朝も7時を少し過ぎると早くも駅員の呼びかけが窓の外から聞こえてくる。もうすぐ自分もあれに乗るのかーとか思うとげんなりする(ここで「やれやれ」とか書くと村上春樹だ。読んでないけど)。

満員電車に対する抵抗感が増した。都会で働いていて完全に避けることなど不可能なのだが、出来る限り乗りたくないなぁと思ってしまう。中央線沿いに住んでた頃は、若かったのかこじらせてたのかぎゅうぎゅう詰めでくっさい満員電車に乗せられる我らTOKYO民みたいな情感を勝手に抱き「東京で消耗なんてしてないぜ、別に田舎に行かなくたって過ごし方考え方次第だもんね、ふふん」なんて思ってたもんだが、もうなんか最近は体力的なアレと一緒に気力的なアレもアレである。満員電車つらい。

結果、極端な朝型になった。5時台とか6時台とか猛烈早い電車に乗ってオフィスに行くみたいなバカな対策をしている(今日はちょっと遅くなって見事にラッシュに捕まってしまったけど)。

そもそも東京の土地面積に対して人が多すぎるのだみたいな文句を言ってもマクロな状況は個人でひっくり返そうもないので、個人とかチームとか会社とかの単位で可能な限り柔軟な働き方を実現していきながら身を守るしかない。

たとえば、自チームの勤怠に関しては、それぞれのシフトの総量はあれど、出社時間については一律に9時とせず、8時半でも9時半でも10時でも選んでもらうようにしている。

ただ、個人の自由が組織の運営に支障をもたらすと感じさせてしまうと結局お互い窮屈になるので、チームの運用ルールとセットで見ていかないと機能しない。会議は何時以降にしか入れないとか、朝イチに急なチェックや作業依頼を差し込むなとか、仕事の受け方、総量や納期コントロール、優先順位の付け方etc.をうまいこと工夫していく必要がありますね。

あとは、人間、メンタル弱ってると同じ事象でもダメージ変わってくるので、「ちょっと今週来週は出社遅くさせてください」とか「仕事の量少し整理調整しようか」とか、ベースのルール+弱ったときの合理的配慮も重要だし、それを言い出しやすい組織文化つくらないといけませんね。

30年近く生きてきて、自分自身もけっこう揺らぎや浮き沈み大きめの人間であることを自覚しているので、結果自分の身を守るためでもあるんだけど。

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知ってるつもり

October 2, 2017 Yuhei Suzuki
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土日の2日間、府中にて今年最後の学生向けサマーインターン(もはやサマーなのか)にメンターとして参加。

2日間で定められた領域の社会課題を解決する事業・サービスを立案するというやつなのだが、チームごとに議論のプロセスも仕上がりも様々で、またその中での個々人がぶつかる課題や直面するストレス、それに対する反応・変化らもまた様々であり、毎年なかなかに面白い。

などと偉そうに言ってみたりしたが、実はメンター側の自分自身も、やはり同様に自身の課題を突きつけられる場であるのだ。

学生の側は毎年新しい顔ぶれなわけで、彼らはこれまで日常生活でほとんど真剣に考えたことがない社会課題なるものと取っ組み合いをする。

一方でメンター陣は、新たに参加する社員もいるが、複数回、複数年のメンター経験がある者の方が多く、だんだんとノウハウや見通しは蓄積していく。

2日間という全体所要時間の中でどの程度の進捗なのか、ここからどのような変化が予想されるか、チームの様子や関係性を見ながら、全体としても学生個々人としても最大限の成長・進捗ができるように、介入をしたり、任せたり、する。

とはいえメンターも人なので、当然にバイアスはかかる。メンタリングのスタイルも違うし、学生に対する評価の観点も(もちろんすり合わせはするが)属人性はゼロにならない。これまでの事業経験・マネジメント経験から形づくられた信念も異なる。

常に読み違えの怖さはある。そもそも他人というのは予想通り・思い通りにいかないから他人なのであるし、「知らない」ことばかりゆえに(比喩やポエムではなく実際に)可能性に満ち溢れているのが学生なので。
(私たちは歳を取れば取るほど「知っている」世界に引っ張られる)

「知ってるつもり」の予定調和に流されていないかを問われているのはこっちの方なのだ。

そんなこんなで、終わるたびにとっても疲れるけど「あー、仕事もっとがんばろ」ってなるんだよね、毎回w

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未だ来ずの日に備える

September 29, 2017 Yuhei Suzuki
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何か新しい機会や仕事が動き出すときに、以前の仕事を評価してくれてのお声がけであるときはとても嬉しい。もちろん、過去の"当時"に未来への期待や見通しを持って仕事していたわけではないが、後になって評価してもらえる仕事というのは、その当時、その瞬間、関わる相手に対して善く向き合えていたなという仕事である。

きっとそういう仕事は、単に「いい仕事をするぞ」と意識していればできるわけではなく、自分や関わる人たちのエネルギーの使い方、巡り方が心地よいものになるようになっている必要があるのだと思う。

直前になって慌ててみたり、余裕がまったくないときには難しい。個人技だったり関わる人が少ない場合はなんとか乗り切れることもあるが、チームでアウトプットを出す時にはそうはいかない。いざという時にグッとみんなが良い形でエネルギーを出せるように普段から何をしておくか。編集長って組織を編集する仕事なのだと思う。

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都会の余白

September 28, 2017 Yuhei Suzuki
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昨夜の帰り道に知り合いとバス停でばったり。

「いつもは電車なんですけど、たまにバスでゆっくり帰るんです。クールダウンタイム。至福のひととき」

僕はいつも通り電車で帰るつもりで道を歩いていただけだったので彼女とはそこでお別れしたけど、ほんとに至福のひとときなんだろうなぁという、によっとした表情が印象的だった。

最近、行きか帰りの時間に余裕があるときに、ひと駅分歩くということをしている。「毎日違う道を通って帰る」って言う人もいた。

日常のルーチンに自分がノイズをもたらす感覚の楽しさだったり、帰り道、バスや徒歩で少しばかりひとりの時間を取れる安心感だったり。

デジタルデトックスっつって頑張って連休をとって山奥にリトリートするのももちろん良いのだけど、都会の勤労人、そうそうしょっちゅうやれるもんではないから、日常のなかにこういった余白を作っておけると良いかもね。

仕事は仕事で、みなさんそれぞれやるべきことや色んなお付き合いを踏ん張っているわけで、かといってそれ以外の時間もわたくしたち気づけばソーシャルメディアに包囲されたりしてますから、ほっといてもらえるというか、そもそも私以外誰もいない、みたいなひきこもりタイム&スペースis貴重。

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