「私は発達障害なのか?」問題に直面した生きづらめなオトナ達に贈る長い手紙、あるいはひとりごと

「私ってADHDなのかもしれない…」
「発達障害の診断って、どこで受けられる?」

最近、そういう相談、あるいは悩みの開示を受けることが多くなった。

「ふーん、そっか。どうしてそう思った?」

相談してくれる人たちは、なんというか往々にして「真面目」だ。
責任感も強く、自分の職場や仕事に対しても一生懸命取り組む。
でも、なぜか仕事がうまくいかない。少なくとも本人はそう感じて苦しんでいる。

真面目であるゆえに、人一倍努力してなんとか乗り切ろうとする。
「これはきっと、自分のビジネスパーソンとしての努力や工夫、成長が足りないからだ」
自分の責任問題にして「頑張って」解決しようとするわけだ。
それでもやっぱり、仕事のエラーが頻発する。
自己肯定感は下がり、だんだんと心身の不調につながっていく。
「決して自分は怠けているわけじゃないのに、どうしてうまくいかないんだろう。もしかして…」

悩みに悩んだ状態で出会ったのが、「発達障害」という概念。
冒頭のように相談をしてくれるのは、このような経験・逡巡の末であることが多い。

僕は、「ふーん、そっか」とは言いつつも、けっこう他人事じゃない心持ちで彼・彼女らの話を聞いている。

なぜって、他でもない僕自身が、「発達凸凹さん」の一人だからだ。

僕はいま、LITALICOという会社で働いている。「障害のない社会をつくる」というビジョンのもと、多様な個性を持った人々が、一人ひとり自分らしく生きられる社会に向けて、学習支援や就労支援、インターネットメディア事業などを展開している企業だ。僕は、発達が気になるお子さんが通う学習支援教室「LITALICOジュニア」での指導員や新卒採用等を経たあと、現在は発達障害に関するポータルサイト「LITALICO発達ナビ」の編集長を務めている。

あまり「支援者」「被支援者」という区分けは好きではないのだけど、「発達凸凹さん」の僕が、世間的には「支援者」の側に位置づけられるようなお仕事をしています。

「発達障害」は、先天的な脳機能の発達の偏りと、その人が生きる社会環境との相互作用の中で、社会生活上の困難さが生じる障害の総称である。医学的な診断名としては、注意欠如・多動性障害(ADHD)、自閉症スペクトラム障害(ASD、いわゆるアスペルガー障害や高機能自閉症を含む)、限局性学習障害(LD)といったものが代表的である。

人間誰しも違った個性を持っているのが、発達障害といわれる人たちの場合、注意集中、興味関心、読み書き能力といった特性の凸凹が著しく大きいことが多く、「平均的な発達」を前提とした社会慣習やコミュニケーション方法、働き方などとのミスマッチが起こりやすくて苦しむことになる。

テレビゲームのRPG(ロールプレイングゲーム)をやったことがある人なら、ステータスのポイント振り分けがものすごい極端なキャラクターを想像してもらえればイメージしやすいかもしれない。勇者ではなく魔法使いとかバーサーカーとか。
 
 
ここで重要なのは、能力という意味では生涯を通して人間はそれぞれに発達していくものの、ベースとなるその人の先天的な個性ー発達障害の文脈では「特性」と呼ぶことが多い、の傾向は、あまり変わらないということである。

つまり、発達障害はひと昔まえに言われていたような「親のしつけの問題」では決してない。

それよりも、その子どもが持っているありのままの特性を理解し、その子が学びやすい教材や学習方法、その子が理解しやすく楽しめる方法での対人コミュニケーション方法などを早期支援を通して見出していくことが重要だ(その意味で、しつけの問題ではないにしても、保護者に対する発達障害に関する正しい情報提供や支援は必要になる)。

もうひとつ重要なことは、特性の凸凹が大きかったとしても、具体的な「障害」ー困難と言い換えても良い、が生じるかどうかは、その人が生きる環境との相互作用の中で決まってくるということだ。

発達障害的な特性をその人が持っていたとしても、環境の側を変えたり、自分の居場所や関わり方を変えていくなかで、「障害」は回避・解消し得るわけである。

ブロガーのシロクマさんが「『よく発達した発達障害』の話」という記事でも語っていたが、そういった環境調整がうまくいっていた人は、発達障害的な特性を持っていても、必ずしも診断が必要ではなかったり、困難や障害をあまり感じていなかったりする。

つまり、一口に「発達障害」といっても十把一絡げに語ることはできず、その人自身の特性と、その人が生きる環境との相互作用のなかで、個別に分析し、必要な支援をしていくべきことなのだが、その個別性ゆえ、「ここからここまでが発達障害」という線引きはほとんど不可能だ。そのことが、働く発達凸凹なオトナたちを悩ませているのだと思う。

社会全体としては「発達障害」という言葉や概念の認知自体は格段に広まった。
でもまだ、あらゆる場面であらゆる人に対して個別具体な対応ができるほど、社会は成熟しきっていない。

社会の進化がまだ過渡期にあるということと、自分自身のキャリア上のつまづき、行き詰まりが重なって、「私は発達障害なのか?」問題が顕在化するのだろう。

「顕在化」と言ったのは、その人はそれまで「私は発達障害なのか?」などとは意識せずとも生きてこられていたのに、プレイヤーから管理職への昇進タイミングや、それまでたまたま自分に合っていた部署や職場からの異動タイミングで、急につまづきが発生する、というケースが少なくないからだ。

クライアントの懐に潜り込むのがめっちゃうまくて営業で大型受注するとか、データ分析だけはめちゃくちゃ得意で良い示唆を出せるとか、ものすごくピーキーなスペックを持った発達凸凹さんは、職場や役割によっては活躍できたりする。

その一方で、事務処理タスク漏れまくりだったり、相手に合わせた社交辞令的コミュニケーションがほとんどできなかったりとかするんだけど、学生時代とかファーストキャリアでは、周囲や上司に恵まれてどうにかなっていた、ということも少なくない。それが昇進・異動を気に周囲の期待値や「常識」が変わってつまづくのである。

それまで意識や獲得の機会もなかったのに、急にビジネススキルの「基礎」がなってない、みたいに言われてしまうとなかなかしんどいものがある。

大人が発達障害という「概念」と出会い悩み出すのは、そのようなタイミングであることが少なくない。
 
 

 
 
本質的には、多数派の側に合わせて多くがデザインされており、多様な人たちの個性が活かしきれていない社会の側にこそ課題があるのだということは強く言っておきたいが、とはいえ社会を変えるには時間がかかる。

現在進行形で悩んでいる「私って発達障害かも…」なオトナたちとしては、社会変革を望みつつも、どうにかこうにか自分でサバイブする術を見つけていくしかない。

僕自身もその一人ではあるし、自分が直接関われる範囲、自分の職場の部下・同僚とか、相談してくれた知人・友人に対してできることはするつもりでいるが、あいにく悩める人たち全員を救うような魔法のステッキは持ち合わせていない。

だけど、何はなくともこの2ステップ、という大きな方略と、具体例としての自分の特性や対策ぐらいは参考程度に紹介できる。

ステップ1. 自分の特性をなるべく具体的に把握すること
まず何よりも自分自身のことを知ることがスタート。案外、自分は自分のことを曖昧にしか理解していないものだ。特に「発達障害かも…」モードになって悩んでいるときは、発達障害というワードやADHD等の診断名に引きずられて、自分自身の具体的な特性として、何がどの診断基準や症状事例と一致しているのかそうでないのか、冷静に整理できていない場合が多い。

詳細は以下の参考リンクに譲るが、自分の認知特性・機能を項目ごとに数値化し、検査者がフィードバックしてくれる「知能検査」・「心理検査」をクリニックで受けてみたり、発達障害当事者が集まって、自分の困りごとを共有し、その原因や自分自身のことを探求していく「当事者研究」の集まりに参加してみたりすると良いかもしれない。

(参考: 知能検査の一例「ウェクスラー式知能検査」)
(参考: 綾屋 紗月, 熊谷 晋一郎『発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい』)

ポイントは、「○○障害」にとらわれるのではなく、ひとつでも、具体的に、具体的に、「自分のこと」を明らかにしていくというプロセス。次に解決策を考えていくわけだけど、案外、「あ、私ってこうだったんだ」って分かるだけでも気持ちが楽になることもある。

たとえば僕の場合は、こんな特性がある

・注意の転導性が高い
⇒ひとつのことに集中していても、別の事柄にカットインされるとすぐ注意がそちらに奪われてしまう

・視覚刺激への反応が高い
⇒家とか居酒屋で人と話しているときにテレビがついていると思いっきりそちらの光に注意を奪われる

・聴覚刺激への選択的注意が弱い
⇒上の特性と合わさってテレビに引っ張られ、よく妻に「話聞いてなかったでしょ」と言われるw

・文字に起こして枠組みを設けて思考しないと気持ちが悪い
・図とか写真などのビジュアルでの感覚的な理解は苦手
⇒メールや話が長いし理屈っぽくなる

・空気を読みすぎてしまって空気が読めなくなる
・その場において求められている自分に合わせようとする
・「確固たる自分」を求めてはいるが、自己像は他者との関わりのなかで常に揺らぎ、変容していく
⇒過剰適応というやつです。だいたい夜に一人反省会する

他にも色々あるけどまぁこんな感じ(笑)

ステップ2. 自分の職場をサバイブできる環境に近づけていくこと

自分の特性を理解したら、日頃の生活・仕事で生まれる得意不得意や失敗が生じる理屈も、なんとなく仮説を立てられるようになる。そうすれば、失敗経験に至る前に環境を変えて予防したり、不得意な業務を誰かにお願いして得意な業務に集中したりと、対策を立てることができる。もちろん働く上ではなんでも100%思い通りにとはいかないけれど、それでも動かす余地はたくさんある。

・スケジュール管理や作業の仕方など、自分で変えられる部分は自分用にチューニングする
・周囲に特性は開示しないが、自分からの働きかけを工夫してみる
・周囲に開示し、理解も得たうえで「合理的配慮」が受けられるよう相談する
・そもそも職種や職場、雇用形態を変えてしまう

などなど、職場の理解度にもよるが…働きかけのレベルは色々ある。

オススメなのは、「自分のトリセツ」をつくること。発達障害かどうかではなくて、上記のような具体的な特性とその「取扱方法」を周囲に発信する。自分だけでなくて、発達障害特性のない人も巻き込んでフラットにやれるとなお良し。「まぁお互いさまだね」って気づきやすいから。

足の不自由な人にスロープが、目の不自由な人にメガネがあるように、発達の凸凹がある人だって、上手く周りの石をどければ歩きやすくなるってものです。

参考: 「【大人の発達障害】仕事での困りごと・就職方法・対処法まとめ」
参考: 「合理的配慮とは?考え方と具体例、障害者・事業者の権利・義務関係、合意形成プロセスについて」

僕の場合も、上記のように色んな凸凹があるわけだけれど、考えようによっては特性の偏りは強みにもなるし、強みを足場として苦手にも対処できるようになってきた。

ライターや編集者といった仕事は、言語性の高さを活かす上での天職だと思うし、
ビジュアル・デザイン面はからきし苦手だが、業務やコンテンツの目的を「言語化」できれば、デザイナーさん他、得意な人に具体的な依頼ができる。
最近は部下も増えて、プロジェクトマネジメント的な仕事も多くなってきた。同時処理や迅速な判断が必要になるので苦手分野とも言えるのだけれど、とにかく自分が学んだ視点や方法論を、言語やフレームに落とし込んでいくことで、少しずつ自分なりのやり方が見えてきた気がする。

発達障害のある人の中には、苦手を補って余りあるほど傑出したクリエイティビティを発揮して一芸に秀でたような人もいる。だけど、みんながみんなそうならなくたっていい。

地道な戦いだし、決して人生イージーモードではないと思うけれど、それでもきっと、誰だって自分なりのサバイバル戦略は見つけられるはずだ。僕はそう信じている。
 
 

 
 
「私ってADHDなのかもしれない…」
「発達障害の診断って、どこで受けられる?」

「ふーん、そっか。どうしてそう思った?」

冒頭の相談に、どうしてこんな淡々としたリアクションを取るかというと、
まず第一に、僕にとってそれは「どちらでもいい」ことだからだ。
あなたが発達障害であろうとなかろうと、今まで続いてきた僕とあなたの関係性が、それだけで変わるはずもない。

もう一つの理由は、診断名を白黒ハッキリつけることが、本人にとっての正解なのかどうか、究極、「分からない」からだ。

こうやって相談してきつつも、やっぱり実際に診断がついてみたら、「私」はこれからどうなるんだろう…?と、不安が大きくなる人だっている。
一方、医師に確定診断を受けたことで、「嬉しかった」「救われた」「自分が怠けてたんじゃないとわかってよかった」と、ポジティブな気持ちになれる人もいる。

「発達障害」というラベルをその人が自身のアイデンティティにどう取り込むか。
それは本人の気質や心境によっても変わってくるだろうし、周囲の人々や環境の寛容度(への期待値)の高低にも影響される。

相談者に対して、僕が何かをジャッジしたり誘導したりすることはできない。
できることは、自分にとっての「正解」を探すための、整理・内省のお手伝いぐらいだろう。

・知能検査・心理検査で特性を把握すること
・医師に発達障害の確定診断を受けること
・障害者手帳を取得すること
・配慮を受けやすい障害者雇用枠で求職・就職すること

これらは決してイコールではないし、全てのアクションを取る必要もない。

発達障害傾向の無い人でも、知能検査・心理検査は自分を知る手段として悪くないと思うし、発達障害の診断があるからといって、必ずしも手帳を取得したり障害者雇用で働くわけでもない。

診断とって楽になるのなら取っちゃってもいいと思うし、ラベルを付与されることにやっぱり迷いや抵抗があるなら無理に結論を急ぐ必要もない。

どちらでもいい。

僕の場合、医師の確定診断は特に受けていない。

WAISという知能検査は受けた。言語性がめっちゃ高くて、知覚統合とか数的処理が弱く、まぁ凸凹大きいよね、と笑える結果ではあった。

医師も人間なので、診断結果は人によって振れ幅がある。
過去の生育歴や検査結果を持って一生懸命困り感を訴えれば、診断をつけてくれる人もいるだろう。
「いやあなた、もう十分社会で適応できていますよ」と、診断をつけない人もいるだろう。

そのぐらいのグラデーションだと思うから、まぁなくても別にいいかなって感じ。

今よりもっと悩んでいた時期もあった。
こんだけこじらせて生きづらいのは、自分がやっぱり発達障害なんじゃないだろうか?
ただ、当時を振り返ると、自分のことがぼんやりとしかわかっていない状態で、悶々と足踏みしている感じであった。
その経験から言うと、まず何よりも、「自分自身の特性を把握すること」は必要だと思う。

そうすれば、次の足場が見えてくるから。
診断や手帳を取るかどうかという話に飛ぶ前にも、目の前の環境に対して、できることがたくさん見つかるから。

世間的、あるいは会社的に定番の「キャリアパス」に囚われなくていいから、ちょっとでも強みを活かしてパフォーマンス発揮できることを探す。
言うても社会人やっていく上では苦手なことはゼロにはならないから、苦手を把握して周囲の人にSOSを出す術を身につける
それから、職場内でも外でも、とにかく1人でも、相談できる「味方」を見つける。
そして、前々回の記事でも書いたが、「つかれたら、休め」
(発達凸凹かつ生真面目な人、二次障害で精神疾患なりやすいのよほんと。いのちだいじに)

「私は発達障害なの?そうじゃないの?」問題。

一見難問なのだけど、答えはどっちなのか?と抽象的な「問題」に振り回されるばかりなのはもったいない。

少なくとも、僕にとっては、あなたが自分をどちらに規程しようと「どうでもいい」。

ただただ、あなたがどうにかサバイブできる方法にたどり着けることを願う。
そして僕自身も、危うい自分の生をサバイブできることを願う。

ウェブマガジン「アパートメント」当番ノート 第30期に掲載

「家族」というのは未だによく分からないけど、つくりたい「家庭」はあってだな

「それではみなさんご一緒にどうぞ」

「「「いただきます」」」

みんなのアイドルT君(5歳)のかけ声に従って手を合わせ、箸をとる。茶色くて脚の低い長机をコの字型に並べ、部屋の中央にはやや大きめのストーブ。食卓には各々の茶碗や汁椀、それから大皿に盛られた揚げ物やサラダや漬け物やらが並ぶ。部屋の角にはおかわり用の大鍋も。

中高生ぐらいのスキーキャンプだか修学旅行だかを彷彿とさせるような空間に、はじめて出会う世代バラバラの人たちと、僕は一緒に過ごしていた。
 
 
ここ数年は、ニューヨークだったりパリだったり東京だったり神戸の実家だったりと、毎年違う場所で年越しを迎えていたが、今年の年末年始は長野の白馬だった。妻の実家家族を含む、妻の出身高校のOBOGたちが長年に渡って山小屋を運営しており、年末はそこに老若男女ちびっ子みんな集まってスキーをしたり宴会をしたり新年を祝ったりするのが恒例行事だそうで、僕は今年の年末、そこに混じって過ごすことにしたのだ。

夜は酒を飲み、朝昼は本を読んだり寝たりの繰り返しで、たまに散歩に出て白馬の山々を見やり、夕食前には温泉に行き、メシを食い、そしてまた酒を飲み…と12/30の夕方から1/2の朝まで、合計3泊。
(OBの中には服部栄養専門学校の先生もいて、毎回出てくる食事の旨いこと)

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今年は雪が少なかったらしく、スキー場のゲレンデも一部閉じていたが、ともあれ北アルプスの山々は美しかった。

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こんな風に宴会したり

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除夜の鐘は年が明けてから撞くスタイル。小屋の玄関に小さな鐘を吊るして、お神酒を飲んで、みんなでカンカンカンと代わりばんこに合計108回撞く。近くの小さなお宮に行ってささやかな初詣。

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ちびっ子たちも綱を引っ張って全身で鐘を撞く。よいしょー。
 
 

山小屋の名前は「神城山荘」という。年末年始に限らず宿泊施設として利用もできるし、年末年始の宴会も高校コミュニティ外の人も歓迎とのこと。今回は妻の職場の元同僚と、彼が誘った友人2名も遊びに来てくれた。

うち一人は保育士で、冒頭のT君はじめ、パパママ世代の皆さんが連れてきたちびっ子たちと元気に飛び回って遊んでいた。
(初対面の彼に開口一番「さま~ずの大竹に似てますね!」と言われたことは軽くショックだったが)

ちびっ子たちの中には、人見知りが強めの子もいれば快活で物怖じしない子もいる。大人たちは、子どもたちそれぞれの気質のままに変な介入はせず、しかし安全には気を遣いながら、肩車をしたり雪合戦をしたり配膳を手伝ってもらったりと銘々の関わり方をする。

自分の親以外の色々な大人たちがいる集団と自然と触れ合える機会があることは、子どもが育つ上でけっこう重要なのではないかと思う。と、僕がもっともらしい小理屈で解釈するまでもなく、居心地のいい空間だった。
 
 

 
 
ここまで書いて、なんだか不思議な感覚がする。

根暗で人見知りの自分が、よくぞまぁ初対面の、なおかつ自分の出身校でない高校同窓会のコミュニティに、妻の繋がりがあるとはいえ、飛び込んだもんだなと。そして意外とその場を楽しめているという事実。

ちょっとは大人になったなということなのかもしれないけれど。まぁとにかく我ながら興味深い変化である。

初回の記事にも似たようなことを書いたが、僕は血縁・地縁といった自分の意思以前にアプリオリに与えられるウェットで土着的な関係性に対して、ちょっと及び腰というか、あまり実感や愛着を持ちにくい気質なのだ。

別に神戸の実家家族との関係が険悪なわけでもなく、家庭崩壊しているわけでもないので、外から見るとおおむね「普通」の範疇に入る家族関係なのだろう。

ただ、実家や地元コミュニティの文化に対して、自分自身の気質が端的に「フィットしなかった」という自覚はあって、盆暮れ正月、一族郎党・一家団欒の場において、その場に当たり前にいるべきメンバーの一人=血縁家族として数えられながらも、心ではいつも「所在の無さ」(居心地の”悪さ”とまでは言わないが)を感じていた。

「ひとり」でいる自由が担保されている東京という街は、自分の肌に合っていたようだ。上京してしばらく経つと関西弁は消え、地元に帰る頻度も下がり、家族との連絡も億劫になっていった。もちろんこれは僕個人が心中こじらせていただけの話で、両親は変わらず大事な息子として自分を見守っていてくれたのだろうけど、意識的にも無意識的にも、実家家族と過ごす時間を最小化しようとする指向性があったのは否めない。

しかしまぁ、アラサーになってようやくというか、自分なりの足場も出来つつある今、血縁・地縁的なコミュニティに対する心持ちがだんだんと変わってきた。良くも悪くも、変なこだわりはなくなってきたと思う。

「子どもは生まれる家を選べない」という言葉は、まぁ確かにその通りなのだけど、大人になった今は、選ばずして共に過ごしてきた家族との、「その後」の関わり方や距離感を選ぶことはできる。

育ててもらった自分の両親や祖父母に対しては、まだまだ甲斐性もないが、息子としては何らかの形で返していくつもりではいる。でも別に、親子だからといって関わり方や距離感までウェットにするつもりもないし、妻を「嫁」としてイエの慣習にどうこう縛り付けたくもない(幸いにしてうちの家はそんな文化でもないし、距離も離れているので、古典的な嫁姑問題は別に起こらないのだが)。

盆暮れ正月はその時の状況によって帰ったり帰らなかったりする。とはいえほどほどに近況連絡はする。老い先短い祖父母の具合が悪くなれば、可能な限り急ぎで帰って顔を見せる。今ぐらいの距離感が一番ラクだなと感じる。

この年末年始をご一緒させてもらった妻の実家のご家族やご親族、地元高校のコミュニティの皆さんには、妻の夫ということ以外(それが大きいこととは自覚しつつ)、縁もゆかりもない根暗男子を混ぜてもらったことに感謝している。僕が知らない2,30年の時間の厚みに対して敬意を払い、新参者としてちょこんと末席に座らせてもらいながら、これからじわりじわりと無理ないペースで皆さんのことを知っていき、そして混ざっていければと思う。
 
 
お互いが生まれ育つなかで紡がれてきたご縁に対して、礼節と責任を果たしつつも、しかし同時にささやかな自由も享受したい。もちろん相手の自由も大切にする。それぐらいのスタンスで、「家族」や「地元」なるものとはお付き合いしたいなと、今はそう考えている。
 
 

 
最近ちょっとした野望がありまして。
端的にいうと家がつくりたいんですよ。

自分と妻と、そのうち生まれるであろうわが子たち、つまり血縁家族の住まいだけじゃなくて、友人たちが気軽に来て遊んだり休んだり出会ったりできる場所。

「あなたとわたしとみんなの家」(仮題)。

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ある時は、ちびっ子たちの寺子屋に。
またある時は、つくり手たちのアトリエに。
疲れた人はいつでも休みに来ればいいし、
ただ座ってボーッと過ごしてもいい。

誰もが思い思いの過ごし方を出来て、
自然体の自分でいられる家。
偶然居合わせた人同士で、新しいご縁が生まれる家。

そういう家を、つくりたい。

今まで出会ってきた人のなかには、安心して帰れる「家族」や「地元」が無いという人もいた。上で長々とこじらせたことを書き連ねたけれど、色んな家族事情、色んな人生があるなかで、たとえ元々の「家族」とは違うかたちでも、その人にとって安心できる「家庭」となれたらいいなと思っている。

地方からやってきた自分を受け止めて育ててくれたこの東京で、何もなければ今後も暮らしていくつもり。
色んな地方や国にも行ったけど、この街にひとつ、「ふるさと」を作っていきたいなと思っています。

というわけで、物件募集です。
1核家族の住まい分の部屋+ゲストも訪ねる広めのフリースペースを設けられるような(庭もあるとベスト)、2DK以上の物件を探しています。

都内で安く譲ってもらったり借りたりできそうな古民家とか、
古民家じゃないけどリノベーション可能な一軒家とか、
なにか有力物件情報あればぜひご連絡ください。
(この人に相談したら良いよとか、ここで探すと良いよとかいう情報も大歓迎です)

と、最後おもむろに物件探しとか始めちゃって締まらない感じですが、2017年もよろしくお願いします。

ウェブマガジン「アパートメント」当番ノート 第30期に掲載

カネがなかった頃の話

「じゃあ19時にこのお店で。会費は5000円ね」

「おー、了解。あーでも、ちょっと仕事長引いて遅れそう。コース人数カウントせずに最後ちょっと顔出させて」

海外だの地方だので活躍している友人がたまたま東京に来るもんだから、大学当時のゼミだのサークルだののメンバーで集まろうじゃないかという類の会は、大学を出てしばらく経つと、やはりちょくちょく催されるようになる。

友遠方より来るあり。久しぶりの再会とあらば是非とも駆けつけるべきなのだが、ここで5000円払ってしまうと月末が乗り越えられない。僕のひもじいお財布事情を誤魔化すように上記のような言い訳をし、終わり際に現れて、ビールをほんの一杯だけ飲む。そういう時期が何度かあった。
 
 
今日書く話は、社会問題としての「貧困」の話では決してないし、公園に住んでダンボールをかじってたぞという『ホームレス中学生』(麒麟・田村裕)よろしくの「貧乏」エピソードでもない。せいぜい「カネがねぇなぁ…」と独り言つレベルの話である。しかし、程度や場面の差はあれ、「カネがねぇなぁ…」感を、人生で経験したことのある人は案外いるのではないかという気がする。

*

思うに、貧困とか貧乏の話を除いて、「カネがない」ことのしんどさというのは、かなり相対的なものである。周り(特に自分の所属するコミュニティの中の人たち)と比べて、自分だけ相対的にカネがない。それゆえに、「みんな」が享受している何かが出来なかったり、我慢したり、出来なくはないんだけど残金が気になってエンジョイしきれなかったり、そういうわびしさ。

「カネがない」というのは、要は貯蓄がないということであり、毎月末の引き落とし額から逆算して第3週第4週の乗り切り方が決まるような状態のことだ。1ヶ月スパンでキャッシュを回していくことが精一杯であり、数年はおろか、1年や数ヶ月先を見越した収支計画なんてものがない、というか計画立てようとソロバン弾いても無いものは無いからやること変わらん、みたいな状態のことだ。

や、別にいいと思うんですよ。カネがなくても「豊かな暮らし」は出来るし、カネがなくても人生を謳歌している人はたくさんいる。しかしそこは私たち人間、社会的動物なものですから、働き盛り遊び盛りこじらせ盛りの20代を大都会TOKYOで過ごすような場合には、なかなかどうしてそうはいかない。

*

僕の場合、「カネがねぇなぁ…」のみじめさがとりわけ大きかった時期が今まで2回ある。

1回目は、大学学部を卒業して1年目、2011年から2012年にかけてのこと。なんの因果か、僕は宮城の石巻に引っ越して、震災後の約1年半をその地で過ごして働くことになった。その当時のことはいくつかの場所で書いたのでここでは割愛するが、現地での暮らしはとても「豊か」なものだった。収入は事業立ち上げのための助成金から捻出された最低限の人件費と経費だけなので、カネは全然なかったが、お世話になった地元の人たちには毎日ゆく先々で海の幸山の幸をごちそうになり、人生で一番、食が豊かな時期だったと言っても過言ではない。

一方大学の同級生たちは、世にも有名な一流企業に就職していた。昼夜問わずシャカリキ働き、彼らは彼らで大変な1年目だったのだろうけど、とにもかくにもそこは一流企業、新卒1年目としては世の中のかなり上位に入る初年度年収をもらうわけである。

とはいえ僕らは同級生。青春時代を共にした友人たちであるからして、ゼミだのサークル単位だので、たまに集まろうという話にもなる。僕も石巻を拠点にしていたが、打ち合わせやらなんやらで月に1回程度は東京に戻ることがあり、タイミングが合えばそういう場に顔を出そうとする。

夜行バスに乗って腰と背中を痛めながら、日中はリュックを背負って東京の街をうろつき、デザイナーさんやら小売店さんやら助成団体さんやらと会ったりして、隙間時間にはカフェで作業をし、みたいなジプシーワークを終え、夜になって友人たちと合流しようと店を確認する。その場所が、丸ビル。

えー、学生の頃は新宿のきんくら3000円飲み放題コースでうっすいチューハイ飲んでたじゃん。それが丸ビルて。なにその単価アベレージの上がり。的な。

いやいや別に驚くことではない。ライフステージが変われば社交場に選ぶ街も店も当然変わるのである。僕も僕である意味ライフステージは大きく変わったのだ。しかし、カネがない。一軒行って5000円、二軒目行こうものならまた2000円3000円って、そういう速度で英世さんがお財布から出ていくのはなかなかにキツイ。しかもみんな資産運用の話とかしてる。ファイナンスをプランしている!こちとら運用するカネがねぇ!

上に書いたように東北にいる間はむしろ豊かな暮らしをしていたはずである。それが東京に来て、旧知の友人と会うというだけでなんともみじめな気持ちになる。そこで、ほんとにお金が無いときは冒頭のような姑息な遅刻戦術を取ったり、なんだかんだと理由をつけて欠席したりしていたのである。

2回目は、今の会社に入った2014年の春。大学院留学を終えて日本に帰国し、さぁ働くぞというときに、初月給の振込は5月末という罠。この時はほんとにカネがなくって、その日暮らしを乗り切るカネがない、みたいなレベルだった。結局友人にちょっとだけお金を借りたり、あとはクレカを駆使して来月に繰り越したりして乗り切ったわけだが、このときのみじめさは、4-5歳離れた学部卒の同期がフレッシュに溌剌とスタートダッシュを切るなか、大学院まで出てアラサーにも差し掛かった私の生活の見通しの無さなんですか的な情けなさであった。

いやいやそこも含めて前もってやり繰りしておけよと言われればその通りなのだが、留学時代はお借りしたお金でどうにか駆け抜けるので精一杯で、少し残しておいたお金も帰国と引っ越し費用が思った以上にかかったものだから、帰る頃には財布も口座もほとんどすっからかん状態だったのだ。帰国後に「久しぶりに会おうよ!」と言ってくれた可愛い女の子をデートにも誘えない。しょぼん。

とにかく、「カネがない」みじめさというのは、自分ひとりだけで生じるものではなく、相対的なものなのだ。今となっては「そんな時代もあったね」と笑えるぐらいのお話だが、当時はやっぱり、しんどかった。

*

そんな僕だが、最近「カネがない」年下の子たちと接する機会が増えてきた。

休学して地方から東京に出てきて企業でインターンをしたり、既卒なんだけどアルバイトをいくつか重ねて正社員を目指していたり、一回企業に就職はしたんだけど色々わけあって続かずにまたアルバイトをしながら次の正社員就職先を探したり…そういう子たちである。

ちょっと当時の僕に似ている、「はざま」や「ねじれ」の時間を過ごしている子たち。こういう状態の時は、よっぽど実家が太くない限り、往々にして「カネがない」。そして同世代を横目に見ると「安定」を手にしている友人が出てきている。なかなかこういう時は不安である。

「いやいや、そうなることがわかってるならちゃんと計画立てて動きなよ」と言う人もいるかもしれない。でも、こういう子たちが全くの向こう見ずで無計画なモラトリアムかというと決してそうではなく、一人ひとりなんらかテーマを持って行動を起こしてはいる。ただそれが粗削りで稚拙だったり、内面の煩悶と社会との折り合いの付け方に時間がすごくかかるゆえに、他のみんなほど上手に世渡りできなかっただけのことだ。

「はざま」の時間に飛び込む時というのは、理屈で予定立てられたアクションであることはほとんどない。人間のエネルギーというのは脳みその思考キャパ含めて総量限られているものだから、とにかく彼・彼女らはのっぴきならない熱に突き動かされて東京までやってきたのだ。それはもう、結果として仕方ない。
 
 
そんな彼・彼女らに対して、僕ができることはさして無い。「はざま」の時間の孤独と不安に耐えるのは他ならぬ自分自身だし、飛び込んだ以上、その中から活路を見出していくしかない。

ただ一言、会ったときには「おなかすいたら連絡ちょうだい」と言うようにしている。

僕自身も「カネがなかった」頃、社会人の先輩たちにそうやって声をかけてもらってきたからだ。そして実際、たまに会ってごちそうになり、お腹と心を膨らませてもらっていたからだ。そういう先輩たちの一言に、どれだけ救われたことかわからない。
 
 
今に至っても運用する資産など皆無で、借金もたくさん残ってはいるが、少なくとも向こう1ヶ月や2ヶ月のキャッシュフローを考えて、お財布と通帳とカレンダーとにらめっこする必要はなくなった。

さすがに丸ビルには連れて行かないけれど、場末の居酒屋でレモンサワーを奢ることぐらいはできる。
  
僕が予想するに、君たちの「カネのなさ」というのは、あともうちょっと続く気がする。見ていて、そんなに劇的に儲かりそうな気がしない。だけどきっと、じわりじわりと状況が好転していくとは思う。同じような時期を過ごしたパイセンが言うのだから安心してほしい。

だからそれまでは、「おなかすいたら連絡ちょうだい」。社交辞令じゃないからね。

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社交的な根暗がアラサーになっていつの間にか結婚して思うこと

「結婚とか、しなさそうだったのに」
「よく言われるよ」

持って生まれた気質なのか、はたまた環境がつくった性格なのか、誰か特定の人や集団と、長期的にウェットな関係を結ぶという発想や動機に乏しく、愛とか絆とか血縁とか、そういうのはぶっちゃけ、よくわからない。

付き合いが続くも途切れるも、それは僕が決めることではないし、来るものを拒む理由も去るものを追う理由もない。
そう思って生きてきたし、今も概ね、そう思って生きている。
 
 
そのくせ、惚れっぽい。

恋愛という意味に限らず、その場その場で出会った相手にはものすごく影響されやすく、すぐに相手のことを好きになる。出来るかどうかはさておいて、その人のために自分が出来ることならなんでも頑張ろうって気持ちになる。

その上、気を遣う。

相手の期待に応えなきゃという責任感が自分の中で勝手に増幅して、しかもそれを複数方面に対して背負っていくものだから、理想と現実のギャップからしょっちゅう自己嫌悪に陥る。

「過剰適応だ」と妻にはよく言われる。減点法の男。

淡白なのに惚れっぽい。他人に期待したくないのに他人の期待には応えたい。

そんな矛盾だらけの「社交的な根暗」として色々こじらせながら生きてきました29年。振り返るとすり傷だらけの黒歴史で、とりわけ恋愛関係は長続きしない刹那的なものがほとんどだった。

わけですが、いつの間にやら結婚しておりましたと。自分でもびっくり2016年。みなさんいかがお過ごしでしょうか。

3月に入籍して、10月の終わりに、式と披露宴とパーティーを開いた。

それは、「ささやかながら」などと表現したら失礼になるような、過分で、幸せな時間だったと思う。

色々と相談した結果、親族も含めた「ゲスト」の皆さん同士をお繋ぎできるような会にしようと、司会は新郎新婦、食事や引き出物はお世話になった方々から取り寄せたゆかりの品々で構成、テーブルも所属や関係性ごちゃ混ぜでお話しできるような形の披露宴を企画した。
(あれは嫌だこれは出来ないと、新郎がリベラルこじらせた結果でもある。式場の方にはずいぶん好き放題要望を聞いていただいたと思う)

夜のパーティーも、もうなんか友人みんな集合ーってな感じで、方方にお声がけした結果200人ぐらいの規模になっちゃって、みんなと代るがわる挨拶したり写真を撮ったり、またぞろ自分たちで司会をしたりと嵐のような時間だったけれど、とにかく楽しかったのを覚えている。みんな新しいお友達、できたかなぁ。
(これまたお店の人と幹事の友人にはずいぶんとお世話になった)

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「いや、もうこの日本式の披露宴のしきたりからその成り立ちから意味わかんないし、そもそもこの結婚制度とかイエ制度とか…」
「あなたがその形式が嫌なら、やりたいようにやればいいじゃない。お世話になった人たちにご挨拶できれば私はどんな形でも良いし、型に囚われてるのはあなたの方よ」

「えー、でもほんと200人とか、会場大丈夫だろうか。ぎゅうぎゅう詰めで、楽しんでもらえなかったらわざわざ来てもらうのに申し訳ない…」
「あなたが会いたいと思う人に一人ひとり声かけたんでしょ。来てくれるって言うんだから私たちは全力で準備してもてなすだけじゃない」

一事が万事そんな調子で、高まったり落ち込んだりしながらの準備期間。3マス進んで一回落ち込む、みたいな誰にも頼まれていないのに謎の牛歩ルールですごろくを進めているようだった。

だけど、実際にその日を迎えて終わってみると、本当にとっても楽しかったし、みんなに来てもらえて嬉しかった。やって良かったと思える会だった。

僕はいつもそうで、何かが結実するまでの過程はうじうじする癖に、終わってみるとスッキリ満足するのだから調子が良い。

アラサーにもなってこの性格。たぶんそうそう変わるもんでもなさそうな気がするが、ごちゃごちゃと言いながらも結局は皆さんのお世話になるのだから、そろそろ腹を括ろうかなと思ったりもしている。これからもきっと、みんなに生かされていく。
 
 

 
 
僕が今、「ここにいる」こと
僕が今、妻と「一緒にいる」こと
僕があなたたちと、今もまだ「途切れずにいる」こと

それらはすべて結果でしかないから、理由や因果を問うてもわかるはずがない。未来にこの人たちと一緒にいられるのかも、わからない。

だけど、妻や友人や先輩や後輩、関係が結ばれた色んな人たちに対して、”今”自分が思っている気持ちは事実だから。その”今”が未来へと向かっているのなら、未来でも同じ時間を過ごしたいと思うのなら、そのことに対しては誠実でいなくちゃな、と思っている。

自分が選んできたことの意味、自分が大切にしている人やもののことを、一つ一つ確かめていくことは、「これから」を生きていくうえで、きっと大切なこと。

 
仕事のこと
暮らしのこと
妻のこと
友人のこと
いくつかのふるさとのこと
これからのこと
それから、ここ「アパートメント」のこと

久しぶりに自分の部屋を持って、色々と書き連ねてみたいと思います。
(〆切に追われながら)

——

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(友人の仲道萌恵さんにつくってもらった結婚指輪)
ウェブマガジン「アパートメント」当番ノート 第30期に掲載

Diary: 2016/09/17

ボサボサで野暮ったくなった髪を切りに行った。スタイリストさんに「最近楽しいことありました?」と聞かれ「えー、なんだろう…」と答えあぐね、「それまずいっすよー遊びに行った方が良いですよー」と言われたわけだが。

別に楽しくないわけではないのだがな、日々の仕事やその他もろもろの社交活動課外活動を含め、概ね好き勝手やらせてもらっているとは思う。ただまぁちょっと、最近はディフェンシブな仕事というか、自分にとって未知の世界や仕事に挑むというより、理想形はある程度見えた上で、そこに向かってじわじわと環境を整えるみたいなところが多く、ワクワクが足りていないのは正直なところかもしれない。

最近の脳内の重要トピック3つ

1. 編集者の社会的責任

一時期「キュレーションメディア」の跋扈とともに、画像や文章の無断転載・改変が問題になったが、その後、引用出典の明記など、業界的には最低限の著作権保護のお作法は一時期よりは整ってきたように思う。

ただ、参照元がゴミ情報だったりトンデモ情報だったりすることは往々にしてあるわけで、裏取りの正確さというか、情報の質に対する責任も、各ウェブメディアは真剣に考えるべきじゃないか。

特に、保健・医療・教育・福祉etc.人の健康や命に関わるヒューマンサービス領域は、色んな人の思いが渦巻くエリアであり、世間の関心も高いゆえに数字を取りやすい。不安を煽るタイプの商法が氾濫するリスクが高いわけだ。

同領域は、「正しさ」についても様々な流派や意見に割れやすく、公正中立というのはほとんど幻想だとも言える。各メディアやその編集部は、自分たちの拠って立つ位置を定め、自らの編集・発信内容に対してどう責任を負うかを考えていく必要がある。

近々論点をまとめた記事を書く予定。

2. ユーザー投稿型サイトにおける安全の確保

こちらも広義の編集といえばそうなのだが、ユーザー投稿型コンテンツのプラットフォームでは、投稿者が不安定な状態にあったり、自傷他害リスクがあると取れるような投稿を発見したときに、どうそのユーザー本人やその近隣者、影響を受ける周囲のユーザーの安全をどう確保するかという問題。

ウェブ上のゲートキーパー活動とも言えるのだが、病院や福祉施設などの事業現場と違うことは、リスクの高い投稿をしているユーザーへのアクセス手段や背景情報の取得にそもそも限界があること、またプラットフォームの性質上直接支援をすることがそもそもかなわないということも多い。

基本的にはリスク判定をした上で、出来る限りの情報提供をし、危険な場合は警察当局等にリファーする、ぐらいしか対策はなさそうなのだが、それを可能にする体制やスタッフ育成など、各種メディアの中で整えるべきだとは思う。

3. 発達障害とその周辺の事象、ステークホルダーの絡み合い

可能な限り早期に疾患を予防・治療する「医療」と、現在・未来の子どもたちの潜在能力を最大化する「教育」と、最低限の生命・生活を公的に保障する「福祉」と、それらの緊張関係の中で、どうあれ一回性の人生を生きる私たち個人の「物語」とに、メディアがいかに向き合うべきか問題。難問。

ここ数日で読んでいる本。

どうあれ「発達障害」というものに対する認知や関心が高まった近年。往々にして診断名やステレオタイプのイメージが先行して普及するが、実態としての発達障害のある人の個々人の症状・特性の多様さ、医師の「診断」が原理的に抱える恣意性やブレをハンドリングしつつ、診断あるなしに関わらず適切な支援にどうつなげるかを考えていく必要がある。

人は言葉なしには世界を理解することは出来ない。しかし、言葉、とりわけ分かりやすい名前を与えることによって見えなくなることもある。

Diary: 2016/08/26

The smallest Japanese pub with the longest history in Shibuya.


新しい組織が出来上がるとき、しかも内外から様々なバックグラウンドの人間が集まる以上は、そうそう簡単に共通認識が取れるはずもない。仕事を進める上での考え方や価値観、人への評価の物差しや関わり方も違って当然で、どちらが偉いとか正しいというものでもない。

だからこそ、一見非効率に見えるが、しつこいぐらいにコミュニケーションを取り続けて、数字や言語に現れない、お互いが言外に発しているメッセージをたくさん浴びせあって、じわじわと身体に染み込ませていくことが必要なのだろう。会議体とか権限とか議事録やメール共有といったもろもろの情報流通経路も、文化と信頼感情勢の補助ツールに過ぎず、そういうものをルールとして整備しているからといって、「もう十分でしょ、分かるでしょ」というわけにはいかない。

「発言してくれないないと分からないよ」とか「オーナーシップを持って自ら行動せよ」とは言うが、適切なタイミングや方法で問いを投げかけて初めてその人らしさや、その人が腹に抱えていた言葉が発露することがある。

出来る限り関係性はフラットでオープンに、という近年の潮流には基本的に賛同するところであるが、それが自然とできるようになるまでの道筋は、人や組織によって様々な傾斜やうねりがあること、ある程度の時間がかかることを忘れてはならない。

メディアをやる以上、多かれ少なかれ私にも野次馬根性とにぎやかしの魂胆が備わっていていることは間違いない。

ダサいものは作りたくないし、多くの人に届かなければ意味がない。同じ分野で、いいコンテンツを別媒体に先に出されると悔しいのは当然である。

とはいえ美学がなければお終いである。

判断のモノサシをどこで持つか、いざというときにすぐブレーキを踏めるかどうか。チームやメディアが育ってきているときこそ、そういうことを自分は考えねばならない。