以下に簡単に、私が重要だと感じた論点を要約紹介したい。
■展示の一時中止は「安全上の理由」
8月1日〜3日は展示室内は概ね冷静だったが、見ていない人がSNS上の断片画像を見て抗議を越えた脅迫等の犯罪行為や組織的な電凸行為に及び、以下のような被害が発生した。
・電話、FAX、メール、合計10,379件による業務妨害、精神的苦痛
・学校や福祉視閲の脅迫まであり、逮捕者も2名
■芸術祭全体のテーマ「情の時代」への評価、不自由展も企画自体は妥当という評価
・9月22日時点、入場者数は約43万人と、前回を約2割上回る勢い
・「情の時代」というテーマの妥当性と先進性、アートとジャーナリズムの融合に対する各方面からの高い評価
・不自由展も、企画それ自体は趣旨に沿ったものであり、妥当だったという評価
■不自由展まわりで問題とされたのは、趣旨を適切に伝えるためのキュレーションの欠陥
上述の通り、企画それ自体に問題はなく、特に批判の的となった3つの作品(キム・ソギョン/キム・ウンソン「平和の少女像」、大浦信行「遠近を抱えてPartII」、中垣克久「時代の肖像ー絶滅危惧種idiot JAPONICA 円墳ー」)も作者の制作意図に照らすと展示すること自体に問題はない作品だったという結論。
しかしながら、鑑賞者にたいしてその趣旨を適切に伝えキュレーションが出来ていたとは言い難いという評価。
・作品選定に際し、過去に美術館等で展示を拒まれたもの以外に新作も混じり、「表現の不自由展」というコンセプトからのズレ
・政治性を強く帯びた作品が多かったので、「政治プロパガンダ」という印象を与えた
・作品数に対してそもそも会場が狭い、入り口に映像作品「遠近を抱えてPartII」を配置、資料コーナーが奥になる、など空間配置上の問題
・断片がネット上に拡散されることへのリスク対応が不十分(徹底して禁止するという仕組みが講じられなかった)
・予算と時間の不足から、エデュケーションプログラムやガイドツアー等を実施できなかった
(憲法や民主主義の原則 基礎知識を必要とする。「禁止されたことのある作品」を一般来場者がただ観る、だけでは理解しにくい)
・芸術監督とキュレーションチームのチームワーク、出展作家である「表現の不自由展 実行委員会」とのコミュニケーションなど、組織ガバナンス上の問題
■作品は憲法上の表現の自由を超えるものではなく、法令違反でもない、という立場は堅持
批判の的となった3つの作品を含め、「表現の不自由展・その後」は法令違反ではなく、憲法で明示された表現の自由の下で最大限尊重されるべき、という立場は堅持されていた。
政治的な色彩が強い作品であっても、アートの専門家の自律的判断を尊重すべきであり、公金を支出することは認められるという結論。また公金支出をもって、自治体がその作品の政治的メッセージを支持したということにはならない。
憲法第21条第1項は表現の自由を保障し、第2項は検閲を禁止している。表現の自由は憲法の保障する基本的人権の中でも重要なものであり、最大限尊重されるべきものである。
表現の自由も絶対的なものではなく、「公共の福祉」に反する場合には制限できることが13条で定められている。しかし、重要な権利であるゆえに、曖昧な理由での制限はしてはならない。
一定範囲の人々が不快に感じたとか、単に漠然と公共の福祉に反すると「思う」ということでは制限できない。表現の自由が制限される際には、マイノリティに向けたヘイトスピーチの規制など、別途「法令上の根拠」が必要。そして、今回の展示で言えば、昭和天皇の写真を焼いてはならないという法令はない。
昭和天皇は故人であり、また公人中の公人であるため表現の対象となることは当然ありうる。さらに、「遠近を抱えてPartII」の作者である大浦信行氏の制作・展示の趣旨からしても侮辱には当たらないとの結論(従軍した日本人の少女の中にある「内なる天皇」を燃やすことで「昇華」させていく、「祈り」といっても良い行為と大浦氏は説明)。
よって、「表現の不自由展・その後」全体も、「遠近を抱えてPartII」をはじめとする個々の作品も、違法にはあたらず、公共の福祉には反しない。同展示の「表現の自由」は尊重されるべきという結論。
——
以上が、中間報告から私が重要と考える、また本記事を通してインターネット上の読者・鑑賞者にシェアすべきと考えた論点である。
・展示中止は安全上の理由であり、作品自体の問題ではない
・不自由展および収録作品の表現の自由は、いずれも守られるべきである
・一方、安全上の脅威をもたらすほど人々の感情がかき乱され、作品への賛否で人々が分断される事態になったキュレーション上の欠陥が指摘される
この3つをそれぞれに分けて考えることが重要だと思う。
3. 「情の時代」におけるキュレーションに求められるもの
「表現の不自由展・その後」は、上述の3作品に対して、主に右派、保守とされる人々からの反発があったと理解している。日韓の従軍慰安婦を巡る日韓関係と、「遠近を抱えてPartII」は昭和天皇の肖像との結びつきから、反発的感情を招くだけのインパクトがあった作品だと思う。
しかしながら、「表現の不自由展・その後」に展示された作品全てが、右派、保守とされる人々にとって気に入らない表現だったかというと、私はそうは思わない。
たとえば、横尾忠則「暗黒舞踏派ガルメラ商会」は、朝日のモチーフが旧日本軍の旭日旗を思わせる軍国主義的なものであるということで、在米韓国系市民団体「日本戦犯旗退出市民の会」からの抗議を受けた作品だ。
※ 横尾忠則 表現の不自由展・その後 リンク切れ ※
これは、右派・保守と呼ばれる人たちが怒るべき出来事で、「表現の不自由展・その後」において展示されたことは喜ばしいことではないかと思うのだが、そうしたことはほとんど話題に上がらない。
(モチーフはさておき、作品自体の政治的メッセージは薄いこと、一枚のポスター作品であり、銅像や映像よりネット空間における「拡散映え」しにくいという要素はあると思うが)
「表現の不自由展・その後」内の個別の作品に対する評価・言及量のギャップが事例となったように、インターネットでは人々の強い感情を喚起しやすい一部のコンテンツだけが拡散されやすく、一連の企画やプログラム全体の趣旨が適切に伝わらないことがままある。まさに「情の時代」と言えるだろう。
インターネットは、私たち一人ひとりが発信の担い手となれる、情報流通の「民主化」をもたらした。私自身もその恩恵に大きく預かっている一人だ。
しかし、今回の不自由展をめぐるインターネット上の言説と人々の分断を見るに、オープン・フリー・フラットなインターネット的コミュニケーションがもたらす負の側面とも改めて向き合わなければならないように思う。
コンテクスト(文脈)がちぎられ、伝えるべき情報”群”のうち一部だけが先鋭化して拡散する。そのことが分断の連鎖を生む。
断片であっても「情報は多ければ多いほどいい」、そんな思想が果たして本当に良いのだろうか、と考えさせられる。
今回の不自由展再開にあたっては、先の章で紹介した通り、鑑賞方法の改善や情報流通の制限など、相当な注意を払ってのキュレーションの再設計がなされていた。
今日ではアートの分野に限らず(ビジネス・メディア・カルチャーなど)、イベントにおいて撮影・拡散を自由にしていく傾向は強くなっている。
しかし、扱うテーマによっては、いたずらに分断を促進しないための、セミクローズドな情報流通設計は、オプションとして検討する必要があるだろう。
(もちろん、それが行き過ぎると、今回の不自由展が投げかけた「検閲」の問題に繋がっていくことには注意しなければならない…)
・適切な鑑賞をしやすい空間・時間デザイン
- 人数・時間を限定し、落ち着いて観られるようにする
- 作品の理解・思考が深まりやすい導線設計
・事前事後のエデュケーション機会とセットにする
- 鑑賞前の資料閲覧やプログラム受講
- 鑑賞後の対話的なワークショップ
・二次的情報流通の量・性質をコントロールする
- SNS等のシェアを禁止ないし一部制限する
- 投稿・流通フォーマットの指定など、趣旨の伝達を担保した上で多様な言論が生まれるような「ナッジ」の工夫
などなど… 「情の時代」においては、作品を直接鑑賞する人たちへの情報提供だけでなく、二次的な鑑賞者への情報の流通や影響についても視野に入れたキュレーションが求められるのではないだろうか。
(もちろん、私のような素人が言うまでもなく、すでに多くのプロが意識・工夫されているところだとは思う。ただ今回の不自由展への反応のように、政治的な色彩を帯びる作品については、今まで以上に大きくリスクを見積もって対応せねばならない時代になってきているのだろう)
4. 二分法を超える方法はないのか。「遠近を抱えて Part Ⅱ」に感じたこと
しかし、と、ここでまた考える。この問題の根底にあるものはなんだろうか。
キュレーションの工夫で「減災」はできるだろうが、それでも炎上リスクは「ゼロ」にはならない。
そもそもアートは、グレーでモザイクなこの世界に存在するありとあらゆるものを取り上げようとする運動だ。
世界に、人に「問い」を投げかけるアート作品は、時に人の感情を刺激し、私たちが何気なく立つ日常を揺さぶってくる。
反発も問題も起こらない、きれいな「シロ」の作品ばかりでは決してない。
また作品は、「対話」の媒体でもある。作り手やキュレーター側が想像もしていなかった多様な解釈と発見が、鑑賞者によって掘り起こされることがある。
作り手側が想定する”適切な”鑑賞方法はあったとしても、作品からどんなメッセージをどう受け取るかについて、たったひとつの”正解”があるわけではない。
不自由展においても、時計の針を巻き戻して様々な対策を講じ、現在のような炎上や分断を防ぐことができたとして、それでもやはり、個々人の心理的体験としては、反感や反発を覚える人たちは出てくるだろう。
一人ひとりの思想や感情の多様さを前提に、作品に対する反発も覚悟の上で、橋をどうかけるか。
今回、不自由展に抗議をした人たちが、断片だけでなく「作品」と落ち着いて対話をするきっかけ、文脈、環境、関係性をどうやってつくるのか。
右派と左派に分かれるのではなく、「わたし」と「あなた」の関係において、作品鑑賞後の意見・感情の相違をどう分かち合うのか。
こちらの方がよっぽど難しい問題だ。
もちろん安全上の脅威、脅迫行為や犯罪行為に対しては断固として戦わなければならない。多様な言論も表現の自由が最大限尊重された上でこそだ。
今回のあいちトリエンナーレを見るに、実際問題、ものすごく難易度が高い。仮に私がキュレーターになったとしたら、うまくやれる自信はない。
だけど、鑑賞者の一人として、情報発信を生業とする者として、市民の一人として、敵・味方の二分法を超える方法を考えたい。それがあいちトリエンナーレから受け取った自分の宿題だと思う。
ここから先は、いち鑑賞者の、願望混じりの感想に過ぎない。
だが、騒動の象徴となった作品のひとつ、「遠近を抱えてPartII」にこそ、実は分断を超えるポテンシャルが秘められていたように思えてならない。
昭和天皇の肖像を燃やすというところだけがフィーチャーされたが、映像のもととなったコラージュ作品「遠近を抱えて」には、天皇制批判や昭和天皇侮辱の意図は一切ない。むしろ大浦は、そのコラージュを「自分自身の肖像画」と述べている。外へ外へ拡散していく自分自身のイマジネーションと、内へ内へと修練していく天皇のイマジネーション、そのせめぎ合いを表現したという。
「遠近を抱えてPartII」に反発を覚えた右派・保守と呼ばれる人たちも、作者の大浦信行も、作中に出てくる従軍看護婦の少女も、鑑賞者である私も、共通して「天皇」を内側に抱えている。日本人として、日本に生きることで私たちは、「天皇」という引力に多かれ少なかれ影響を受けている。一方で、一人ひとりの「わたし」は「日本人」として簡単にひとくくりにできない多様性を持っており、さまざまな個性が外側に広がっていく。
「遠近を抱えてPartII」の映像中には、コラージュを燃やす場面だけでなく、先の大戦で戦死した軍人たちを弔うアナウンスや、従軍看護婦としてインパールに向かう前、母に別れを告げる少女の手紙の朗読(彼女は「靖国でお待ちしています」と言う)といったシーンが含まれている。
ノスタルジックに信奉しようと、距離を開けようと、私たちの中にある消しようのない「日本人性」。それを否定するでも肯定するでもなく、葛藤のままに「昇華」する。ある種の祈りとして、写真を燃やす行為があった。私はそう受け取った。
私は、政治的には比較的にリベラルな立ち位置の人間だと思う。ものすごく信心深い方でもない。「日本すごい」幻想に浸ってもいない。だけど同時に、この土地に生まれ育った日本人としての歴史とアイデンティティも、私の中のかけがえのない一部であると思う。
昭和天皇の肖像を焼くという行為に反応して表現の不自由展に怒った人たちに対して、それは断片的理解に過ぎないとか、表現の自由を理解してないと批判することはたやすい。だけど、仮に断片的な受け取り方であったとしても、本人が感じた「感情」ー怒りや痛みは、尊重すべきだと思う。
そしてその痛みは、僕の中にもあるかもしれないのだ。
台風も来ている。会期ももう終わる。今回はその機会がないけれど、彼らと共に、その共通の「痛み」を出発点に対話ができたなら、と願う。
そのための方法を、別の機会で、場面で、探していきたいと思う。
5. 断片情報で引き裂かれた感情。それを超えるのも「情」の力
最後に、愛知芸術文化センター(A会場)で鑑賞したその他の作品も一部紹介しながら、今回のあいちトリエンナーレのテーマ「情の時代」について述べて結びとしたい。
今人類が直面している問題の原因は「情」(不安な感情やそれを煽る情報)にあるが、それを打ち破ることができるのもまた「情」(なさけ、思いやり)である。「アート」の語源にはラテン語の「アルス」やギリシア語の「テクネー」がある。この言葉は、かつて「古典に基づいた教養や作法を駆使する技芸」一般を指していたのだ。われわれは、「情」によって「情」を飼いならす「技」を身に付けなければならない。それこそが本来の「アート」ではないのか。
芸術監督の津田大介氏のステートメントに応えるように、あいちトリエンナーレには、「情」によって「情」を飼いならす「技」を示す数々の作品が集まっていた。
■タニア・ブルゲラ「43126」
タニア・ブルゲラ(A30) | あいちトリエンナーレ2019あいちトリエンナーレは、愛知県で3年に1度開催される国内最大級の現代アートの祭典です。国際展や映像プログラムなどの現代美術aichitriennale.jp
展示室に入る前にスタンプで押される5桁の数字。2019年に国外へ無事に脱出した難民の数と、国外脱出が果たせずに亡くなった難民の数の合計人数。
部屋の中の壁にも同様の数字が刻印されており、室内ではメンソールが充満している。
地球規模の問題に関する数字を見せられても感情を揺さぶられない人々を、無理やり泣かせるために設計された、このメンソール部屋。
乱暴と言えば乱暴だが、人は感情を揺さぶられて泣くだけでなく、泣いたことそれ自体で感情が揺さぶられもする、不思議な生き物なのだ。きっかけはメンソールでも、涙を流しながらその数字を再び見てみると、受け取り方が変わるかもしれない。
「なさけ」を喚起する技術が、人の想像力を拡張する可能性を示している。
■ ジェームズ・ブライドル「継ぎ目のない移行」
ジェームズ・ブライドル(A18c) | あいちトリエンナーレ2019
英国の入国審査、収容、国外退去の3つの管轄区域について、計画書や衛星写真などを手に入れ、中に足を踏み入れた人へのインタビューを通じて再現した3Dアニメーション映像。この建物を通過する人々は強制的に国外へ移送され、送還のために使用している拘置施設、法廷、飛行機を撮影することは違法となっている。
これだけインターネットが世界中を覆い尽くしていても、一部の人以外は決して訪れることがない、「不可視」の領域がこの地球上には存在する。そしてそこで非人道的な捜査が行われている…。
「見えない」ものを見ようとすること。ジャーナリストによる粘り強い調査と3Dアニメーションという情報技術が、見えるものだけに捉えられた私たちの想像力を拡張させてくれる。
■ヘザー・デューイ=ハグボーグ「Stranger Visions」「Invisible」
ヘザー・デューイ=ハグボーグ(A13) | あいちトリエンナーレ2019
■村山悟郎「Decoy-walking」
村山 悟郎(A10) | あいちトリエンナーレ2019
作家がニューヨーク市の街頭で収集したDNAサンプルに基づいて3Dプリントされた肖像のシリーズ「Stranger Visions」。公共の場所にあるDNAを消去し、またノイズで覆い隠す2つのスプレー製品からなる「Invisible」。近い将来オンラインで個人情報を収集するのと同じくらい、遺伝子情報を収集することが一般的になるだろうという。技術的にますます「監視社会」が容易になっていくなかで、政府が主体となる狭義の「検閲」がなかったとしても、人々は自己表現を萎縮するかもしれない。そんな未来における表現の自由とはなんだろうか。
この問いに応答するかのような試みが、村山悟郎の作品だ。
表情と手を駆使したさまざまな”変顔”が、コンピュータによって「顔認識」されるかどうか。パターンから逸脱するさまざまな歩き方が「歩容認証」技術によって捉えられるかどうか。
パターンを認識するためのテクノロジーと、これらに対峙し、駆け引きをする人間の存在を示したこれらのインスタレーションは、折しも「マスク禁止令」に対して、髪の毛で顔を隠したり、ジョーカーのメイクを施したり、プロジェクションマッピングで他人の顔を映し出したりという抵抗を繰り広げている香港の市民たちのクリエイティビティとリンクする。
情報技術を時に利用し、時に欺きながら、私たちは機械と「共存」し、表現をする。
■dividual inc.「ラストワーズ/タイプトレース」
dividual inc.(A14) | あいちトリエンナーレ2019
整然と並んだ24枚のモニターに、インターネットを通じて集まってきた「10分遺言」が次々と表示される。入力の際に次の言葉を入れるまでの時間に応じて文字のサイズが変化するソフト「TypeTrace」によって、逡巡や勢いといった書き手の「息遣い」が生々しく表出される。
ある人は恋人に、ある人は家族に、ある人はSNSのフォロワーに、ある人はペットに、ある人はパソコンに。
反省を、後悔を、言付けを、思い思いに綴っていく。
その内容もプロセスもさまざまだが、遺言の後半には多くの人たちが「感謝」を述べる傾向があったと、作者のドミニク・チェン氏から別の機会で聞いたことがある。
誰しもが逃れられない「死」に向かって生きているという点で、人は平等だ。
遺言を書くという経験。平等な「死」を想うこと。
思想や文化、社会的立場の相違を越えた「祈り」の環をつなぐ鍵がここにあるのかもしれない。