「私は発達障害なのか?」問題に直面した生きづらめなオトナ達に贈る長い手紙、あるいはひとりごと

「私ってADHDなのかもしれない…」
「発達障害の診断って、どこで受けられる?」

最近、そういう相談、あるいは悩みの開示を受けることが多くなった。

「ふーん、そっか。どうしてそう思った?」

相談してくれる人たちは、なんというか往々にして「真面目」だ。
責任感も強く、自分の職場や仕事に対しても一生懸命取り組む。
でも、なぜか仕事がうまくいかない。少なくとも本人はそう感じて苦しんでいる。

真面目であるゆえに、人一倍努力してなんとか乗り切ろうとする。
「これはきっと、自分のビジネスパーソンとしての努力や工夫、成長が足りないからだ」
自分の責任問題にして「頑張って」解決しようとするわけだ。
それでもやっぱり、仕事のエラーが頻発する。
自己肯定感は下がり、だんだんと心身の不調につながっていく。
「決して自分は怠けているわけじゃないのに、どうしてうまくいかないんだろう。もしかして…」

悩みに悩んだ状態で出会ったのが、「発達障害」という概念。
冒頭のように相談をしてくれるのは、このような経験・逡巡の末であることが多い。

僕は、「ふーん、そっか」とは言いつつも、けっこう他人事じゃない心持ちで彼・彼女らの話を聞いている。

なぜって、他でもない僕自身が、「発達凸凹さん」の一人だからだ。

僕はいま、LITALICOという会社で働いている。「障害のない社会をつくる」というビジョンのもと、多様な個性を持った人々が、一人ひとり自分らしく生きられる社会に向けて、学習支援や就労支援、インターネットメディア事業などを展開している企業だ。僕は、発達が気になるお子さんが通う学習支援教室「LITALICOジュニア」での指導員や新卒採用等を経たあと、現在は発達障害に関するポータルサイト「LITALICO発達ナビ」の編集長を務めている。

あまり「支援者」「被支援者」という区分けは好きではないのだけど、「発達凸凹さん」の僕が、世間的には「支援者」の側に位置づけられるようなお仕事をしています。

「発達障害」は、先天的な脳機能の発達の偏りと、その人が生きる社会環境との相互作用の中で、社会生活上の困難さが生じる障害の総称である。医学的な診断名としては、注意欠如・多動性障害(ADHD)、自閉症スペクトラム障害(ASD、いわゆるアスペルガー障害や高機能自閉症を含む)、限局性学習障害(LD)といったものが代表的である。

人間誰しも違った個性を持っているのが、発達障害といわれる人たちの場合、注意集中、興味関心、読み書き能力といった特性の凸凹が著しく大きいことが多く、「平均的な発達」を前提とした社会慣習やコミュニケーション方法、働き方などとのミスマッチが起こりやすくて苦しむことになる。

テレビゲームのRPG(ロールプレイングゲーム)をやったことがある人なら、ステータスのポイント振り分けがものすごい極端なキャラクターを想像してもらえればイメージしやすいかもしれない。勇者ではなく魔法使いとかバーサーカーとか。
 
 
ここで重要なのは、能力という意味では生涯を通して人間はそれぞれに発達していくものの、ベースとなるその人の先天的な個性ー発達障害の文脈では「特性」と呼ぶことが多い、の傾向は、あまり変わらないということである。

つまり、発達障害はひと昔まえに言われていたような「親のしつけの問題」では決してない。

それよりも、その子どもが持っているありのままの特性を理解し、その子が学びやすい教材や学習方法、その子が理解しやすく楽しめる方法での対人コミュニケーション方法などを早期支援を通して見出していくことが重要だ(その意味で、しつけの問題ではないにしても、保護者に対する発達障害に関する正しい情報提供や支援は必要になる)。

もうひとつ重要なことは、特性の凸凹が大きかったとしても、具体的な「障害」ー困難と言い換えても良い、が生じるかどうかは、その人が生きる環境との相互作用の中で決まってくるということだ。

発達障害的な特性をその人が持っていたとしても、環境の側を変えたり、自分の居場所や関わり方を変えていくなかで、「障害」は回避・解消し得るわけである。

ブロガーのシロクマさんが「『よく発達した発達障害』の話」という記事でも語っていたが、そういった環境調整がうまくいっていた人は、発達障害的な特性を持っていても、必ずしも診断が必要ではなかったり、困難や障害をあまり感じていなかったりする。

つまり、一口に「発達障害」といっても十把一絡げに語ることはできず、その人自身の特性と、その人が生きる環境との相互作用のなかで、個別に分析し、必要な支援をしていくべきことなのだが、その個別性ゆえ、「ここからここまでが発達障害」という線引きはほとんど不可能だ。そのことが、働く発達凸凹なオトナたちを悩ませているのだと思う。

社会全体としては「発達障害」という言葉や概念の認知自体は格段に広まった。
でもまだ、あらゆる場面であらゆる人に対して個別具体な対応ができるほど、社会は成熟しきっていない。

社会の進化がまだ過渡期にあるということと、自分自身のキャリア上のつまづき、行き詰まりが重なって、「私は発達障害なのか?」問題が顕在化するのだろう。

「顕在化」と言ったのは、その人はそれまで「私は発達障害なのか?」などとは意識せずとも生きてこられていたのに、プレイヤーから管理職への昇進タイミングや、それまでたまたま自分に合っていた部署や職場からの異動タイミングで、急につまづきが発生する、というケースが少なくないからだ。

クライアントの懐に潜り込むのがめっちゃうまくて営業で大型受注するとか、データ分析だけはめちゃくちゃ得意で良い示唆を出せるとか、ものすごくピーキーなスペックを持った発達凸凹さんは、職場や役割によっては活躍できたりする。

その一方で、事務処理タスク漏れまくりだったり、相手に合わせた社交辞令的コミュニケーションがほとんどできなかったりとかするんだけど、学生時代とかファーストキャリアでは、周囲や上司に恵まれてどうにかなっていた、ということも少なくない。それが昇進・異動を気に周囲の期待値や「常識」が変わってつまづくのである。

それまで意識や獲得の機会もなかったのに、急にビジネススキルの「基礎」がなってない、みたいに言われてしまうとなかなかしんどいものがある。

大人が発達障害という「概念」と出会い悩み出すのは、そのようなタイミングであることが少なくない。
 
 

 
 
本質的には、多数派の側に合わせて多くがデザインされており、多様な人たちの個性が活かしきれていない社会の側にこそ課題があるのだということは強く言っておきたいが、とはいえ社会を変えるには時間がかかる。

現在進行形で悩んでいる「私って発達障害かも…」なオトナたちとしては、社会変革を望みつつも、どうにかこうにか自分でサバイブする術を見つけていくしかない。

僕自身もその一人ではあるし、自分が直接関われる範囲、自分の職場の部下・同僚とか、相談してくれた知人・友人に対してできることはするつもりでいるが、あいにく悩める人たち全員を救うような魔法のステッキは持ち合わせていない。

だけど、何はなくともこの2ステップ、という大きな方略と、具体例としての自分の特性や対策ぐらいは参考程度に紹介できる。

ステップ1. 自分の特性をなるべく具体的に把握すること
まず何よりも自分自身のことを知ることがスタート。案外、自分は自分のことを曖昧にしか理解していないものだ。特に「発達障害かも…」モードになって悩んでいるときは、発達障害というワードやADHD等の診断名に引きずられて、自分自身の具体的な特性として、何がどの診断基準や症状事例と一致しているのかそうでないのか、冷静に整理できていない場合が多い。

詳細は以下の参考リンクに譲るが、自分の認知特性・機能を項目ごとに数値化し、検査者がフィードバックしてくれる「知能検査」・「心理検査」をクリニックで受けてみたり、発達障害当事者が集まって、自分の困りごとを共有し、その原因や自分自身のことを探求していく「当事者研究」の集まりに参加してみたりすると良いかもしれない。

(参考: 知能検査の一例「ウェクスラー式知能検査」)
(参考: 綾屋 紗月, 熊谷 晋一郎『発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい』)

ポイントは、「○○障害」にとらわれるのではなく、ひとつでも、具体的に、具体的に、「自分のこと」を明らかにしていくというプロセス。次に解決策を考えていくわけだけど、案外、「あ、私ってこうだったんだ」って分かるだけでも気持ちが楽になることもある。

たとえば僕の場合は、こんな特性がある

・注意の転導性が高い
⇒ひとつのことに集中していても、別の事柄にカットインされるとすぐ注意がそちらに奪われてしまう

・視覚刺激への反応が高い
⇒家とか居酒屋で人と話しているときにテレビがついていると思いっきりそちらの光に注意を奪われる

・聴覚刺激への選択的注意が弱い
⇒上の特性と合わさってテレビに引っ張られ、よく妻に「話聞いてなかったでしょ」と言われるw

・文字に起こして枠組みを設けて思考しないと気持ちが悪い
・図とか写真などのビジュアルでの感覚的な理解は苦手
⇒メールや話が長いし理屈っぽくなる

・空気を読みすぎてしまって空気が読めなくなる
・その場において求められている自分に合わせようとする
・「確固たる自分」を求めてはいるが、自己像は他者との関わりのなかで常に揺らぎ、変容していく
⇒過剰適応というやつです。だいたい夜に一人反省会する

他にも色々あるけどまぁこんな感じ(笑)

ステップ2. 自分の職場をサバイブできる環境に近づけていくこと

自分の特性を理解したら、日頃の生活・仕事で生まれる得意不得意や失敗が生じる理屈も、なんとなく仮説を立てられるようになる。そうすれば、失敗経験に至る前に環境を変えて予防したり、不得意な業務を誰かにお願いして得意な業務に集中したりと、対策を立てることができる。もちろん働く上ではなんでも100%思い通りにとはいかないけれど、それでも動かす余地はたくさんある。

・スケジュール管理や作業の仕方など、自分で変えられる部分は自分用にチューニングする
・周囲に特性は開示しないが、自分からの働きかけを工夫してみる
・周囲に開示し、理解も得たうえで「合理的配慮」が受けられるよう相談する
・そもそも職種や職場、雇用形態を変えてしまう

などなど、職場の理解度にもよるが…働きかけのレベルは色々ある。

オススメなのは、「自分のトリセツ」をつくること。発達障害かどうかではなくて、上記のような具体的な特性とその「取扱方法」を周囲に発信する。自分だけでなくて、発達障害特性のない人も巻き込んでフラットにやれるとなお良し。「まぁお互いさまだね」って気づきやすいから。

足の不自由な人にスロープが、目の不自由な人にメガネがあるように、発達の凸凹がある人だって、上手く周りの石をどければ歩きやすくなるってものです。

参考: 「【大人の発達障害】仕事での困りごと・就職方法・対処法まとめ」
参考: 「合理的配慮とは?考え方と具体例、障害者・事業者の権利・義務関係、合意形成プロセスについて」

僕の場合も、上記のように色んな凸凹があるわけだけれど、考えようによっては特性の偏りは強みにもなるし、強みを足場として苦手にも対処できるようになってきた。

ライターや編集者といった仕事は、言語性の高さを活かす上での天職だと思うし、
ビジュアル・デザイン面はからきし苦手だが、業務やコンテンツの目的を「言語化」できれば、デザイナーさん他、得意な人に具体的な依頼ができる。
最近は部下も増えて、プロジェクトマネジメント的な仕事も多くなってきた。同時処理や迅速な判断が必要になるので苦手分野とも言えるのだけれど、とにかく自分が学んだ視点や方法論を、言語やフレームに落とし込んでいくことで、少しずつ自分なりのやり方が見えてきた気がする。

発達障害のある人の中には、苦手を補って余りあるほど傑出したクリエイティビティを発揮して一芸に秀でたような人もいる。だけど、みんながみんなそうならなくたっていい。

地道な戦いだし、決して人生イージーモードではないと思うけれど、それでもきっと、誰だって自分なりのサバイバル戦略は見つけられるはずだ。僕はそう信じている。
 
 

 
 
「私ってADHDなのかもしれない…」
「発達障害の診断って、どこで受けられる?」

「ふーん、そっか。どうしてそう思った?」

冒頭の相談に、どうしてこんな淡々としたリアクションを取るかというと、
まず第一に、僕にとってそれは「どちらでもいい」ことだからだ。
あなたが発達障害であろうとなかろうと、今まで続いてきた僕とあなたの関係性が、それだけで変わるはずもない。

もう一つの理由は、診断名を白黒ハッキリつけることが、本人にとっての正解なのかどうか、究極、「分からない」からだ。

こうやって相談してきつつも、やっぱり実際に診断がついてみたら、「私」はこれからどうなるんだろう…?と、不安が大きくなる人だっている。
一方、医師に確定診断を受けたことで、「嬉しかった」「救われた」「自分が怠けてたんじゃないとわかってよかった」と、ポジティブな気持ちになれる人もいる。

「発達障害」というラベルをその人が自身のアイデンティティにどう取り込むか。
それは本人の気質や心境によっても変わってくるだろうし、周囲の人々や環境の寛容度(への期待値)の高低にも影響される。

相談者に対して、僕が何かをジャッジしたり誘導したりすることはできない。
できることは、自分にとっての「正解」を探すための、整理・内省のお手伝いぐらいだろう。

・知能検査・心理検査で特性を把握すること
・医師に発達障害の確定診断を受けること
・障害者手帳を取得すること
・配慮を受けやすい障害者雇用枠で求職・就職すること

これらは決してイコールではないし、全てのアクションを取る必要もない。

発達障害傾向の無い人でも、知能検査・心理検査は自分を知る手段として悪くないと思うし、発達障害の診断があるからといって、必ずしも手帳を取得したり障害者雇用で働くわけでもない。

診断とって楽になるのなら取っちゃってもいいと思うし、ラベルを付与されることにやっぱり迷いや抵抗があるなら無理に結論を急ぐ必要もない。

どちらでもいい。

僕の場合、医師の確定診断は特に受けていない。

WAISという知能検査は受けた。言語性がめっちゃ高くて、知覚統合とか数的処理が弱く、まぁ凸凹大きいよね、と笑える結果ではあった。

医師も人間なので、診断結果は人によって振れ幅がある。
過去の生育歴や検査結果を持って一生懸命困り感を訴えれば、診断をつけてくれる人もいるだろう。
「いやあなた、もう十分社会で適応できていますよ」と、診断をつけない人もいるだろう。

そのぐらいのグラデーションだと思うから、まぁなくても別にいいかなって感じ。

今よりもっと悩んでいた時期もあった。
こんだけこじらせて生きづらいのは、自分がやっぱり発達障害なんじゃないだろうか?
ただ、当時を振り返ると、自分のことがぼんやりとしかわかっていない状態で、悶々と足踏みしている感じであった。
その経験から言うと、まず何よりも、「自分自身の特性を把握すること」は必要だと思う。

そうすれば、次の足場が見えてくるから。
診断や手帳を取るかどうかという話に飛ぶ前にも、目の前の環境に対して、できることがたくさん見つかるから。

世間的、あるいは会社的に定番の「キャリアパス」に囚われなくていいから、ちょっとでも強みを活かしてパフォーマンス発揮できることを探す。
言うても社会人やっていく上では苦手なことはゼロにはならないから、苦手を把握して周囲の人にSOSを出す術を身につける
それから、職場内でも外でも、とにかく1人でも、相談できる「味方」を見つける。
そして、前々回の記事でも書いたが、「つかれたら、休め」
(発達凸凹かつ生真面目な人、二次障害で精神疾患なりやすいのよほんと。いのちだいじに)

「私は発達障害なの?そうじゃないの?」問題。

一見難問なのだけど、答えはどっちなのか?と抽象的な「問題」に振り回されるばかりなのはもったいない。

少なくとも、僕にとっては、あなたが自分をどちらに規程しようと「どうでもいい」。

ただただ、あなたがどうにかサバイブできる方法にたどり着けることを願う。
そして僕自身も、危うい自分の生をサバイブできることを願う。

ウェブマガジン「アパートメント」当番ノート 第30期に掲載

「家族」というのは未だによく分からないけど、つくりたい「家庭」はあってだな

「それではみなさんご一緒にどうぞ」

「「「いただきます」」」

みんなのアイドルT君(5歳)のかけ声に従って手を合わせ、箸をとる。茶色くて脚の低い長机をコの字型に並べ、部屋の中央にはやや大きめのストーブ。食卓には各々の茶碗や汁椀、それから大皿に盛られた揚げ物やサラダや漬け物やらが並ぶ。部屋の角にはおかわり用の大鍋も。

中高生ぐらいのスキーキャンプだか修学旅行だかを彷彿とさせるような空間に、はじめて出会う世代バラバラの人たちと、僕は一緒に過ごしていた。
 
 
ここ数年は、ニューヨークだったりパリだったり東京だったり神戸の実家だったりと、毎年違う場所で年越しを迎えていたが、今年の年末年始は長野の白馬だった。妻の実家家族を含む、妻の出身高校のOBOGたちが長年に渡って山小屋を運営しており、年末はそこに老若男女ちびっ子みんな集まってスキーをしたり宴会をしたり新年を祝ったりするのが恒例行事だそうで、僕は今年の年末、そこに混じって過ごすことにしたのだ。

夜は酒を飲み、朝昼は本を読んだり寝たりの繰り返しで、たまに散歩に出て白馬の山々を見やり、夕食前には温泉に行き、メシを食い、そしてまた酒を飲み…と12/30の夕方から1/2の朝まで、合計3泊。
(OBの中には服部栄養専門学校の先生もいて、毎回出てくる食事の旨いこと)

01.jpg

今年は雪が少なかったらしく、スキー場のゲレンデも一部閉じていたが、ともあれ北アルプスの山々は美しかった。

02.jpg

こんな風に宴会したり

03.jpg

除夜の鐘は年が明けてから撞くスタイル。小屋の玄関に小さな鐘を吊るして、お神酒を飲んで、みんなでカンカンカンと代わりばんこに合計108回撞く。近くの小さなお宮に行ってささやかな初詣。

04.jpg

ちびっ子たちも綱を引っ張って全身で鐘を撞く。よいしょー。
 
 

山小屋の名前は「神城山荘」という。年末年始に限らず宿泊施設として利用もできるし、年末年始の宴会も高校コミュニティ外の人も歓迎とのこと。今回は妻の職場の元同僚と、彼が誘った友人2名も遊びに来てくれた。

うち一人は保育士で、冒頭のT君はじめ、パパママ世代の皆さんが連れてきたちびっ子たちと元気に飛び回って遊んでいた。
(初対面の彼に開口一番「さま~ずの大竹に似てますね!」と言われたことは軽くショックだったが)

ちびっ子たちの中には、人見知りが強めの子もいれば快活で物怖じしない子もいる。大人たちは、子どもたちそれぞれの気質のままに変な介入はせず、しかし安全には気を遣いながら、肩車をしたり雪合戦をしたり配膳を手伝ってもらったりと銘々の関わり方をする。

自分の親以外の色々な大人たちがいる集団と自然と触れ合える機会があることは、子どもが育つ上でけっこう重要なのではないかと思う。と、僕がもっともらしい小理屈で解釈するまでもなく、居心地のいい空間だった。
 
 

 
 
ここまで書いて、なんだか不思議な感覚がする。

根暗で人見知りの自分が、よくぞまぁ初対面の、なおかつ自分の出身校でない高校同窓会のコミュニティに、妻の繋がりがあるとはいえ、飛び込んだもんだなと。そして意外とその場を楽しめているという事実。

ちょっとは大人になったなということなのかもしれないけれど。まぁとにかく我ながら興味深い変化である。

初回の記事にも似たようなことを書いたが、僕は血縁・地縁といった自分の意思以前にアプリオリに与えられるウェットで土着的な関係性に対して、ちょっと及び腰というか、あまり実感や愛着を持ちにくい気質なのだ。

別に神戸の実家家族との関係が険悪なわけでもなく、家庭崩壊しているわけでもないので、外から見るとおおむね「普通」の範疇に入る家族関係なのだろう。

ただ、実家や地元コミュニティの文化に対して、自分自身の気質が端的に「フィットしなかった」という自覚はあって、盆暮れ正月、一族郎党・一家団欒の場において、その場に当たり前にいるべきメンバーの一人=血縁家族として数えられながらも、心ではいつも「所在の無さ」(居心地の”悪さ”とまでは言わないが)を感じていた。

「ひとり」でいる自由が担保されている東京という街は、自分の肌に合っていたようだ。上京してしばらく経つと関西弁は消え、地元に帰る頻度も下がり、家族との連絡も億劫になっていった。もちろんこれは僕個人が心中こじらせていただけの話で、両親は変わらず大事な息子として自分を見守っていてくれたのだろうけど、意識的にも無意識的にも、実家家族と過ごす時間を最小化しようとする指向性があったのは否めない。

しかしまぁ、アラサーになってようやくというか、自分なりの足場も出来つつある今、血縁・地縁的なコミュニティに対する心持ちがだんだんと変わってきた。良くも悪くも、変なこだわりはなくなってきたと思う。

「子どもは生まれる家を選べない」という言葉は、まぁ確かにその通りなのだけど、大人になった今は、選ばずして共に過ごしてきた家族との、「その後」の関わり方や距離感を選ぶことはできる。

育ててもらった自分の両親や祖父母に対しては、まだまだ甲斐性もないが、息子としては何らかの形で返していくつもりではいる。でも別に、親子だからといって関わり方や距離感までウェットにするつもりもないし、妻を「嫁」としてイエの慣習にどうこう縛り付けたくもない(幸いにしてうちの家はそんな文化でもないし、距離も離れているので、古典的な嫁姑問題は別に起こらないのだが)。

盆暮れ正月はその時の状況によって帰ったり帰らなかったりする。とはいえほどほどに近況連絡はする。老い先短い祖父母の具合が悪くなれば、可能な限り急ぎで帰って顔を見せる。今ぐらいの距離感が一番ラクだなと感じる。

この年末年始をご一緒させてもらった妻の実家のご家族やご親族、地元高校のコミュニティの皆さんには、妻の夫ということ以外(それが大きいこととは自覚しつつ)、縁もゆかりもない根暗男子を混ぜてもらったことに感謝している。僕が知らない2,30年の時間の厚みに対して敬意を払い、新参者としてちょこんと末席に座らせてもらいながら、これからじわりじわりと無理ないペースで皆さんのことを知っていき、そして混ざっていければと思う。
 
 
お互いが生まれ育つなかで紡がれてきたご縁に対して、礼節と責任を果たしつつも、しかし同時にささやかな自由も享受したい。もちろん相手の自由も大切にする。それぐらいのスタンスで、「家族」や「地元」なるものとはお付き合いしたいなと、今はそう考えている。
 
 

 
最近ちょっとした野望がありまして。
端的にいうと家がつくりたいんですよ。

自分と妻と、そのうち生まれるであろうわが子たち、つまり血縁家族の住まいだけじゃなくて、友人たちが気軽に来て遊んだり休んだり出会ったりできる場所。

「あなたとわたしとみんなの家」(仮題)。

05.jpg

ある時は、ちびっ子たちの寺子屋に。
またある時は、つくり手たちのアトリエに。
疲れた人はいつでも休みに来ればいいし、
ただ座ってボーッと過ごしてもいい。

誰もが思い思いの過ごし方を出来て、
自然体の自分でいられる家。
偶然居合わせた人同士で、新しいご縁が生まれる家。

そういう家を、つくりたい。

今まで出会ってきた人のなかには、安心して帰れる「家族」や「地元」が無いという人もいた。上で長々とこじらせたことを書き連ねたけれど、色んな家族事情、色んな人生があるなかで、たとえ元々の「家族」とは違うかたちでも、その人にとって安心できる「家庭」となれたらいいなと思っている。

地方からやってきた自分を受け止めて育ててくれたこの東京で、何もなければ今後も暮らしていくつもり。
色んな地方や国にも行ったけど、この街にひとつ、「ふるさと」を作っていきたいなと思っています。

というわけで、物件募集です。
1核家族の住まい分の部屋+ゲストも訪ねる広めのフリースペースを設けられるような(庭もあるとベスト)、2DK以上の物件を探しています。

都内で安く譲ってもらったり借りたりできそうな古民家とか、
古民家じゃないけどリノベーション可能な一軒家とか、
なにか有力物件情報あればぜひご連絡ください。
(この人に相談したら良いよとか、ここで探すと良いよとかいう情報も大歓迎です)

と、最後おもむろに物件探しとか始めちゃって締まらない感じですが、2017年もよろしくお願いします。

ウェブマガジン「アパートメント」当番ノート 第30期に掲載

カネがなかった頃の話

「じゃあ19時にこのお店で。会費は5000円ね」

「おー、了解。あーでも、ちょっと仕事長引いて遅れそう。コース人数カウントせずに最後ちょっと顔出させて」

海外だの地方だので活躍している友人がたまたま東京に来るもんだから、大学当時のゼミだのサークルだののメンバーで集まろうじゃないかという類の会は、大学を出てしばらく経つと、やはりちょくちょく催されるようになる。

友遠方より来るあり。久しぶりの再会とあらば是非とも駆けつけるべきなのだが、ここで5000円払ってしまうと月末が乗り越えられない。僕のひもじいお財布事情を誤魔化すように上記のような言い訳をし、終わり際に現れて、ビールをほんの一杯だけ飲む。そういう時期が何度かあった。
 
 
今日書く話は、社会問題としての「貧困」の話では決してないし、公園に住んでダンボールをかじってたぞという『ホームレス中学生』(麒麟・田村裕)よろしくの「貧乏」エピソードでもない。せいぜい「カネがねぇなぁ…」と独り言つレベルの話である。しかし、程度や場面の差はあれ、「カネがねぇなぁ…」感を、人生で経験したことのある人は案外いるのではないかという気がする。

*

思うに、貧困とか貧乏の話を除いて、「カネがない」ことのしんどさというのは、かなり相対的なものである。周り(特に自分の所属するコミュニティの中の人たち)と比べて、自分だけ相対的にカネがない。それゆえに、「みんな」が享受している何かが出来なかったり、我慢したり、出来なくはないんだけど残金が気になってエンジョイしきれなかったり、そういうわびしさ。

「カネがない」というのは、要は貯蓄がないということであり、毎月末の引き落とし額から逆算して第3週第4週の乗り切り方が決まるような状態のことだ。1ヶ月スパンでキャッシュを回していくことが精一杯であり、数年はおろか、1年や数ヶ月先を見越した収支計画なんてものがない、というか計画立てようとソロバン弾いても無いものは無いからやること変わらん、みたいな状態のことだ。

や、別にいいと思うんですよ。カネがなくても「豊かな暮らし」は出来るし、カネがなくても人生を謳歌している人はたくさんいる。しかしそこは私たち人間、社会的動物なものですから、働き盛り遊び盛りこじらせ盛りの20代を大都会TOKYOで過ごすような場合には、なかなかどうしてそうはいかない。

*

僕の場合、「カネがねぇなぁ…」のみじめさがとりわけ大きかった時期が今まで2回ある。

1回目は、大学学部を卒業して1年目、2011年から2012年にかけてのこと。なんの因果か、僕は宮城の石巻に引っ越して、震災後の約1年半をその地で過ごして働くことになった。その当時のことはいくつかの場所で書いたのでここでは割愛するが、現地での暮らしはとても「豊か」なものだった。収入は事業立ち上げのための助成金から捻出された最低限の人件費と経費だけなので、カネは全然なかったが、お世話になった地元の人たちには毎日ゆく先々で海の幸山の幸をごちそうになり、人生で一番、食が豊かな時期だったと言っても過言ではない。

一方大学の同級生たちは、世にも有名な一流企業に就職していた。昼夜問わずシャカリキ働き、彼らは彼らで大変な1年目だったのだろうけど、とにもかくにもそこは一流企業、新卒1年目としては世の中のかなり上位に入る初年度年収をもらうわけである。

とはいえ僕らは同級生。青春時代を共にした友人たちであるからして、ゼミだのサークル単位だので、たまに集まろうという話にもなる。僕も石巻を拠点にしていたが、打ち合わせやらなんやらで月に1回程度は東京に戻ることがあり、タイミングが合えばそういう場に顔を出そうとする。

夜行バスに乗って腰と背中を痛めながら、日中はリュックを背負って東京の街をうろつき、デザイナーさんやら小売店さんやら助成団体さんやらと会ったりして、隙間時間にはカフェで作業をし、みたいなジプシーワークを終え、夜になって友人たちと合流しようと店を確認する。その場所が、丸ビル。

えー、学生の頃は新宿のきんくら3000円飲み放題コースでうっすいチューハイ飲んでたじゃん。それが丸ビルて。なにその単価アベレージの上がり。的な。

いやいや別に驚くことではない。ライフステージが変われば社交場に選ぶ街も店も当然変わるのである。僕も僕である意味ライフステージは大きく変わったのだ。しかし、カネがない。一軒行って5000円、二軒目行こうものならまた2000円3000円って、そういう速度で英世さんがお財布から出ていくのはなかなかにキツイ。しかもみんな資産運用の話とかしてる。ファイナンスをプランしている!こちとら運用するカネがねぇ!

上に書いたように東北にいる間はむしろ豊かな暮らしをしていたはずである。それが東京に来て、旧知の友人と会うというだけでなんともみじめな気持ちになる。そこで、ほんとにお金が無いときは冒頭のような姑息な遅刻戦術を取ったり、なんだかんだと理由をつけて欠席したりしていたのである。

2回目は、今の会社に入った2014年の春。大学院留学を終えて日本に帰国し、さぁ働くぞというときに、初月給の振込は5月末という罠。この時はほんとにカネがなくって、その日暮らしを乗り切るカネがない、みたいなレベルだった。結局友人にちょっとだけお金を借りたり、あとはクレカを駆使して来月に繰り越したりして乗り切ったわけだが、このときのみじめさは、4-5歳離れた学部卒の同期がフレッシュに溌剌とスタートダッシュを切るなか、大学院まで出てアラサーにも差し掛かった私の生活の見通しの無さなんですか的な情けなさであった。

いやいやそこも含めて前もってやり繰りしておけよと言われればその通りなのだが、留学時代はお借りしたお金でどうにか駆け抜けるので精一杯で、少し残しておいたお金も帰国と引っ越し費用が思った以上にかかったものだから、帰る頃には財布も口座もほとんどすっからかん状態だったのだ。帰国後に「久しぶりに会おうよ!」と言ってくれた可愛い女の子をデートにも誘えない。しょぼん。

とにかく、「カネがない」みじめさというのは、自分ひとりだけで生じるものではなく、相対的なものなのだ。今となっては「そんな時代もあったね」と笑えるぐらいのお話だが、当時はやっぱり、しんどかった。

*

そんな僕だが、最近「カネがない」年下の子たちと接する機会が増えてきた。

休学して地方から東京に出てきて企業でインターンをしたり、既卒なんだけどアルバイトをいくつか重ねて正社員を目指していたり、一回企業に就職はしたんだけど色々わけあって続かずにまたアルバイトをしながら次の正社員就職先を探したり…そういう子たちである。

ちょっと当時の僕に似ている、「はざま」や「ねじれ」の時間を過ごしている子たち。こういう状態の時は、よっぽど実家が太くない限り、往々にして「カネがない」。そして同世代を横目に見ると「安定」を手にしている友人が出てきている。なかなかこういう時は不安である。

「いやいや、そうなることがわかってるならちゃんと計画立てて動きなよ」と言う人もいるかもしれない。でも、こういう子たちが全くの向こう見ずで無計画なモラトリアムかというと決してそうではなく、一人ひとりなんらかテーマを持って行動を起こしてはいる。ただそれが粗削りで稚拙だったり、内面の煩悶と社会との折り合いの付け方に時間がすごくかかるゆえに、他のみんなほど上手に世渡りできなかっただけのことだ。

「はざま」の時間に飛び込む時というのは、理屈で予定立てられたアクションであることはほとんどない。人間のエネルギーというのは脳みその思考キャパ含めて総量限られているものだから、とにかく彼・彼女らはのっぴきならない熱に突き動かされて東京までやってきたのだ。それはもう、結果として仕方ない。
 
 
そんな彼・彼女らに対して、僕ができることはさして無い。「はざま」の時間の孤独と不安に耐えるのは他ならぬ自分自身だし、飛び込んだ以上、その中から活路を見出していくしかない。

ただ一言、会ったときには「おなかすいたら連絡ちょうだい」と言うようにしている。

僕自身も「カネがなかった」頃、社会人の先輩たちにそうやって声をかけてもらってきたからだ。そして実際、たまに会ってごちそうになり、お腹と心を膨らませてもらっていたからだ。そういう先輩たちの一言に、どれだけ救われたことかわからない。
 
 
今に至っても運用する資産など皆無で、借金もたくさん残ってはいるが、少なくとも向こう1ヶ月や2ヶ月のキャッシュフローを考えて、お財布と通帳とカレンダーとにらめっこする必要はなくなった。

さすがに丸ビルには連れて行かないけれど、場末の居酒屋でレモンサワーを奢ることぐらいはできる。
  
僕が予想するに、君たちの「カネのなさ」というのは、あともうちょっと続く気がする。見ていて、そんなに劇的に儲かりそうな気がしない。だけどきっと、じわりじわりと状況が好転していくとは思う。同じような時期を過ごしたパイセンが言うのだから安心してほしい。

だからそれまでは、「おなかすいたら連絡ちょうだい」。社交辞令じゃないからね。

IMG_2687-730x548-1.jpg

社交的な根暗がアラサーになっていつの間にか結婚して思うこと

「結婚とか、しなさそうだったのに」
「よく言われるよ」

持って生まれた気質なのか、はたまた環境がつくった性格なのか、誰か特定の人や集団と、長期的にウェットな関係を結ぶという発想や動機に乏しく、愛とか絆とか血縁とか、そういうのはぶっちゃけ、よくわからない。

付き合いが続くも途切れるも、それは僕が決めることではないし、来るものを拒む理由も去るものを追う理由もない。
そう思って生きてきたし、今も概ね、そう思って生きている。
 
 
そのくせ、惚れっぽい。

恋愛という意味に限らず、その場その場で出会った相手にはものすごく影響されやすく、すぐに相手のことを好きになる。出来るかどうかはさておいて、その人のために自分が出来ることならなんでも頑張ろうって気持ちになる。

その上、気を遣う。

相手の期待に応えなきゃという責任感が自分の中で勝手に増幅して、しかもそれを複数方面に対して背負っていくものだから、理想と現実のギャップからしょっちゅう自己嫌悪に陥る。

「過剰適応だ」と妻にはよく言われる。減点法の男。

淡白なのに惚れっぽい。他人に期待したくないのに他人の期待には応えたい。

そんな矛盾だらけの「社交的な根暗」として色々こじらせながら生きてきました29年。振り返るとすり傷だらけの黒歴史で、とりわけ恋愛関係は長続きしない刹那的なものがほとんどだった。

わけですが、いつの間にやら結婚しておりましたと。自分でもびっくり2016年。みなさんいかがお過ごしでしょうか。

3月に入籍して、10月の終わりに、式と披露宴とパーティーを開いた。

それは、「ささやかながら」などと表現したら失礼になるような、過分で、幸せな時間だったと思う。

色々と相談した結果、親族も含めた「ゲスト」の皆さん同士をお繋ぎできるような会にしようと、司会は新郎新婦、食事や引き出物はお世話になった方々から取り寄せたゆかりの品々で構成、テーブルも所属や関係性ごちゃ混ぜでお話しできるような形の披露宴を企画した。
(あれは嫌だこれは出来ないと、新郎がリベラルこじらせた結果でもある。式場の方にはずいぶん好き放題要望を聞いていただいたと思う)

夜のパーティーも、もうなんか友人みんな集合ーってな感じで、方方にお声がけした結果200人ぐらいの規模になっちゃって、みんなと代るがわる挨拶したり写真を撮ったり、またぞろ自分たちで司会をしたりと嵐のような時間だったけれど、とにかく楽しかったのを覚えている。みんな新しいお友達、できたかなぁ。
(これまたお店の人と幹事の友人にはずいぶんとお世話になった)

01.jpg

「いや、もうこの日本式の披露宴のしきたりからその成り立ちから意味わかんないし、そもそもこの結婚制度とかイエ制度とか…」
「あなたがその形式が嫌なら、やりたいようにやればいいじゃない。お世話になった人たちにご挨拶できれば私はどんな形でも良いし、型に囚われてるのはあなたの方よ」

「えー、でもほんと200人とか、会場大丈夫だろうか。ぎゅうぎゅう詰めで、楽しんでもらえなかったらわざわざ来てもらうのに申し訳ない…」
「あなたが会いたいと思う人に一人ひとり声かけたんでしょ。来てくれるって言うんだから私たちは全力で準備してもてなすだけじゃない」

一事が万事そんな調子で、高まったり落ち込んだりしながらの準備期間。3マス進んで一回落ち込む、みたいな誰にも頼まれていないのに謎の牛歩ルールですごろくを進めているようだった。

だけど、実際にその日を迎えて終わってみると、本当にとっても楽しかったし、みんなに来てもらえて嬉しかった。やって良かったと思える会だった。

僕はいつもそうで、何かが結実するまでの過程はうじうじする癖に、終わってみるとスッキリ満足するのだから調子が良い。

アラサーにもなってこの性格。たぶんそうそう変わるもんでもなさそうな気がするが、ごちゃごちゃと言いながらも結局は皆さんのお世話になるのだから、そろそろ腹を括ろうかなと思ったりもしている。これからもきっと、みんなに生かされていく。
 
 

 
 
僕が今、「ここにいる」こと
僕が今、妻と「一緒にいる」こと
僕があなたたちと、今もまだ「途切れずにいる」こと

それらはすべて結果でしかないから、理由や因果を問うてもわかるはずがない。未来にこの人たちと一緒にいられるのかも、わからない。

だけど、妻や友人や先輩や後輩、関係が結ばれた色んな人たちに対して、”今”自分が思っている気持ちは事実だから。その”今”が未来へと向かっているのなら、未来でも同じ時間を過ごしたいと思うのなら、そのことに対しては誠実でいなくちゃな、と思っている。

自分が選んできたことの意味、自分が大切にしている人やもののことを、一つ一つ確かめていくことは、「これから」を生きていくうえで、きっと大切なこと。

 
仕事のこと
暮らしのこと
妻のこと
友人のこと
いくつかのふるさとのこと
これからのこと
それから、ここ「アパートメント」のこと

久しぶりに自分の部屋を持って、色々と書き連ねてみたいと思います。
(〆切に追われながら)

——

02.jpg

(友人の仲道萌恵さんにつくってもらった結婚指輪)
ウェブマガジン「アパートメント」当番ノート 第30期に掲載

役に立たないし、救わない。いわゆる「生きづらさ」というやつに対して。

そりゃあなんでも、得意・不得意に好きも嫌いもあるだろうが、俗世の人生は、それが続く限りは絶え間なく変化してくれるのが救いである。

ビジネスだろうと対人コミュニケーションだろうと、向き不向きはあるが、訓練次第で相当程度は技術的に習得・克服が可能である。やっかいなメンタルヘルスというやつだって、食事と睡眠と運動(+重度なら薬と精神療法)で、けっこう物理的に対処可能だと理解している。

けれど、それら俗世の処世術がうまくいくことと、生きづらさの解消が地続きにあるかといったらたぶんそんなことない。

「生きづらさ」というものの原因究明それ自体には、実はさしたる興味も希望もなく、ただそれが、世俗的な成功とか人気とか健康といったものとは質的には異なる、なんつーかこう、テクニックで解消出来る類のものではないだろうと思っている。

誰もがうらやむトップスターであろうと、市井のサラリーマンであろうと、彼彼女らがどんな孤独を抱えているかを、私たちには知る由もないし、決して共有することもない。

一人の人間が根底に抱える「生きづらさ」なるものに対して、他人が役立てることはほぼなくて、「あなたの生きづらさを解消します」というのは、実はだいぶおこがましい。「社会」とその構成員たる私たちに出来るのは、死なないセーフティネットを可能な限りきめ細やかに張りめぐらせることと、多様な人が、どうにかこうにかしがみつける仕事・役割をなるべく増やすこと、パンとサーカスでつかの間の遊興と幻想をもたらすぐらいしかないだろう。

「生きづらさ」を抱えている(であろう、と感じられる)人が身近にいたとして、一個人たる「わたし」に出来ることは、「お互い大変ですねぇなんのお役にも立てませんがあなたが幸せだろうと不幸だろうと成功しようと失敗しようとわたしはずっと見てます見守ってます、、、フレーフレー」と、そういう力のないメッセージを発し続けるぐらいにしかないと思う。

なので私は、「仕事」をする上では構造とか環境をいかにプラクティカルに変えるかということに注力するけど、結局クソの役にも立たない文学が好きだ。

祖父の病室

関西出張に合わせて休みを取り、母方の祖父の見舞いに行った。神戸で母と合流して車で岡山へ。美作市という、田畑が広がる県北東部の田舎町が母の出身地である。

祖父はここ数年でずいぶんと弱り、入退院を繰り返している。以来、母は働きながら月に2回は岡山に帰り、見舞いに行くという生活を続けているが、私は留学やら仕事やらにかまけてほとんど顔を出していなかった。

強い雨風に降られながら、高速道路を抜け、母の実家近くの小さな病院にたどり着いた。昨年も大きな手術があり、その間は県の中央病院で措置を受けていたが、少し落ち着いてきたため、最近転院してきたそうだ。

地図を読めない母は、「2階」という情報だけを頭に入れて、受付も案内図も無視して上階へと上がっていく。案の定変なところに迷い込む。1階受付まで連れ戻して職員さんに聞くと、祖父の病室は別館にあるらしい。

渡り廊下を渡ってエレベーターで東館の2階へ。1階受付で聞いた番号の部屋にたどり着くと、違う人たちの表札が張ってある。あれれと思ってナースステーションでもう一度聞いてみた。

「あ、今朝、部屋変えたんですよ」

案内された部屋は2人部屋で、祖父のベッドは窓際にあった。

01.jpg

「景色も見えないと飽きるだろうと思って。ここだと電車も通るから。田舎だから1時間に1本ですけどね。」

祖父は眠っていたが、母と私が声をかけると目を覚ました。

母が問う。
「お加減いかがですか?」「みてのとおりじゃわ」
「この子の名前覚えてる?」「ゆ うへい か」「そうそう。孫を久しぶりに連れて来ましたよ」

私も話しかける。
「帰ってきたよ」「いつきたんだ」「今日着いたところ」
「※●※■○んか」「え、なんて?」
発音が不明瞭なのでところどころ聞き取れない。
「くぅあできたんか」「あ、そう、車で来たんよ」

「今度結婚するんよ」「どこのひとなんあ」「東京の人」「いつするんだ」「3月頃かなぁ」「そいたらわしはいかれえんなぁ」
祖父は、もう自宅には帰れないだろうと言われている。
 
 
16時になったので、テレビをつけて水戸黄門を流した。寝たままでも見られるようにテレビは天井から吊り下がっている。枕元にあるイヤホンを引っ張りだして祖父の片耳にはめる。「恐怖!凶賊卍衆」という回。イヤホンが両耳分あれば一緒に視聴することができたのになぁ。

少し遅れて、従兄弟兄弟もやってきた。同じように祖父に話しかける。ほどなくして食事の時間となり、看護師さんがやってきた。

祖父はもう自分で飲み食いをすることはできないので、胃ろうカテーテルで栄養を摂取する。ウィダーインゼリーのようなパックに入った栄養剤を看護師さんが注射器に詰め、それをチューブに指して祖父の胃に流し込む。透明でほとんど水みたいなものや、薄橙色のドロリとしたものなど、何種類かの栄養剤が4回、5回と流し込まれていく。「食事」が終わるとチューブには蓋がされ、脇にある医療台に使用済みの注射器が並び置かれた。一連の動作が実になめらかで、私はしばし見とれていた。

17時が過ぎて、母も夕飯の支度をするというので、祖父とお別れをし、その日は母の実家に泊まった。祖母も、母の兄弟夫婦も、従兄弟兄弟も、その他親戚のおじさんおばさんも、一族郎党がぞろぞろと集まってきた。母の実家は、夕食も宴会もシームレスに続いていくのが特徴で、ちびちびと飲み食いしながらうだうだと夜遅くまで話し続ける。私はだいたい2時間頑張れば良い方で、早々に布団のある居間へと退散してしまう。
 
  
*  
 
翌朝。病院から祖父の意識がなくなったと電話がくる。その後すぐに回復したのだが、母と、従兄弟兄弟家族と揃ってもう一度病院に顔を出す。一日経ってもう一度対面した祖父の顔は、少しくたびれていた様子である。

6人ずらり。みんなが祖父を取り囲んでまた例のごとく「名前覚えとるか?」と聞く。祖父は順番に答える。「僕は?」「じゃあ私は?」スムーズに名前が出てくることもあれば、「なんだったかなぁ」と思い出せないこともある。その時は頭文字を言ってヒントを出す。母が私を指して「じゃあこの人覚えてる?」とまた同じ質問をする。私は答えられても答えられなくてもどちらでも良いと思いながら聞いていた。

名前を尋ねる、というやり取り。放蕩者の私が気まぐれに顔を出した昨日・今日に始まったことではない。ここ数年、母や従兄弟家族は何度も何度も繰り返してきたのだ。その度に祖父は、思い出せたり、出せなかったりしながら、少しずつ、少しずつ弱っていく。

もう家に帰ることも、自力で歩くこともない。
カテーテルで胃に直接「食事」が注入される。
「お茶を飲みてぇなぁ」といっても叶わないから、霧吹きで水を吹き入れる。
時おり痰が詰まって酷く苦しそうに咳き込む。

小康状態はあっても、「良くなる」ことはない。
未来ある私たちが「自己決定」を合言葉に遮二無二走っている世界とは対極の時間が、祖父と、祖父の周りには流れている。

それでも
親族は見舞いに来る度に祖父に名前を尋ねる。
看護師さんは毎日おむつを取り替える。
祖父は、毎日16時には水戸黄門を観る。

続く限りは、同じようなやり取りを繰り返す。

働き続けるために自分を守ること

行き先は分かっているのに、駅の構内地図前でしばらくぼーっと立ちつくしていた。
そのことに気づいてからもしばらく動けないでいた。
地図を見る視線と焦点が定まらない。これはまずいなと自覚した。

エネルギーの総量が減っている。対人業務とか急ぎの書類だけ瞬間最大風速で乗りきってる感じ。それも徐々に消耗する。

仕事に関して、今年は変化が大きい。
新しいプロジェクトを同時並行で走らせながら、出来たばかりの組織の今後の展開について考えなければならない。
プロジェクトごとに関わる人はいるのだが、フルタイムの同僚や直上の上司がいるわけではないので、なかなか難しい。
「変化は自らつくるもの」と教わり、心得ている。
組織体制については周りと相談しながら、少しずつは進んでいる。
とはいえ、コミュニケーションや時間配分について、自分で制御しきれないしんどさはある。
また、未来を見据えて計画を立て、それを相手に伝えて状況を動かす、というのにはエネルギーがいる。

この状況が一朝一夕で楽になるものではないし、自分にとっても重要なステージではあるから、投げ出さず続けて、動かし切るつもりでいる。
直近コントロールできるものは何か。自分自身の生活である。時間の使い方である。

ストレスチェックをするとけっこう高く出た。
このまま放置すると不味いなという自覚を持てるぐらいには冷静で、とはいえ日常のパフォーマンスや集中力は明らかに落ちていて気分も沈んでいるから、今月は自己防衛を最優先にすることにした。

仕事で認知行動療法だの行動変容だのマインドフルネスだのレジリエンスだの自己決定だの当事者研究だの言っている場合かというものである(笑)
(社内や同界隈の友人ともよく話すが、対人支援職のヘルスケアというのも冗談ではなく重要な社会課題であると思う)

働き続けるために、より多くのことを成し遂げるためにも、自分自身を守るということは重要だ。
頭では分かっていても、目先の仕事の忙しさ、周りの期待値の内面化、休むことの機会損失などなどで、なかなか踏ん切れないのが20代後半の働き盛りだと思う。

こういう時はルールを作って可視化するのである。そして計測する。
目標は達成可能なものからスモールステップで取り組む。
結果が即時に見えるフィードバックの仕組みをつくる。
ってこれ、普段他人に言ったり教えたりしてる方法じゃないか(笑)

というわけで、以下のような行動指針をつくった。
Googleフォームで日次で達成状況をチェックして蓄積し、週次で評価をする。12月はこれで様子を見つつ、年明けに振り返って1月以降より適切な指標に調整していきたいと思う。

基本方針としては、1)無理をしないこと、2)睡眠を最優先項目とすること、3)対人交流を制限すること、の3点を重視する。なので下に書いた事項が全て達成できなくても良い。心身の回復度合いにともなって柔軟に調節していく。「丁寧な暮らし」にはほど遠いが、死なないための暮らしが出来れば上出来とする。

飲食に関しては基礎知識と健康意識もあり、そこまでひどい生活はしていないと思う。
が、人付き合いが多いため、流されて飲み過ぎるとか、仕事で帰りが深夜になるとか、その結果寝付きも寝起きが悪く、朝食も食べない…とか、そういった仕事や人間関係による悪循環の要素が大きいと思う。脱、NOと言えない日本人

こうして書き出してみるとそれだけで多少気分がすっきりするものである。

手遅れになるまえに生活習慣を立てなおそうと思う。

■睡眠
・7時間の睡眠時間確保を最優先とする
・電気を消して寝る
・シャワーを浴びてから寝る
・パジャマに着替えて寝る

■運動
・無理して強度の運動はしない
・週に1度、30分〜1時間程度の散歩をする
・夜寝る前にストレッチを行う
・朝と夜に5分程度の瞑想を行う

■食事
・家で朝食をとる。納豆、バナナ等時間のかからないものを少量でも良いので摂取して外出する
・昼食では、糖質の低く、あたたかいものを、可能な限り摂取する(コンビニおでんなど) 
・来客・ランチMTG等で外食する時は注文時に分量を減らすようにお願いする
・家で夕食をとる。ゆで野菜や海藻、豆腐等を中心にあたたかいものを摂取する
・作りおき、栄養バランス等、気にしすぎるとキリがなくかえってストレスのもとなので、基本的に上記以上のことを自分に求めない

■飲酒
・しばらく控える
・付き合いの場では最初の一杯だけ飲む。あとはノンアルコール
・二次会には行かない
・断ることが可能な予定は年内全て断る

■仕事
・21時までには退勤する
・極力昼休みをとる

■臨床的介入
・直近、可能な日程でメンタルクリニックに行く
・その日の場面から非機能的なものがあった場合、1つをピックアップし、以下のフォーマットで認知再構成法を使う。
(参考: 大野(2014)、「認知行動療法の基礎と展望-特集-認知行動療法」、PTジャーナル第48巻第12号)

12/12/2015

状況
知人に誘われたメンタルヘルス関係のワークショップに参加した。前半スピーチセッション中も頭がボーッとしてあまり集中できなかった。後半グループワークでは、精神障害当事者が運動をするきっかけや方法を考えるワークであったが、自分のテーブルは議論が発散している様子で、交通整理の必要を認めたが、脳がうまく回転せず、この場に貢献できないと思ったので、開始早々に「予定があるので」と言って退出した

気分
不安と焦り

自動思考
いつもならもっとうまく話せるのに、今日この場では何のパフォーマンスも発揮できていない。このまま時間を過ごしていても役に立てないし自分にとっても良いことがない。とても誰かを支援できる状態ではない。情けない。

根拠
同程度の規模、似たような話題や方式の対話の経験はあり、自分も参加者もより活発にかつすっきりと議論を整理することができることの方が多いのに、今日はまったくそのようでなかった。普段の業務上、より緊張感と要求度が高い仕事を抱えているのに、オフの場でこのパフォーマンスではまずいと思った

反証
人間、心身ともに疲れがたまるとパフォーマンスが下がるのは生体反応として当然のこと。同じ人間、同じような話題・活動でもうまくいかないことは当然ある。

気分の変化
その場で自分のコンディションを判断して、退出・休息を最優先と判断できたのは良かったと思う。

てんやの天丼

今朝、訪問販売があってさ。寝起きで頭働いてないし、表情見れば成約しないって分かるだろうに、妙な粘りを見せてくる恰幅の良いおねえさんで、身体に優しい牛乳とか売ってくる前にあなたの優しさをくださいよ勘弁してくださいよ。と思った。

人と会う用事がいくつか入っていたので、着替えて出かけた。

人と会った。仕事の話をした。
人と会った。仕事の話をした。
人と会った。仕事の話をした。

報告をして、事実確認をして、だれがいつ何をやるかを決めて。
だいたいのことはそうやって冷静に粛々と進める以外にないのであって、今日もご多分に漏れずそういうことだったのだけど。
もやっとしたことがあったので、ちょっと、言葉に、出した。

肝心のところで吃る。

それぞれの人たちがそれぞれのところで大変なこと日々いっぱい抱えてるんだろうな、ということを踏まえてブレーキをかけてもやっぱりもやっとがもやっとしたままもやっと出てきた。

肝心のところで吃る。
 

家に帰ることにした。
電車に乗った。いくぶん冷静になって。勉強になったな、と。反芻した。 
 
 
阿佐ヶ谷に帰ってきて駅前のスタバでひとしきり作業をした。それでもやっぱりどうにも元気がでないので、「あぁ、今日はほっとする場所でほっとするものを食べないとだめだ」と考え立ち、高円寺にある知り合いのカフェでビーフストロガノフを食べることにした。歩いて15分ぐらい。休みの日だった。もうラーメンでいいやという気分になったけど、高円寺のラーメン事情に詳しいわけでもなく、「高円寺 ラーメン」と検索してもろくすっぽテンションが上がらず、きっと半ラーメンだって食いきれないだろうというぐらいろくすっぽテンションが上がらず、最近の不摂生もあるので、やっぱり今日は家で自炊しようと考え、高円寺駅から電車に乗り、あやうく新宿方面に連れ戻されるところ、ドアが閉まるギリギリで気づいて外に飛び出し、阿佐ヶ谷駅に降りてとぼとぼと歩き出して、結局駅北口ロータリーにあるてんやに入った。

てんや。何の変哲もない。てんや。
駅を降りればすぐ目に入る黄色い看板。
座れば3分であたたかいものが食べられる安心感といったらない。

隣のバーガーキングには入ったことがない。
バーガーキングには良い思い出がないからだ。

毎月18日の「てんやの日」には390円の「サンキュー天丼」が食べられるのだけど、500円だって今の僕には十分サンキューだ。テーブルの上には、子持ち白魚と活〆穴子の早春天丼(税別769円税込み830円)の写真があったのだけど、今の僕には穴子がなくたって普通の天丼と普通のお味噌汁とあったかいお茶があればサンキューだ。

てんや。何の変哲もない。てんや。
てんやの天丼。天丼美味しい。

食べてから家に帰った。
 
 
 
そういえば今朝、訪問販売があってさ。寝起きで頭働いてないし、表情見れば成約しないって分かるだろうに、妙な粘りを見せてくる恰幅の良いおねえさんで、身体に優しい牛乳とか売ってくる前にあなたの優しさをくださいよ勘弁してくださいよと思ったのだけど。

あの人も、明るい笑顔と、よく通る声と、粘りの営業トークを武器に、お宅訪問を繰り返しながらも、たくさん断られて、たまに成約して、たくさん断られて、で、やっぱりちょっと、落ち込むこともあるのだろうか。

きっとあるのだろう。それでもまた翌日も翌々日もお宅訪問を繰り返すのだろう。

身体に優しい牛乳、売れると良いですね。

表現する人とその作品に対してできること

10年ぐらい前は、世の中には「アーティスト」という人種がいて、そういう人たちはお茶の間のテレビを通してしか見ることのない特別な世界に生きているのだと思ってた。

もちろんそんなことはなくて、実際に会ってみると、ちゃんと同じ人間である。色んな人がいるが、ともかくも生きていれば腹が減るので、メシを食う必要がある。表現だけしてもそれ自体では腹は膨れないので、色んな方法で身銭を稼いでいる。そして食っていっている。

写真家さんや被写体さんやメイクさんは、スタジオを借りて一緒に「作品撮り」というものをする。自分たちの表現を追求するためでもあるし、評価の対象となる、ひいては仕事のきっかけともなり得るポートフォリオを増やすという意味もある。しかし作品撮り自体は自費折半なので、撮られた作品がすぐお金になるわけではない。なので、雑誌やテレビや広告で、クライアントありきの仕事を請けたり、写真スタジオに勤めたりして、日々の稼ぎを得たりする。こういう人たちは、一つの生業に専従しているとも言えるけれど、表現物の自己表出性と商業性は、一部重なりつつ微妙に幅を持っている。

生活の糧と表現活動を分離している人もいる。普段は全然違う仕事をしてお金を稼いで、生活の余剰で作品制作をする。そうして作った作品自体が売れることもあるけれど、それ自体を主たる収入源としては位置づけていない。表現活動を、余暇や趣味と捉えていたり、あるいは真剣だからこそお金や商業性と分離したいと思っていたり、その動機は色々だけれど。

作品制作一本で勝負している人もいる。パトロンを見つけるなりグランツを取るなりして制作費をなんとかかき集めて、作品をある程度まとまった数作り、展示やパフォーマンスの機会を作り、あるいは営業をして、作ったもののうち2つでも3つでも、単価100万や200万で売れれば収支トントン、みたいなサイクル。NYにいる間、このタイプのアーティストの個展の手伝いを何度かしたことがある。日本から大判の作品を大量かつ厳重に空輸してNYで展示するプロセスと労力を目の当たりにして、「いやこれ大変っすわ…」としみじみ思った。結婚していて子供も2人いて、これ一本で一家を養っている人なんかも、いた。うひゃあ。

生活設計全体で考えればこの他にも色んなバリエーションがあるだろうけれど、ともかくも、作品を買ってもらうというのは大変だ。まずもって生活必需品ではないものを、欲しいと思ってもらい、財布の紐を弛めてもらうのは、そう簡単ではない。

なおかつ近年では、テクノロジーの発展によって、プロとアマの距離が大きく縮まった業界もある。代表的なのは写真。日本で知り合って、NYにもちょくちょく来られるベテランの写真家さんが、ここ数年で何人も知り合いが廃業したと言っていたのは印象深かった。昔はプロの技術でないとできなかったことも、機械が勝手に調整してくれるから、無理にプロに頼まなくても事足りる事例と領域が増えたのだ。だからこそ、写真一本でプロとして仕事を貰い続けるには、世界観とか、視点とか、文脈づくりとか、技術以外の差異が必要になってくる。それから文章も。インターネットで誰でも世界中に向けて書くことができるし、プロでなくても良い文章が出てくる。書いた原稿や本にお金を出してもらえるハードルが高くなったという点では、ライターさんや作家さんも、大変だ。

別にギョーカイに詳しくなったわけではない。でもとにかく、表現をすること、より正確には表現を「続ける」ことの大変さは昔より実感を持って理解したと思う。伴って、表現する人や作品に対する接し方が変わってきた。端的に言うと、お金や時間をより多く表現物に向かって使うようになった。もっと使えるようになりたいと思っている。

表現物を「買う」ことは一番シンプルかつストレートな応援だから、自分が好きな人、応援している人の作品はなるべくお金を出して買いたい。ただ現状のところまったくもって稼ぎが少なく、なんだったら学費で借金まみれでもあるので、すぐに買えるのは、本・CD・DVDや、ライブ公演・映画のチケットなど、販売・配信規模と利用者規模ゆえに比較的単価が低く抑えられる種類のものぐらいだ。

表現作品の価格は、制作に必要な物理的な資源・経費の多寡と、作家本人の「格」-地位や名声のセットで上下する。だから大判の絵画や書画、石や鉄の彫刻、家具や家なんかはちょっと今は手が出ないし、自分が見つけて好きになった時にはすでに売れっ子である人の作品とかは、目眩がするぐらいに値札のゼロの数が多い。そういう場合はせめて、展示会などがあればなるべく足を運ぶようにしている。そこで作品を観て感じたことを、考えて言葉にして、後日感想を送ったりするようにもしている(買った場合でも勿論そうだけど)。

だから最近は、もっとたくさんお金を稼ぎたいなぁとも思うようになった。自分のためだけではなくて、この人たちの作品にお金を使いたい、と思える人とのご縁が増えたから。

お金を稼ぐだけじゃなくて、その人達の表現する世界に恥ずかしくないだけの、感性とか思考とか、もっと言えば生き方を目指さなきゃいけないなぁと、思うようにもなった。

つまり、総合的に言って、「欲」が出てきた。お金とか贅沢に対しての欲じゃなくて、「成長」とか「投資」に対する欲と言って良いのか、これらの言葉が100%しっくりきているわけではないけど、何か、そう言っちゃっても良いような前のめりな熱が、自分の中に育ってきているのを感じる。もうひとつ言うと、自分自身が表現することに対する欲も。僕の場合は書くことで。勿論まだ全然売れてないんですけども。

作品づくりは、エネルギーが要る。それは表現する人の生命の、生き方の写し絵でもあるから。作る方も、受け取る方も、テキトーではやってられない。

作品と向き合う、向き合える自分であろうとすることはつまり、より善く生きるということなのだと思う。

未来の劇場から、美しいふたりへ ― 映画「風立ちぬ」

夏に日本に帰っている間に「風立ちぬ」を観た。僕が観に行く頃にはすでに多くの人が鑑賞した後で、TwitterやFacebookを開いた時に感想・レビューの投稿やブログが流れている状態だったが、なんとなく、そういうものは今回は見ない方が良い気がしたので見ないで放っておいた。公式サイトとか監督インタビューといった類のものも見ずに劇場に足を運んだ

 戦前の日本が舞台であることだとか、どういう人達の話なのかもほとんど全く知らない状態で入った。堀辰雄の原作も知らないし、堀越二郎が零戦の設計者だということも、映画を観終わって初めて知った。
 
 1回観た時は、じんわり感動した。「後半は泣きっぱなしだった」と語る友人もけっこういたのだけど、そういう感じではなかった。「あぁ、いいなぁ」って感じの、静かな感動。
 
 なのに結局1回では飽きたらず、出国する直前にもう一度観に行っている自分がいた。その時も、だいたい同じ箇所で、じんわりうるりと静かに感動した。やっぱり「後半泣きっぱなし」というわけにはいかない。
 
 だけどどうしたことか、こうしてNYに帰ってきてからもずっと、「何か書かなきゃ」という気持ちが底の方に続いている。バタバタして結局9月も下旬というところで、筆をとっている。
 
 
 「こないだ『風立ちぬ』を観たよ」と友人たちに話すと、テンション高め、というか思い入れを持った語調での食いつきを見せてくる人がけっこういた。そういう人たちの感想は賛否両論分かれていて、どちらかというと男は賛・女は否の傾向がある印象だったが、でもその多くは二郎や菜穂子の生き方に同性として共感・感情移入・自己投影できるか、あるいは異性として惹かれるか・容認できるかという恋愛論・男女論に終始しているようで、それはなんだか違うのではないか、と思った。僕の場合は、映画を観ているとき、二郎に「共感」するとか「自己投影」するような気持ちは全く起こらず、なにか美しいものを「眺めている」という感じだったからだ。

 この映画は結局、”あまりにも若すぎた”、二郎と菜穂子の二人が、”ほかの人にはわからない”、”けれどしあわせ”な生を全うしたという、ただそのことに尽きるように思う(主題歌: 荒井由実 「ひこうき雲」)。二人の命は、現代に生きる僕たち「外野」から向けられるいかなる重力—記号的な男女論・恋愛論もすり抜け、時代の暗雲を突き破って空へと飛んだ。その姿に対して、僕は上映後に口からぽつりと出た「美しい」以外に「感想」を持たない。


 恋愛・結婚・家庭・男女・働き方といった観点以外での、映画に対する「社会的」な反応は他にも色々あった。「上流階級のインテリのエゴだ」とか「結核の妻の横でタバコを吸うなんてけしからん」とか、果ては「戦争賛美だ」なんて全くズレた声もあった。
 
 事実、この映画の中にはそうした反応を促すかのような要素がふんだんに散りばめられている。ぎゅうぎゅう詰めの三等客席、線路沿いを歩き、橋の下で休みながら仕事を求めて歩く人びと、銀行での取り付け騒ぎ、二郎から施されたシベリアを拒否する貧しい姉妹、関東大震災と第二次世界大戦、結核とタバコ、仕事に邁進する夫と難病の妻…当時の貧富の差や、男女・夫婦関係の対比は、劇中、枚挙に暇がない。宮崎監督は、それらに対するあらゆる反応を見越して意図的に配置したのだろう。そして、そうしたいかなる「社会的」な重力も振り切るだけの跳躍力を二郎と菜穂子の二人に与えた。


 出自や所属や立場や働き方でもって、他人を批判することはたやすい。あるいは、現代の「フェミニズム」からの男尊女卑社会の批判とか、当時の帝国主義・国家主義に対する反省とか、なんらかの「イズム」でもって大上段に語ることも、たやすい。しかし、小さな個人の生を全体として見た時、そのような「社会的」な賛否は果たしてそんなに簡単だろうか。
   
 二郎や菜穂子に限らず、僕たちは生まれてくる時代と家庭を選べない。「自己決定」や「自己責任」といった言葉は響きが良いが、個人の力で人生を変えられる範囲はおそらくとても小さなもので、多くの運命は、生まれた時代環境と、周りの人たちとの出会いや関係性の複雑な掛け算によって決定づけられているように思う。一人ひとりができることはその限界目一杯を振り切るように抗い抜くことだけだ。
  
 日本がまだ貧乏だった頃で、しかし戦争があったからこそ飛行機作りを含めた軍需産業に予算が回ってきあったこと。菜穂子を見舞いに来てすぐ職場に戻ろうとする二郎に対して、菜穂子の父も「男は仕事をしてこそだ」と言って送り出すような社会通念であったこと。結核がまだ治らない時代であったこと。二郎が大学に行けるだけのお金と教養のある身分の家に生まれたこと、菜穂子も同じように当時としては上流階級のお嬢さんであったこと。そして二郎が近眼であったこと。それらは全て偶然のめぐり合わせに過ぎない。社会的には、「幸運」で「恵まれた」出自だっただろう。その生活環境はその他大勢の「不幸」で「恵まれない」人びとを下敷きにして成り立っていると言うこともできるかもしれない。それならば飛行機作りも「上流階級のインテリのエゴ」なのかもしれない。
 
 でも、だからといって、二郎と菜穂子に、あれ以外の生き方を選ぶことができただろうか。
 
 きっと、他には無かったのだろう。飛行機という「呪われた夢」に創造的人生の10年を捧げ切ること。二郎にはその生き方しかなかった。
  
 事実、職場へ向かう道中に銀行での取り付け騒ぎに遭遇したり、小さな兄弟にシベリアを差し出して拒否されたことを本庄に「偽善だ」と一蹴された後も、二郎がそうした社会的・経済的な格差や悲劇に対して思い悩む描写は全く無い。ましてや、そのことによって飛行機設計に対する情熱が削がれることもなかった
  
 同じく戦争の帰趨に対しても二郎と本庄の態度は極めて淡々としていて、「破裂だな」の一言で終わる。二郎と本庄にとっては戦争の中で「美しい飛行機を作る」ことだけが重要だった。


 同様にして菜穂子にも、あれ以外の生き方(あるいは死に方)しか無かったのだろう。当時としては治る見込みが少なかった結核を治すために、孤独な高原病院に移ったことも、あるいはそこを飛び出して二郎のもとに駆けて行ったことも、どちらも運命的に出逢った二郎と「共に生きる」ための彼女の闘いだった。

 
 二郎と菜穂子、それぞれの行動は、決して「家庭や妻を顧みない夫と、献身的な妻」といった図式に回収されない。お互いの存在を想い、愛しつつ、自分の役割を全うした、「ふたり」の人生だった。
 
 妹の加代に「菜穂子さんがかわいそうだわ!」と叱責された後、わずかに唇を歪めながらも、「加代、僕たちは今一瞬一瞬をとても大切に生きているんだ」と、加代を諭すように、あるいは自分に言い聞かせるように語ったことがその象徴のように思う。

 
 庵野秀明の声優起用が話題になっていた。彼の演じる二郎は始終淡々とした話し方だったが、声を震わせ、感情の昂ぶりを見せた場面がほんの数カ所ある。奈緒子が高原病院を飛び出して二郎と駅で再会した時の「帰らないで」と、その後黒川の家で結婚の儀を上げたときの、菜穂子に対する「綺麗だよ」、そして最後に、菜穂子の幻影が二郎に「生きて」と伝えたときの「ありがとう」だ。
 
 二郎と菜穂子、ふたりの生の輝きは、この「帰らないで」「綺麗だよ」から「ありがとう」の間、ふたりが一緒に過ごしたほんのわずかな時間に凝縮されている。

 それは同時に、零戦がこの世に生を受けるまでの時間でもあり、菜穂子がこの世を去るまでに残された時間でもあった。
 
 Le vent se lève, il faut tenter de vivre
  
 風が立つなか、ふたりの夢を乗せて空を駆けていく零は、たしかに美しかった。

岡山・美作、じいちゃんの田んぼ、カエルの音

母方の実家は岡山の美作にあって、この土日久しぶりに帰っていた。じいちゃんとばあちゃんは農家である。僕は生まれも育ちも父の地元である神戸だが、このじいちゃんばあちゃんのお米と野菜を食べて育ち、小さい頃の夏休みなどは、年のほとんど違わないいとこ兄弟と一緒に野山を駆け上がったりNintendo64をして遊んだ。

じいちゃんとばあちゃんは農家「である」と言ったけど、半分ぐらいは農家「だった」という表現も当てはまるかもしれない。ばあちゃんはまだ元気に畑をいじっているが、じいちゃんの方は、父方の祖父母とは比較にならないほどここ数年で衰弱してしまい、もう田んぼを耕せる身体ではない。そういうわけで、田んぼの方は親戚のおじさんが引き継いで管理してくれるようになった。じいちゃんが弱ったのは、心筋梗塞や肺炎などが色々と重なってのもので、今年僕がNYにいる間も、かなり危ない状態に一度陥った。母は、退院後に事後報告でメールをくれたが、親族一同、いよいよかと思うほどであったそうだ。今回帰ってきて僕自身がじいちゃんと対面した限りにおいては、1年前の印象とそこまで変わらなかったけど、それは別に元気ハツラツという意味ではなく、弱った状態でしかしどうにかこうにか命が続いてくれているというだけの話だ。毎食後に4,5錠ほどの薬を飲んでいる。よく痰がからむ。

じいちゃんばあちゃんの土地も含めて、家の周り一帯の田んぼでは田植えももう終わっていた。畦を散歩しながら、時折しゃがみこんで水の張られた田んぼを覗き込むと、大小様々な虫やカエルたちと出会う。帰ってくる直前に読んでいた本、宇根豊『農は過去と未来をつなぐ』によると、日本の田んぼには5,600種あまりの生き物がいるそうな。

夜、縁側に横になっていると、カエルと虫たちの鳴き声が絶え間なく聞こえてくる。昼間とは比べ物にならない物量で、縁側の窓ガラスを一枚隔てた外の世界は、文字通り彼らの音で隙間なく満たされ埋められている。窓を開けて外へ出れば、きっと僕もその中に溶けることができたのだろうけど、帰国直後の東京と関西間の頻繁な移動による疲れと、NYとの温度差に驚き夜を半袖で過ごしたために、ここ数日少し風邪をひいてしまったものだから、立ち上がって駆け出すほどの元気も持たず、くしゃみをしながら座椅子でうたた寝をした。

さっきまで僕もいた台所では賑やかな話し声が聞こえる。食事の後もそこに残って飲んでいるのは、母と、いとこ兄弟の両親、つまり母の兄弟であり僕からしたらおじさん・おばさんと、それからその、じいちゃんの田を引き継いで耕してくれている親戚のおじさんと、そのおじさんの姪っ子夫婦。ばあちゃんは居間でテレビを見ている。じいちゃんはその隣の寝室で早々に眠りについた。僕がそこを抜けだして縁側に来たのは、まぁ里帰りの常で、NYで何をしている、将来どうする、仕事は結婚は…となかなか決まり悪く恥ずかしく答えにくい質問が飛んでき出したからで、要は緊急避難である。

ほどなくして、「風呂が沸いたからはよへぇれ」とばあちゃんが起こしにきた。続いて母も同じことを言う。もう少しじっとしていたかったけど、一度言い出すと僕が動き出すまで気をもんで何度も言ってくる二人だから、重い腰を上げて風呂に移動した。風呂は田んぼや畑がある側とは反対側だから、縁側ほどではないけれど、湯船のなかからもやはりカエルの声が聞こえてきて、そこでまたゆっくりする。布団に入って本を読みながらそのまま眠りにつく。

翌日日曜日は9時過ぎまでゆっくり寝て、午前中に母とじいちゃんばあちゃんと一緒に墓参りにゆき、山の中腹にあるその墓の草むしりをして線香をあげ、「ばあさんがいんでしもたらここに入れてくれな」などとばあちゃんに言われ、昼はそのばあちゃんがいつも揚げてくれる大好物のコロッケを頬張り、それから車で神戸へと発った。

問題

キャンパス近くのカフェで槇さんと久しぶりに会った。槇さんは不思議な人だ。年齢は三十代半ばぐらいに見えるけど、実際のところはよくわからない。彼といつどこでどうやって知り合ったかも、よく覚えていない。いつの間にか、年に数回会って話すようになった。

 「久しぶりだね。最近どうだい」
 「充実しています。だんだん慣れてもきたし、自分の関心の方向性ぐらいは、見えてきました」
 「そりゃ何よりだ」
 「でも…友人連中が目標に向かってひた走っている様子を見ると、やっぱり焦ったり嫉妬したりします」
 「君だって、毎日のんびりしてるわけじゃあるまい」
 「それはそうですが、彼らに比べて自分は、『自立』の二文字からずいぶん遠い位置にとどまっているように思うのです」
 「それは、経済的にってことかい」
 「それも大きいですが…まだ、自分の役割が見えません」
 「役割」
 「役割が見えないから、政治や社会の課題に対して目標設定が出来ないのです。それで相変わらず、身近な街や人のうごめきばかり気になっています」
 「それに、何か問題でも?」

 そう返されて、僕は黙ってしまった。目線を下に落として、コーヒーカップに手をやる。僕が黙っていても、彼は特に気にした様子もなく、窓の外を眺めている。そう…これは「問題」ではない。それはわかっている。

 「自分が他人の悩みを聞く側になると、調子よく『焦って他人と比べることないよ』なんて言う癖に、自分のことになるとすぐ他人と比べてしまう。誰かの真摯な相談を、そういう自分の不安を覆い隠す道具のように使っているように思える時もあります。下劣です」
 「今日はまたずいぶんと自分を卑下するね」
 「でも、『自分は下劣だ』と卑下することで赦された気になって、そこから進もうとしないのはもっと下劣です」
 「自覚できているなら、やることはひとつだろう」
 「さっさと社会に出て働けば、もう少しまともな根性になりますかね」
 槇さんは答えなかった。浅はかなことを言ったな、と最後の一言を反省した。
 
 「そろそろ行こうか」
 槇さんはそう言って席を立った。カップにわずかばかり残っていたコーヒーを口に入れて、僕も後に続く。気づけばもう六時前、外はすっかり暗くなっていた。 
 「君、素直でいい奴だが、少し危なっかしい」
 駅までの帰り道、前を向いたままで槇さんはそう呟いた。
 「生煮えの状態でなんでも素直にさらけ出すもんじゃないよ。色んな連中がいるからね。あらゆるものから、うまく距離を取るんだ」
 「槇さんとも、ですか」
 「僕に対してもそうだし、自分自身に対しても。自己分析はほどほどにしておくことだ。今日みたいなのは特にね。僕らは玉ねぎの芯を探すために生きているわけじゃない」
 改札間際で彼はそう言って、駅に入っていった。
 
 「方向性」と、自分で最初に言った。道が見えているのなら、ゴールがあろうとなかろうと、ここから歩き出すことになんらの支障もない。だからやっぱり、これは「問題」でもなんでもない。確かに生煮えだったな、とまた反省した。