母方の実家は岡山の美作にあって、この土日久しぶりに帰っていた。じいちゃんとばあちゃんは農家である。僕は生まれも育ちも父の地元である神戸だが、このじいちゃんばあちゃんのお米と野菜を食べて育ち、小さい頃の夏休みなどは、年のほとんど違わないいとこ兄弟と一緒に野山を駆け上がったりNintendo64をして遊んだ。
じいちゃんとばあちゃんは農家「である」と言ったけど、半分ぐらいは農家「だった」という表現も当てはまるかもしれない。ばあちゃんはまだ元気に畑をいじっているが、じいちゃんの方は、父方の祖父母とは比較にならないほどここ数年で衰弱してしまい、もう田んぼを耕せる身体ではない。そういうわけで、田んぼの方は親戚のおじさんが引き継いで管理してくれるようになった。じいちゃんが弱ったのは、心筋梗塞や肺炎などが色々と重なってのもので、今年僕がNYにいる間も、かなり危ない状態に一度陥った。母は、退院後に事後報告でメールをくれたが、親族一同、いよいよかと思うほどであったそうだ。今回帰ってきて僕自身がじいちゃんと対面した限りにおいては、1年前の印象とそこまで変わらなかったけど、それは別に元気ハツラツという意味ではなく、弱った状態でしかしどうにかこうにか命が続いてくれているというだけの話だ。毎食後に4,5錠ほどの薬を飲んでいる。よく痰がからむ。
じいちゃんばあちゃんの土地も含めて、家の周り一帯の田んぼでは田植えももう終わっていた。畦を散歩しながら、時折しゃがみこんで水の張られた田んぼを覗き込むと、大小様々な虫やカエルたちと出会う。帰ってくる直前に読んでいた本、宇根豊『農は過去と未来をつなぐ』によると、日本の田んぼには5,600種あまりの生き物がいるそうな。
夜、縁側に横になっていると、カエルと虫たちの鳴き声が絶え間なく聞こえてくる。昼間とは比べ物にならない物量で、縁側の窓ガラスを一枚隔てた外の世界は、文字通り彼らの音で隙間なく満たされ埋められている。窓を開けて外へ出れば、きっと僕もその中に溶けることができたのだろうけど、帰国直後の東京と関西間の頻繁な移動による疲れと、NYとの温度差に驚き夜を半袖で過ごしたために、ここ数日少し風邪をひいてしまったものだから、立ち上がって駆け出すほどの元気も持たず、くしゃみをしながら座椅子でうたた寝をした。
さっきまで僕もいた台所では賑やかな話し声が聞こえる。食事の後もそこに残って飲んでいるのは、母と、いとこ兄弟の両親、つまり母の兄弟であり僕からしたらおじさん・おばさんと、それからその、じいちゃんの田を引き継いで耕してくれている親戚のおじさんと、そのおじさんの姪っ子夫婦。ばあちゃんは居間でテレビを見ている。じいちゃんはその隣の寝室で早々に眠りについた。僕がそこを抜けだして縁側に来たのは、まぁ里帰りの常で、NYで何をしている、将来どうする、仕事は結婚は…となかなか決まり悪く恥ずかしく答えにくい質問が飛んでき出したからで、要は緊急避難である。
ほどなくして、「風呂が沸いたからはよへぇれ」とばあちゃんが起こしにきた。続いて母も同じことを言う。もう少しじっとしていたかったけど、一度言い出すと僕が動き出すまで気をもんで何度も言ってくる二人だから、重い腰を上げて風呂に移動した。風呂は田んぼや畑がある側とは反対側だから、縁側ほどではないけれど、湯船のなかからもやはりカエルの声が聞こえてきて、そこでまたゆっくりする。布団に入って本を読みながらそのまま眠りにつく。
翌日日曜日は9時過ぎまでゆっくり寝て、午前中に母とじいちゃんばあちゃんと一緒に墓参りにゆき、山の中腹にあるその墓の草むしりをして線香をあげ、「ばあさんがいんでしもたらここに入れてくれな」などとばあちゃんに言われ、昼はそのばあちゃんがいつも揚げてくれる大好物のコロッケを頬張り、それから車で神戸へと発った。