Day 8 ムスメの寝息には勝てない

1月は営業日少なくてドッタンバッタンだけどまぁみんなの楽しみながらどうにか乗り切っていきましょう、まる。って感じのあれよ。

ライターなり編集者なり、コンテンツをつくる人たち、個々人は一生懸命作って出して、をしていても、それが全体として、どう位置づけられているのか、あるいは、色んなコンテンツがあるなかで、自分の制作に伴う諸スキルー企画、インタビュー、構成、執筆、編集etc.が職業人として、あるいは所属するメディアや事業のお仕事を遂行する上で、どの程度の水準にいるのか、一人でやってるとなかなか客観的に評価する機会や視点って持ちにくいので、目標設定と評価のサイクルをうまく回していけるようにしたい。人数もだいぶ増えてきたのでね。

夕方に通院。経過は順調ですねって感じで、先生とよもやま雑談をして帰る。

うーん、色々と個人作業溜まってるしムスメ寝かしつけたらちょっとがんばろうと思ってたんだけど、添い寝してる間に一緒に朝まですやすやすぴー。

今日の、まる。

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Day 5 後ろ100年、前100年

ムスメの顔を見せに、一家で神戸の実家。年末からはじまっての双方ご家族ご親族イベントはこれで一段落。そして長い連休ももうすぐ終わりである。ふう。

新幹線のお供はハイボールロング缶。こうやっておじさんの階段を着実に登っていく。

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二村ヒトシ、千葉雅也、柴田英里『欲望会議: 「超」ポリコレ宣言』を車内で読み終える。ジェンダー・フェミニズムの領域で語られてきたことや問題は、障害福祉の領域でも相似形で見られるところが多々あると感じる。時間をとって書き残したい。

新幹線を降りて、ランチを食べてから実家へ。

「わしは95歳やから、あんたの95倍じゃの」と、ひ孫にニコニコしながら話しかける祖父。昨年、父・母は還暦を迎えたが祖父母ときたらもうそんな年齢である。

子はかすがいというのは本当で、孫・ひ孫という時代の最先端をめがけて、双方のイエの父・母、祖父母、その他親類の糸がまたスーッと結び直される感覚がする。それと共に僕の時間のものさしも引き直される。

ムスメが今の自分の年齢になったとき、という30年後への想像力

ムスメが今の父母の年齢になったとき、という60年後への想像力

ムスメが今の祖父母の年齢になったとき、という90年、100年後への想像力

そういう未来に向けた社会や生活への想像と責任というのはもちろんなのだが、同時に反対側への意識が伸びていく感覚。

後ろの100年、つまり祖父母に関しては、二人とも年齢相応に認知症状は進んでいる。物理的距離もあり、まぁそれは都合のいい言い訳なのだが、僕自身は祖父母に対して結局大したことはできずに母が介護を担っている。

それでいいというわけではないが、自分にとってより現実のものとして訪れてくるのは、今から30年後、父と母がそれぐらいの年齢になったとき。親の介護というものをどう考えて、自分で、または社会資源を使ってどのようにやっていくのか。誰しも進んでいく老いというものに対して、本人の意思や願いというものをどう感じ取り受け取り尊重するか。

終まで我が家で過ごしたいと言えばそれで良いと思うし、どこかに移るとなれば、その行き先はどのように選ぶのか。銀木犀のような場所はいまの日本にどれだけあるだろうか。


今日の、まる。

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Day1 山小屋で

年越しは2年ぶりに長野の白馬村の山小屋にて。ツマの実家家族を含む、ツマの出身高校のOBOGたちが長年に渡って山小屋を運営しており、年末はそこに老若男女ちびっ子みんな集まってスキーをしたり宴会をしたり新年を祝ったりするのが恒例行事となっている(一昨年のことは以下の記事に)。

昨年末はムスメが生まれたので我が家はお休み。季節は巡り、ムスメは1歳の誕生日を迎え、大病もなくスクスクと育ったので今年は子連れでの参加。ツマは小屋番として早めに仕事を収めて一足先に長野入り、僕はその間27日からムスメと留守番をして、30日の昼に合流。

我ながら完璧だと思いながら荷物をまとめて向かったのだが、着いてみたら認識の齟齬があって3つ4つ指示されたものがカバンに入っておらず、ツマに2,3度呆れられたり怒られたりするなどした。

大晦日から元旦にかけてムスメの熱が急激に上がり、新年の朝に山の診療所で見てもらうことに。幸いにしてインフルエンザではなく、ただの風邪でしょうということで、今日は終日、ムスメと添い寝しては、起きたときに水分補給やら食事やらをさせるというのを繰り返しつつ、合間合間に本を読んだり文章を書くなどして過ごした。

みんなに混じって酒を飲みつつも、グイグイ話に入っていくわけでもなく、角っこの席でゆらゆらと過ごしながら、時たま席を外れてムスメと添い寝したり、ちょくちょくスマホやPCを開いてこういう書き物だの読み物だのしたり、寝転がって本を読んだり、ほどよく混ぜてもらいつつも、ほどよく好き勝手させてもらえる空間で、気楽にのんびりと過ごした。

トレンドとスタイルと世代と時代とつまりそういった先行者利益が大きい領域で日々たくさんのコンテンツと言説が生まれては流れていくけれど、そうしたものは横目で見て認識しつつも、仮にそういう小波さざ波がなくたって自分は今日も続けるだろうという営為を、見失わずに続けていかなきゃならない。




今年から毎日手帳に「まる」を描くことにした。

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やはり今年は、昨年の体調不良など色々と思うところあり、だいぶ意識的に暮らし方働き方を変えていかねばなという思いは強く、山小屋でのんびりしつつも、来し方行く末のことを考えるなどした。