ムスメの顔を見せに、一家で神戸の実家。年末からはじまっての双方ご家族ご親族イベントはこれで一段落。そして長い連休ももうすぐ終わりである。ふう。
新幹線のお供はハイボールロング缶。こうやっておじさんの階段を着実に登っていく。
二村ヒトシ、千葉雅也、柴田英里『欲望会議: 「超」ポリコレ宣言』を車内で読み終える。ジェンダー・フェミニズムの領域で語られてきたことや問題は、障害福祉の領域でも相似形で見られるところが多々あると感じる。時間をとって書き残したい。
新幹線を降りて、ランチを食べてから実家へ。
「わしは95歳やから、あんたの95倍じゃの」と、ひ孫にニコニコしながら話しかける祖父。昨年、父・母は還暦を迎えたが祖父母ときたらもうそんな年齢である。
子はかすがいというのは本当で、孫・ひ孫という時代の最先端をめがけて、双方のイエの父・母、祖父母、その他親類の糸がまたスーッと結び直される感覚がする。それと共に僕の時間のものさしも引き直される。
ムスメが今の自分の年齢になったとき、という30年後への想像力
ムスメが今の父母の年齢になったとき、という60年後への想像力
ムスメが今の祖父母の年齢になったとき、という90年、100年後への想像力
そういう未来に向けた社会や生活への想像と責任というのはもちろんなのだが、同時に反対側への意識が伸びていく感覚。
後ろの100年、つまり祖父母に関しては、二人とも年齢相応に認知症状は進んでいる。物理的距離もあり、まぁそれは都合のいい言い訳なのだが、僕自身は祖父母に対して結局大したことはできずに母が介護を担っている。
それでいいというわけではないが、自分にとってより現実のものとして訪れてくるのは、今から30年後、父と母がそれぐらいの年齢になったとき。親の介護というものをどう考えて、自分で、または社会資源を使ってどのようにやっていくのか。誰しも進んでいく老いというものに対して、本人の意思や願いというものをどう感じ取り受け取り尊重するか。
終まで我が家で過ごしたいと言えばそれで良いと思うし、どこかに移るとなれば、その行き先はどのように選ぶのか。銀木犀のような場所はいまの日本にどれだけあるだろうか。
今日の、まる。