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あたらしいくらし

December 26, 2017 Yuhei Suzuki
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授乳中のツマとムスメに別れを告げつつ会社に向かう。

高尾から中目黒はそれなりの距離があるのでまだ日が昇る前からツマの実家をお暇する。朝は、寒い。

6時高尾駅発の中央特快は、それでも座席が8割ぐらい埋まるほどには人がすでにいる。きっとこの人たちもこれから働きに出るのだろう。あるいは何か別の。

この時間に高尾の電車に乗ること自体は初めてではなく、ツマの産休中などもちょくちょく泊めてもらって会社に行く朝があった。

違いといえば今朝からはその家に新しい住人が現れたことだろう。言わずもがなムスメである。

昨日がツマとムスメの退院日で、ツマの実家に2人を迎え入れての初日だった。11時頃に産院を出て、それからツマの実家に着いて、寝床やら道具やらなんやらを整えたり片付けたり、ツマが乳をやったりして、お昼ご飯を挟んで寝起きに沐浴デビューしたりオムツ替えデビューしたりして、合間に来月のシフト登録をしたり原稿の最終チェックをしたり電話をしたりして、夕方にはミルトンやらなんやら足りないものを買いに行って、帰ってきたら、それまではずーっと眠り姫だったムスメが1時間ぐらいグズってるというのであやすツマの横で様子を見つつ、晩ごはん時が来たので下にいってミルクをつくってあげてみたらすごい勢いで飲んで、そのあとちょっとまどろんで、横に寝かせたらまたグズったので抱っこして、その時僕が抱っこしたら泣き出すのにツマやばぁば(ベテラン保健師)が抱っこしたら一瞬で泣き止むことにショックを受けたり、そのあと肘で頭を支えつつ手のひらでお尻を持つのだというコツを教えてもらったら見事に落ち着いてくれてレベルアップのファンファーレが鳴ったりして、寝てる隙にミルトンデビューしたりシャワー浴びたりなんだりしてるともう23時で、それから「ごめんちょっとだけ仕事するわ」とツマ・ムスメは先に寝かせて作業をし、1時台にムスメは目を覚ましてツマは乳をやり、入れ替わりで私はすまんお先にと眠りにつき、3時台5時台とまたムスメが目覚めてツマが乳をやりつつ、私は寝ぼけ眼をこすりながら(ほんとはもう2本早いバスに乗るつもりだったのを逃しつつ)、産院にもらった育児日記に授乳記録をつけて「じゃあまた明日」と言って出発し、寒空の下でバスを待って高尾駅に行き6時発の中央特快に乗っていまここまで書いたところで立川です。

あ、これはすごい。全く生活リズムが変わるのだなと自覚。

私はひとまず現時点で育休を取っていないので(検討はしている)ムスメと実際に一緒に過ごす時間はツマの1/5〜1/4(それ以下?)ぐらいになるのだろうけど、3時間置きぐらいに授乳が必要で、それは昼も夜も関係ないという赤子の生活リズムに私たち大人は合わせねばならぬ。ムスメの健やかな発達のためにはそれは有無を言わせぬことである。

まずもって母親すげーな大変だなというのを身をもって知らされた初日である(これ毎日続くんだぜ?)。とにかく自分が家にいる間とか、外出時の買い物とか、代替可能なことは出来うる限り、と思うけど、それでも限度があるわけで、ツマのことを思うといたたまれない(どこかでリフレッシュ休暇取れるように私も育休取ろう、春か夏か…いやでもそれまでの期間すげーな大変だなぁいや言ってもしゃあないんだけどさ…的心境)

あとあれ、在宅遠隔でもそこそこ仕事いけるやろと思ってたら甘かった。全然時間ない。1日家でツマとムスメと一緒に過ごす日は、正味作業時間とれて数時間だろう。

まぁなので基本的にはオフィスに出勤して、その間はツマに任せてオットは割り切って働く、というのを我が家は意思決定したわけだけど、それにしたって、距離も時間も今までより制約がかかるので、そんなに夜遅くまで働きっぱなしの毎日というわけにはいかない。

本当に必要なこととそうでないことの見極め、生産性の効率化に向けた工夫を今まで以上にやってかないと回らないねこれはと自覚したわけ。

これは自分自身のことだけじゃなくてチーム全体のことも含めて考えるべきで。僕の仕事を誰かにお願いしてみたいな足し算引き算では総量変わらないので誰かに迷惑かかっちゃうからね。ましてや自分が管理職なわけだから自分が思う以上に意識しないと周りが気を遣って仕事を引き受けてくれる(ほんとはすでに忙しいのに)みたいな歪みが生まれちゃうから…

その辺も含めて工夫のしどころですよね。いやはや。

あたらしいくらしが始まりました。

今までだってそうなんだけど、小さな生命を迎え入れたことで、それによる副次的影響も含めて、今まで以上に周りの人たちに助けてもらって生きている、自分ひとりの人生ではないということの自覚をね。はい。

がんばります。

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高尾から中目黒に移動しながら書いたやーつ

November 30, 2017 Yuhei Suzuki
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朝起きて定点観測的に写真を撮って会社行くまでの東急線に揉まれながらスマホでパパっと思いついたこと書くというこの試みは、慌ただしさにかまけてすっかり自分で書く機会が減った自分のリハビリというかいやそんな本格的ではないけどまぁ習慣付くといいなという期待で初めてみたが、どっこい11月は輪をかけて忙しくって、どうにも毎日とはいかない。

産休に入ったツマの実家、高尾に週2で顔を出す生活も1ヶ月が経ちまして、昨晩も仕事終わってから高尾に行って晩御飯をごちそうになって泊めていただくという、ツマにもご家族にも感謝感謝の夜だったのですが、今日は3件外回りが入っておりましてその資料ができてないものだから早朝始発バスに乗り込んでそしていま中央線でこれを現実逃避気味にカタカタ書いております。なので今日の写真はいつもの朝のベランダじゃなくて夜明け前の高尾のバス停なのだ。あ、新宿着いた。

山手線に乗り込みまして、スマホに持ち替えて続きを書いとるわけですが、この時間で山手線はもう、満員とは言いませんが十二分な人が乗り込んでおり、上京して10年経ちますが、やっぱり東京すごい、人類がいっぱいいるね。

昨日はお仕事で企画ご一緒する方と打ち合わせしてたのですが、僕のこのnoteとかTwitterとか記事とか読まれていると知り、うへぇこんなおっぱいとか眠いとかしか言ってないアカウント(しかも所属明記してる)ですみませんって感じですが、昼間のお仕事では最近もっぱら管理・企画・営業が中心の人なもので「お忙しいなかさらっと書いてるブログでもあれだけ書けるのは、やっぱり書く人なんだなって思いましたよ」と言っていただいたりなんかして、へっへっへ。嬉し恥ずかし、もっとちゃんと、書く時間取らんとなぁとか思ったりなんだり。

もう11月がおしまいとか驚愕なんだけど色々がんばる、今日も。

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ちょろちょろぱっぱ

November 20, 2017 Yuhei Suzuki

自分は何が、どんな人が好きかというのは、ちょこちょこ小出しに発信していくと、「こんなのどう?」という機会をいただきやすくなるのでやっておくといい。

だけどこういうのは、あまりに大声で全方位共感を求めて叫ぶ必要はなくって、というかそういうテンションでやると「そんな都合のいい話はないよ」とか善意なのかしらんけどでも誰も得しないみたいなよくわからないアドバイスが飛んできたりして自分もぐぬぅってなると思うので、野望の表出はあくまで控えめに、限定された信頼できる相手に留めておいた方がいい。

ウェブで発信する場合もあまりお返事を気にせず、しかしひそかな確信だけは持って、虚空にひとりごとを放流するのが良い。と思うな。

関係ないけど、はじめちょろちょろなかぱっぱっていうフレーズのリズムと響きが好き。

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世代の宿題

November 8, 2017 Yuhei Suzuki
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最近は「あ、自分いなくても回るなこれ」と思う場面が増えてきて、それはいいことだと思う。

それはそれでやることはあるので、はたらけどひまにならざりって状況は変わらないのだけど、手足や頭の使いどころは変わってきたし、少し前より遠くを見て考える余裕が生まれてきたのはありがたい。

その分、自分の今後の動きというか、ミッションというと大げさに聞こえるけど、やはりわたくし社会の中でみなさんと共に生きてるわけですから、自分の時間と生命はなるべくダブりのないようにというか、いい感じにすき間を埋められるところはどこかなって考えてます。

「たぶん、"世代の宿題"っていうのがあってさ」

以前執筆を担当した対談で鈴木菜央さんが言っていたこの言葉はとても印象に残っていて、最近、頭の片隅に置いている。
(楽しいけど食えない、食えるけど楽しくない。その向こう側に行くには? グリーンズ鈴木菜央・小野裕之が語る「ソーシャルな会社のつくりかた」)

なんだって僕たちは先達の遺産の上に乗っかって表層を生きてるわけですが、部分部分を見ると先達が成し得なかったことは当然いつもあって、それが現代や次代を生きる人たちの問いであり宿題になる。

なにかの社会課題ひとつ取っても、科学の発展や当事者運動や色々あって今に至るわけだけど、最近はナチュラルに自分が知って学んで、組織もちょっとずつ足腰が立ってきて…って足し算中心のフェーズじゃなくて、歴史の流れを踏まえた自分たちの役割の定義や実践というのを、気持ちや意識の面だけでなく方法論としてもちゃんと組み入れていく必要があるなと感じる。

もっと身近で短期的な話で言うと、"世代の宿題"というのは事業の2-3年とか会社の5-10年とかのスパンでも同じことで、去年出来てたことを繰り返しているようならそこに自分の宿題はないなということを認識した方が良いのだと思う。ちゃっちゃと次世代に譲り渡した方がいいし、仮に彼らが同じようなことに取り組むにしても、自分が以前1年かかってやっと出来たことを半年未満で展開するにはどうすればいいか?を問うて仕掛けていかないとあんまり自分の存在価値はないよなぁと。

まぁ僕自身が飽きっぽい性格なのもあって、「あ、これ出来るな、もうやったな」と思うと興味が薄れがちなので(それはそれで気をつけなきゃいけない場面もあるけれど)、自分が楽しく働き続けるためにも、いつも次の宿題、まだ答えが見えない問いというのを抱えてないといけないのだと思う。

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時には顔を上げて

November 1, 2017 Yuhei Suzuki

建物を建てたことはないけど、基礎工事が大事だというのはサービスづくりやメディアづくりも同じで、基礎を怠ると後でガタガタになる。

とはいえ基礎工事は地道なもので、長い工程のうち一個一個のアウトプットに対してすぐに劇的なフィードバックが返ってくるわけではなく、一定の溜めの期間を経てだんだんと成果が跳ね返ってくる類のものだから、長期にわたってモチベーションを保ち続けるにはちょっとした工夫が必要だ。

それは、表に見えにくいアウトプットであってもしっかり価値を認識して賞賛する文化であったり、適切な期間で区切ってマイルストーンを置いたり、全体のアウトカムだけでなく、作業に従事する個々人の行動やスキルレベルでの成長に基づいたフィードバックサイクルを作ったり色々ある。

だけどやはり重要なのは基礎を組み固めた先に自分たちはどれほど高いところ、遠いところに行けるのかというビジョンを描くことであるし、また共有することだろう。

面白いのは、基礎工事をやっているなかでも個々人の習熟に応じて見える景色は変わってくるということだ。最初はおぼろげで、まだ霧がかかっているような風景だったのが、色々やっていくうちにだんだんくっきり見えてくる。その繰り返しでビジョンが鮮明になったり、あるいは微調整の後アップデートされたりする。

だから基礎工事の過程でも、ちょくちょく目線を上げて遠くを見るようにした方がいいし、なるべく定期的に個々人が見ている風景を持ち寄り語らう場を持った方がいいのだ。きっと。

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レストランの「無限パンシステム」の最適解を僕はまだ知らない

October 31, 2017 Yuhei Suzuki
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「無限パンシステム」、あれ難問だと思いませんか。

いやあれ、レストランとか行くとバスケットに入れられたパンが無制限に補充されてくるやつ。あれの最適解がわからない。

「いや、食べたくなかったら断ればいいじゃんw」とツマは言うのだが、ことはそう簡単ではないのだよ奥さん。

「パンのおかわりいかがですか?」と紳士的な笑顔で聞いてくるスタッフさんに対して、「あ、大丈夫でーす。ありがとうございます」とハキハキ即答するというのは、私みたいな人見知りにとって、けっこうな高等スキルなのである。

ちょっとタイミングがずれようものなら、相手はもうあのカチカチバサミでパンを挟み、バスケットから出すモーションになってるものだから、「あ、はい、ありがとうございます、じゃあ、同じの2つ…」みたいな感じでなし崩し的に受け入れるしかないのだ。総受け。

なので、いかにホールスタッフに「あ、あの人パン足りてへんな」と思われることなく、自然なペースで、パンを食べつつ残しつつしながらコース料理をたいらげるかという戦いになる。

ところがこれも、なかなかどうして難しい。私の胃袋は鈍感野郎なので、ちょうどいいペースとか満腹感の見極めが苦手なのだ。

なおかつ出てきたものは衝動的にパクパク食べてしまう節操無しなものだから、まず間違いなく小皿パンの第一陣(小皿に最初に盛られる2つぐらい)は、開始早々、最初の料理が終わるぐらいに戦場から姿を消すのである。

で、次は第二陣の受け入れキャパ見極めになるわけだが、ここで「一つでいいです」と言うか「あ、じゃあ二つください」と言うかでその後の試合運びが変わってくるのだ。

第三陣が来たら間違いなく我が城はキャパオーバーなので、スタッフにいかに「補充したろ」と思われないかが勝負なわけだが、この第二陣パンの消費スピードが最大の難問。

だってさ、せっかくもらったんならそのパンも美味しく食べたいじゃん。

でも第三陣の襲来を防ぐ必要があるから、すぐ食べ尽くすわけにもいかないじゃん。

とはいえ、あんまりチマチマ食べてるとパンが冷めて固くなって美味しくなくなるじゃん。

だからコース料理本体の配膳スピードを見極めながら、美味しさキープできて第三陣と防げる絶妙なペースでパンをもぐもぐする必要があるわけ。

これね、むずい。なーかなか勝てない。いっつもどっちか中途半端な感じになっちゃう。

誰かこの悩み共感してくれる人いない?いないか…

P.S.
伏兵に注意。
油断してるとあいつら、「新しい味のパン」を出してくるぞ!目にしたら気になって頼んじゃうから気をつけろ!

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アウフヘーベンよりシャウエッセン

October 30, 2017 Yuhei Suzuki
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そういえば今日は結婚記念日でして。いや正確に言うと「結婚式を挙げて一年経ったよの日」であって入籍の日はまた別だったりするものだから、どっちを記念日としたものか、いやいや二度祝えて嬉しいじゃないかというべきなのか、まぁそんな感じで、1年経ったようです。

少し太った気がするので最近は行き帰り一駅分歩いていたり、赤子を迎えるその日に向けてツマの身辺自立指導を受けていたりとそんな日々です。

変わったことと言えば…良くも悪くも、自分の楽しさや興味関心よりも義務感や責任感で動く比率の方が大きくなったなという感覚がある。

それは成長なのかはたまた停滞なのか。緑の人が言ってた、あうふへーべんなるものが必要なのかしらん。

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人生の主導権の話、あるいは「好き」を「仕事」にということについて

October 18, 2017 Yuhei Suzuki
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「好きを仕事にする」というのは、もうけっこう手垢にまみれた言葉になってしまったけれど、これを高次元で達成できている人というのは多くはないように思う。それはつまり、関係性のデザインなのだろう。

物事の好き・嫌いというのは、個々人の自由なのだから、「好き」を追求することが他人にとって価値を生むかどうかというのは別に必須条件ではない。別に好きな分野に対して上達や卓越の義務が課されることもない。寝転びながら漫画を読んでいたっていいわけだ。

一方「仕事」というのは他者に向かっての贈り物だから、自分ではなくて相手がどう思うかというのが第一に重要であって、極端に言えば、相手が価値を感じてお金を払ってくれる限りにおいては、自分がその仕事を大嫌いであったってなんの問題もないわけである。

そもそも逆のベクトルを持っているのだから、「好き」と「仕事」が重なるなんてことは当たり前でもなんでもない。

「好き」を「仕事」にできたと思ったら、気がつけば仕事としての要求値がどんどん上がっていき、自分の好きを大事にすることよりも相手の期待値に寄せていくための骨折り汗かきで日々が覆い尽くされる…なんてこともなくはない。

でも「仕事」を通して他者の目にさらされたり、共通言語で語れる人と出会えるというのも確かであって、それは個人の趣味や内的世界の中で「好き」に耽溺しているだけではなかなか開かれないポテンシャルなのだと思う。

あとは一度、「仕事」とか「世間」に思いっきり揉まれて振り回されることで、ほんとに自分の「好き」の中で譲れない大事な要素とそうでないものが見極められるようになることもあるから面白い。

まぁ、無理しすぎて潰れたら元も子もないんですが、緊張と弛緩、開放と内省、振り子を何度か振る中で、みんなそれぞれに、自分にとってちょうどいい振り幅を見つけていけると良いよね。

自分の「好き」に没頭できて、なおかつ他者との接点を持ち、経済性を持てるという環境のデザイン。

そのためには人生の主導権を誰かに渡さないことが重要で、引っ張られたり相手に寄せたりしながらも、最後の最後で自分が決める余地を守ること。

じゃないと「こっちだな」「こうだな」が見えてきた時に、自分の身体を動かせないから。

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ダッフルコート女子による「夏は終わった」宣告 あと弱さに開き直ることについて

October 17, 2017 Yuhei Suzuki
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いよいよもって「夏は終わったのだ」ということを認めざるを得ない感じの気候である。えーでもだって先週ちょっと暑い日があったし、お、これはまだ大丈夫かな?みたいな何に対しての大丈夫かわからないけどそんな感じで油断してたらいつの間にか道行く女の子はダッフルコートとか着ちゃうし(かわいい)自分はうっかりサンダルで出かけちゃって後悔するしでなんだったんだこないだの夏日は変な希望を持たせないでくれ今週なんか毎日雨だし寒いしこれはもう一縷の希望もなく夏は終わったのだ認めざるを得ない。

ここ数週間はなかなか苦しい時期が続いていて、今もまぁ忙しいには忙しいのだけど、先週末から今週にかけてちょっとずつ気持ちは上向いてきた。

昨日のイベントでは、弱さとか有限性こそ資源なのだという話をした。(もっと色々話したんだけどそれはまた別の機会に)

ひとつの物差しだけで見ると量的競争の相対評価になるのだけど、関係性や相互作用のなかでみると色んな強弱を持った人間同士が交わり合うことで結果足し算だけではつくれないダイナミズムを生み出せるのが面白い。

ここ最近のしんどいなーつらいなー弱ったなー期間はまぁそれは私は死んだ顔をしていたと思うんですけど、一方で、実はそうやってエネルギーが減衰していくことが次の活路になっていたんじゃないかなって今は都合よくそう解釈してます。

弱っていること、今自分はけっこう苦手なことをして踏ん張ってることを、開示するというか開き直るというか、まぁ回りも察してくれたのもあるし自分からけっこうSOSを出したりして、そしたらばまぁ皆さん助けてくれるわけですね。気付いたらチームもとっても頼もしい感じになってきて、ほんでよくよく考えたら僕の手元で抱えてるボールとかよっこいしょと背負ってる荷物とか、もっとフィットしてる人に手渡せそうだなーみたいな、いや僕が甘えてて皆さんにお世話になってるだけかもしんないですけど、まぁそんな感じでさ。

弱ったなーうーん弱ったなぁの極みのタイミングでGカレ飛ばした1on1メンタリングが今日あったわけですが、まぁ会うまでに8割方解決していたりしたんだけど、なんだかんだといつもエンパワーしてもらってますよ。

「悠平もそれぐらい悩むときあるんだね。けっこう自己解決するタイプだもんね」

「アーティストはだいたいアップダウンが激しいもんだけどお前は珍しいよね。そんなに周囲に合わせる必要ないよ、合わせたままでよくつくれるね」

とかとか。

踏ん張りが必要な時期なのは変わらずなのだけど、何に一番エネルギーと時間を注ぐかはより明確になったので、気持ちだいぶ楽になったかな、みたいな。

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働く妖怪人間

October 15, 2017 Yuhei Suzuki
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正直、けっこう苦手なことをしているなという自覚はある。

心身いろんなところの神経接続がずいぶんとぎこちない感覚があり、妖怪人間ベムじゃあないけど、「はやく人間になりたぁい」といっつも思いながら、どうにかこうにか日々を乗り切っている。

仕事が早そうに見えるのはごまかし効いてるだけで、私のパラメータ配分は言語処理能力だけに異様にポイントが振られたような感じなので、数的処理とか空間認知とかあるいは人の感情を読んでその場の流れに乗ったり作ったりみたいなものはかなりの苦手意識があり、そういうものはいつも脳内だったり手元のメモ帳だったりを駆使して、一度言語情報に落とすというステップを踏んで、つまり言語で補助線を引きながら理解して対応している、という回り道なのだ。うまくやれてるように見えてても相当疲労する。

しんどいことが多くてもなんだかんだと仕事が続けられているのにはたぶんいくつか理由があって。

1つめはそれがまさに「仕事だから」だ。仕事なんだから、自分の内的葛藤や逡巡や苦手意識なんかよりも、ユーザーが必要としている価値を生み出して届けることのほうが当然に重要なのであり、そのためなら苦手なことだってなんだってやるのだ。やっていくうちに苦手でもできることは多少は増えるし、自分たちのやっていることを必要としている人がいると信じられる限りは勇気だってエネルギーだって湧いてくるってものなのだ。たぶん僕は仕事じゃなかったら、仕事というものがなかったら、何事も続かないし、なおのこと人間になれない。

2つめに、仕事を「働く」という観点で、つまり仕事をする自分自身の側とか、自分と一緒に仕事をするチームの側から捉えたときに、自分のような凸凹が大きい人間でもどこかピースとしてはまるところがあるだろうと信じられるし、そう信じていられるうちは見つかるまでがんばろうと思えるのだ。1つめの話に続けて言えば、仕事というのは「成果」で判断されるものだから、成果を出すための手段は1つに固執しなくて良いわけである。もしたった一人だけで成果を出せ、なんて言われたら、得意も苦手もなく1から100まで血反吐を吐いてがんばる、みたいな選択肢しかないわけであるが、チームでやるならば、自分が苦手なことは自分より得意な人に任せ、その人が苦手なことはこれまた別の得意な人に任せ、という組み合わせでもってトータルの成果を出せればいいわけだから、それぞれが自分の得意に専念できる環境をつくる、というのが最適解になる。妖怪人間でも妖怪人間らしく輝ける場所があったりする。

ところがしかし現実はなかなか理想通りにはいかないわけで、常にあらゆるリソースがベストな組み合わせで揃っていることなんかあり得ないので、なるべくチームとしての最適解を目指しつつも、やはり段階的には、それぞれがちょっとずつ苦手な部分も引き受けて踏ん張って乗り切る、みたいなことは避けられない。

その「踏ん張り」の必要度合いというのは時期によってまちまちだけれど、最近はどうしても大きな踏ん張りが必要な時期であることを自覚していて、そういう時に何が支えになるかっていうと、結局は自分にとって大事な人たちの「信頼」に他ならないのだと思う。僕の場合は特に。

「今は成長痛だね」という言葉と、「お前はお前にしかできないことをやれ」という言葉の両方を僕にくれたのは前の上司なのだけど、その一見矛盾した言葉が意味を成す、両立し得るということを僕は知っているし、どういう思いでそれを投げかけてくれたかを僕は勝手に想像して自分の勇気としている。

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調整と意思決定は違うんだなぁ

October 13, 2017 Yuhei Suzuki
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一度に何もかも出来ないというのは当たり前のことで、やらないことを決めようというのもよく言われることではあるけれど、ちゃんと"やめる"というのは意外と難しい。

そりゃあなんでも一度に出来たら格好いいけど、中途半端に安請け合いするのが一番良くない。

こういうのは「調整」とかじゃなくて「意思決定」の問題であって、ズルズルじわじわ無理ない範囲で…というのはだいたいうまくいかない。入り口のところでの意思決定がいかに大事かというのを最近痛感する。

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回送電車

October 11, 2017 Yuhei Suzuki
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目の前で回送電車がミュイーギャンミュイーギャンと奇妙な音を立てて待機している

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と思ったら出発した

回送電車の運転手というのは、どんな気分なのだろうな。お客さんや荷物を乗せて運搬するという役割を担っているわけでもなく、しかし回送電車がある、というのは鉄道網の運営上の必要があってそうなのだろうから、次の稼働エリアまでの移動とか、あるいは車庫に入れるとか、回送電車にもなんらかの目的地があって運転手もそのための役割を担っているのだろう。

また当然、回送電車の運転手さんも一日中、一年中ずーーーっと回送電車の運転手さんなわけでもなかろうから、たぶんなんらかの法則に基づいて運転手さんたちのシフトに回送電車担当の回が割り当てられるんだろう。

「正解」はググったり鉄道会社に勤める友人に聞いたりすればわかるのだろうけどそれはまぁどっちでもいいんだ。

鉄道システム全体がうまーく回っていくためになんらかの理由で、回送電車が「ある」、というのが大事。

ないとたぶん回らないんだ。

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粘土をこねくり回している

October 6, 2017 Yuhei Suzuki

下半期始まって第1週。新しいメンバーが来て新鮮な気持ちと、9月で卒業したメンバーもいてちょっとさみしいねという気持ちと、どうあれ私たちの日常は進んでゆきます。

チームの目標や、コンテンツの作り方、個々人の役割など上半期と大きく変えていこういうところ。メンバーの入れ替わりも相まって、なかなか慌ただしいが、みんなの表情を見ていると、嬉しい。

ミッションを再定義して、それが運用フローまで落ちてくるまでのプロセスでは、そもそも今までの「枠」の延長では議論できないので、一人ひとりが仮説や試案を考えて持ち寄ってはディスカッションする、次の宿題をクリアにして解散してまた集合する、みたいな感じで何度か揉んでいく必要があって、必然コミュニケーションの頻度が上がる。そしてこういう時はそれぞれが率直にどんな問題意識や願いを持っているかが表出しやすかったり、個々人が暗黙知的に積み重ねてきた実はすごいじゃんそれ、的なノウハウの共有・棚卸しがなされたりするから面白い。

粘土をこねくり回している感じ。全くの無ではなく、漠としたイメージは持っているけど、完成設計図があるわけではない、触ってみんとわからんなというね。

あと、「そういうのは私が巻き取るんで悠平さんは悠平さんがやるべきことやってください」とか言ってもらったりして、ひゃーすんませんというのと、うわぁ頼もしいというのと、私も頑張りますはい、みたいな。へへへ。

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この時節の服装の難しさよ

October 5, 2017 Yuhei Suzuki
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学校ではありましたよね、衣替え。この日から夏服でーす、冬服でーすみたいな。一斉切り替え。

よくよく考えると夏服に変えた直後はちょっと寒い日もあるし、冬服に変えた後でもなんかあったかい日もあるし、季節や気温の変化はアナログであってデジタルでないのだから、一律変更というのはいささか"不自然"ではあるものの、僕のような季節感のない人間にはありがたいシステムだった。

気温の数字を見ても暑さ寒さのイメージが湧かないし、ましてや昨日や一昨日と比べてどうなんてこと言われても、昨日の気温なんざ覚えてられないし、もっと言えば天気予報をそもそも意識して見てないもんだから、その日の気温で調整しろというのはかなーり難易度が高い。

なのでこの季節はいつも服装に悩む。うっかり薄着しちゃって風邪を引きそうで危ない。

うん、でもなんか、最近ちょっと変化というか、もうアラサーで10代20代の体力ではなくなったからか、「寒い」環境の方への反応の閾値は下がってきたというか、「あ、これ寒いわ、風邪ひくわ、気をつけよ」みたいな思考が浮かぶようにはなってきたのよ。

はやく人間になりたーい妖怪人間、皮膚感覚レベルアップ、みたいな。

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さわる、参加する、関与する

October 4, 2017 Yuhei Suzuki
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先月の参加した「箱根山学校」の舞台、箱根山テラスの設計者である、長谷川浩己さんの新著『風景にさわる ランドスケープデザインの思考法』が家に届いた。

まだほんの前半しか読めていないのだが、箱根山学校の浩己さんのお話の中でもエッセンスはお聞きしていて、そこでの印象も含めてだが、「風景にさわる」というキーワード、もっと言えば「さわる」という態度、関わり方に非常にしっくり感を覚えていて、ここ最近、仕事をしていても頭の片隅に常に泳いでいる感じがする。

世界は他者で満ちていて、風景はすでにそこにある。ランドスケープ"デザイナー"の仕事は風景をゼロから"クリエイト"することではなくて、そこにある風景の構成要素、人や自然、その関係性や時間的蓄積と向き合いながら、あるいは自ら参加し、関与しながら、その文脈の中で新たな場を設えていく…そのような営みの上での態度を、「さわる」という動詞で表現されたのだと思う(まだしっかりと読んで咀嚼できていないので些か乱暴なサマリーだが)。

きっとこれは、メディアやコミュニティにおいても、会社や組織においても、同じことが言えるだろう。

いわゆる"運営者"の立場にある人(自分も含めて)が、メディアや事業を"立ち上げる"という動詞を使う。多大なエネルギーを要する取り組みなので、その側面も一定あるのは間違いないが、一方でやはり、風景はすでにそこに"ある"というか、社会や歴史の文脈、その中で僕たちが今後関わりたいと思う潜在読者となりうる人たちがどのように暮らしてきたかということを無視しては成り立ち得ない。

組織づくりにおいてもそうで、採用や育成といっても、やはりその人がそれまでどう生きてきたかの文脈を無視しては成り立たない。

一方で、「さわる」という動詞が面白いのは、他者に対する畏れを持ちながらも「わたし」がやはり関与する存在であることが織り込まれているからだと思う。

他者がすでに存在しているのと同様に、わたしもすでに存在している。そして影響し合っている。

「相手の主体性を引き出す」とか「黒子に徹する」とか"立ち上げる"という前のめりな動詞とは逆に、自分が引いて相手を立てる、みたいな言い回しがなされることもしばしば。

距離感の取り方という意味で、それがいつも間違っているとは言わないけれど、客観性とか非当事者性の皮を被って、自身がもたらす影響に対して鈍感になることも恐ろしいなと思う。

などと考えているうちに出勤したので続きはまた今度。

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