問いの話

「問いっていいですね」
何気なく発せられたこの言葉が、それを口にした人の表情や抑揚とともに、ずーっと頭のなかで反響している。
大事にしていたはずなのに、ここ最近すっぽり抜け落ちていたことを改めて自覚したからだ。
 
 
 
先日、兄貴分の友廣裕一さんのお誘いで、「森の案内人」三浦豊さんのお話を聞く機会があった。

三浦さんは、かれこれ10年以上、全国各地の森巡りを続けている人で、友廣さんいわく、ガイドでも研究者でもない「よくわかんない人」。その形容は僕も同感で、なんだか出来合いの肩書きが役不足かのような、不思議でやわらかで心地いい雰囲気を発する人だった。

自身で各地の森を尋ね、森の声を聞きながら見えてきたことを森の案内人として同行者にシェアするツアーをやっているのだが、三浦さんの語りは、その森の木々や草花の歴史の根っこまで時空を遡るような語りで、話を聞いていると500年前の人々の暮らしや森のありようがその場に蘇ってくるような印象を受けるそうだ(伝聞調なのはまだ僕が森歩きに参加できていないから)

三浦さんが東京に来るタイミングに合わせて、この不思議なお兄さんとみんなをつなげようと、友廣さんが三浦さんとの都内ミニツアーを企画、六本木のミッドタウンや墨田区の向島百花園で森歩き・庭歩きをしたそうだ。

僕は昼間のイベントには参加できなかったのだが、夜に高田馬場のカフェでお話を聞く集いをやるということで、仕事上がりに少し遅刻して参加。息を呑むような美しい森の写真とともに、三浦さんの来し方行く末を語っていただいた。

三浦さんは「ホーム」を持たないで全国各地の森を回っているらしい。いわく、一年の大半を過ごし案内するような「ホーム」となる場を持ってしまうと、自分の中での新鮮な視線や驚きが失われてしまうからだと(板について”劇団員のような”語りになってしまうと表現していた)。

「問いっていいですね」
お話の最中に三浦さんは繰り返しこの言葉を発していて、その時の屈託のない笑顔がとても印象的だった。

どれだけ森に通いつめても、それでもまだまだ自分は何も知らない。安易な「答え」を出して思考停止してしまうのではなく、ずーっと同じ「問い」を持ち続けながら森という対象に全身で向き合っていく。すると毎回新鮮な驚きと発見があるのだという。

そんな三浦さんの問いは、「居心地のいい場所は、どんな場所?」という問い。

「問いっていいですね」
本当にいい笑顔で幸せそうに言うもんだから、なんだかものすごく当てられてしまって心がじんわり震えたのだけど、それと同時に、問いを立てることをすっかり忘れてしまっていた自分に気付いてショックを受けた。

僕自身の「問い」はなんだっけ。
最近、自分の中で明確な問いを一つも立てていなかった。
いや、問いを立てる意識すらしていなかったという方が正しいだろうか。

何も考えずに生きているというわけではないけれど、合目的的に、しかも短期の目的に向かって走ったり捌いたりの日々で、一つの「問い」に定位して思考するということを根本的に怠ってきたように思う。

特段いまの仕事や環境の不満があるわけではない。むしろ、自分の関心や特性にこれほどまで重なる職場・仕事というのも珍しいだろう。でも、かえってそれが自分自身を鈍らせていたのかもしれない。

本来僕の中にあったであろう問い−人生の中心となるテーマと、「大きく外していない」ことが、その日常の中で働き行動していれば、「何をやっても概ねマイナスではなかろう」という甘えにつながる。

「走りながら考える」と言えば聴こえはいいが、行動することと思考することは本来真逆の行為なのだから、それは単なる自己欺瞞であろう。

あとね、管理職になっちゃったもんだから要注意ですよ、スタッフやライターさんにいっちょ前に”フィードバック”とかしちゃって、「この取材であなたはどういう問いを立てるんですか」とか言っちゃって、お前はどうなんだっていう。貯金で仕事やっちゃいけない。猛省せよ。
 
 
 
さて…僕の問いはなんだったっけ。

「その人が『これでいい』と思える物語はどうやって紡がれるのか?」

言葉や言い回しはさておき、たぶんこのあたり。

ほんとうは僕は「結果」には興味がないのだ。
結果は結果でしかないし、常に不均衡不公正は残るし、
個人の人生からしてみると、手持ちのカードが豊富なときばかりじゃない。
それでも手持ちのカードで意思決定しなければならないときに、
他の人の声はさておき、理想論はさておき、自分が人生の当事者として「これでいい」と思えるためには
いったい何が必要なのか。

障害・傷病・貧困etc.自分がいつでも「マイノリティ」になり得るのに「まさか自分が」と思っている人
「マイノリティである」ことが自分のアイデンティティ全体を覆ってしまい身動きがとれなくなっている人

たぶん根っこは同じところにある気がする
そして自分の人生に当事者性を持って生きられたなら
自分とは違う他者の人生に対してもフラットに隣ることができるのだろうとおもう

この問いはもっと追求する必要がある
同じひとつの問いから世の中を見る、人と向き合うこと
同じひとつの問いについて具体的な思考を続けること
もう少し意識をして生きてみよう

Diary: 2016/09/17

ボサボサで野暮ったくなった髪を切りに行った。スタイリストさんに「最近楽しいことありました?」と聞かれ「えー、なんだろう…」と答えあぐね、「それまずいっすよー遊びに行った方が良いですよー」と言われたわけだが。

別に楽しくないわけではないのだがな、日々の仕事やその他もろもろの社交活動課外活動を含め、概ね好き勝手やらせてもらっているとは思う。ただまぁちょっと、最近はディフェンシブな仕事というか、自分にとって未知の世界や仕事に挑むというより、理想形はある程度見えた上で、そこに向かってじわじわと環境を整えるみたいなところが多く、ワクワクが足りていないのは正直なところかもしれない。

最近の脳内の重要トピック3つ

1. 編集者の社会的責任

一時期「キュレーションメディア」の跋扈とともに、画像や文章の無断転載・改変が問題になったが、その後、引用出典の明記など、業界的には最低限の著作権保護のお作法は一時期よりは整ってきたように思う。

ただ、参照元がゴミ情報だったりトンデモ情報だったりすることは往々にしてあるわけで、裏取りの正確さというか、情報の質に対する責任も、各ウェブメディアは真剣に考えるべきじゃないか。

特に、保健・医療・教育・福祉etc.人の健康や命に関わるヒューマンサービス領域は、色んな人の思いが渦巻くエリアであり、世間の関心も高いゆえに数字を取りやすい。不安を煽るタイプの商法が氾濫するリスクが高いわけだ。

同領域は、「正しさ」についても様々な流派や意見に割れやすく、公正中立というのはほとんど幻想だとも言える。各メディアやその編集部は、自分たちの拠って立つ位置を定め、自らの編集・発信内容に対してどう責任を負うかを考えていく必要がある。

近々論点をまとめた記事を書く予定。

2. ユーザー投稿型サイトにおける安全の確保

こちらも広義の編集といえばそうなのだが、ユーザー投稿型コンテンツのプラットフォームでは、投稿者が不安定な状態にあったり、自傷他害リスクがあると取れるような投稿を発見したときに、どうそのユーザー本人やその近隣者、影響を受ける周囲のユーザーの安全をどう確保するかという問題。

ウェブ上のゲートキーパー活動とも言えるのだが、病院や福祉施設などの事業現場と違うことは、リスクの高い投稿をしているユーザーへのアクセス手段や背景情報の取得にそもそも限界があること、またプラットフォームの性質上直接支援をすることがそもそもかなわないということも多い。

基本的にはリスク判定をした上で、出来る限りの情報提供をし、危険な場合は警察当局等にリファーする、ぐらいしか対策はなさそうなのだが、それを可能にする体制やスタッフ育成など、各種メディアの中で整えるべきだとは思う。

3. 発達障害とその周辺の事象、ステークホルダーの絡み合い

可能な限り早期に疾患を予防・治療する「医療」と、現在・未来の子どもたちの潜在能力を最大化する「教育」と、最低限の生命・生活を公的に保障する「福祉」と、それらの緊張関係の中で、どうあれ一回性の人生を生きる私たち個人の「物語」とに、メディアがいかに向き合うべきか問題。難問。

ここ数日で読んでいる本。

どうあれ「発達障害」というものに対する認知や関心が高まった近年。往々にして診断名やステレオタイプのイメージが先行して普及するが、実態としての発達障害のある人の個々人の症状・特性の多様さ、医師の「診断」が原理的に抱える恣意性やブレをハンドリングしつつ、診断あるなしに関わらず適切な支援にどうつなげるかを考えていく必要がある。

人は言葉なしには世界を理解することは出来ない。しかし、言葉、とりわけ分かりやすい名前を与えることによって見えなくなることもある。

Diary: 2016/08/26

The smallest Japanese pub with the longest history in Shibuya.


新しい組織が出来上がるとき、しかも内外から様々なバックグラウンドの人間が集まる以上は、そうそう簡単に共通認識が取れるはずもない。仕事を進める上での考え方や価値観、人への評価の物差しや関わり方も違って当然で、どちらが偉いとか正しいというものでもない。

だからこそ、一見非効率に見えるが、しつこいぐらいにコミュニケーションを取り続けて、数字や言語に現れない、お互いが言外に発しているメッセージをたくさん浴びせあって、じわじわと身体に染み込ませていくことが必要なのだろう。会議体とか権限とか議事録やメール共有といったもろもろの情報流通経路も、文化と信頼感情勢の補助ツールに過ぎず、そういうものをルールとして整備しているからといって、「もう十分でしょ、分かるでしょ」というわけにはいかない。

「発言してくれないないと分からないよ」とか「オーナーシップを持って自ら行動せよ」とは言うが、適切なタイミングや方法で問いを投げかけて初めてその人らしさや、その人が腹に抱えていた言葉が発露することがある。

出来る限り関係性はフラットでオープンに、という近年の潮流には基本的に賛同するところであるが、それが自然とできるようになるまでの道筋は、人や組織によって様々な傾斜やうねりがあること、ある程度の時間がかかることを忘れてはならない。

メディアをやる以上、多かれ少なかれ私にも野次馬根性とにぎやかしの魂胆が備わっていていることは間違いない。

ダサいものは作りたくないし、多くの人に届かなければ意味がない。同じ分野で、いいコンテンツを別媒体に先に出されると悔しいのは当然である。

とはいえ美学がなければお終いである。

判断のモノサシをどこで持つか、いざというときにすぐブレーキを踏めるかどうか。チームやメディアが育ってきているときこそ、そういうことを自分は考えねばならない。

Diary: 2016/08/20

A man in the rain, waiting for fireworks display.

4月から、会社の新規ウェブサービスの担当になってしばらく経った。楽しさ半分、焦り半分といったところかな。

コンテンツの制作と、それに紐づく事業上のKPIは今のところ堅調に積み上がっており、チームの士気も高いのだが、まだやりたいことはほとんど実現できていない。

自分自身も1プレイヤーとしてまだまだ研鑽を積まねばならないところだが、今の役割としては、個人で何を表現できるか以上に、チームで勝っていくためにどんな成長環境をつくっていけるかが問われている。

特に期間中言及しなかったが、思想も戦略もなく反体制根性(つまり結局は体制に依存している)で声を上げたかつてのタレント文化人が内部からも市井からも信任を失っていく様子を横目に見ながら、「ペンの力」で本当に世の中を動かそうと思ったなら、お金や人や流通経路を含めて、ペンの力を届けるための組織をちゃんと作っていかないと、それは表現者のエゴでしかないよなと改めて思う。

コンテンツ作って世に出していくということは、それをわざわざ私たちがやることの理由―思想がまず必要なのは言わずもがなだが、それを裏打ちするビジネスモデルや届けるための道筋づくり(UI/UXデザインもマーケティングも)、絵に描いた餅を実現するための人の意識と技術がそろって初めて影響力を持つ。

チームの中もそうだけれど、部内のビジネスサイドやエンジニアサイド含めて、同じ方向を向いて進めるよう、私は私の立場から、方向性を言語化・見える化して共有するための努力をもっともっと取るべきなのだよな。

最近は、仕事の隙間にドタバタと結婚式やらなんやらの準備。それから、少し前にウェディングパーティーをやった友人夫婦と仲間たちの足跡を記事にしようという話があって、そのインタビューやらなんやらも進めており、どうあったって、結婚だの家族だの暮らしだのといった事柄が脳みその一部を占めるわけで。そういう時に上記の岡田育さんのツイート。

父母姉祖父母含め、私は実家家族、ないしは地元というものに対して微妙な距離をおきながらお付き合いをしているわけだが、たぶんそれは上で育さんが書いている感覚に近い。

それは結局私の思いに過ぎないわけで、親は親で、親心というもので私に対してあれやこれやの関わりをする。特に母は心配性で、式や披露宴に援助は必要ないか、向こうのご家庭はどんな感じだetc.心配してくれている

私の場合は、(決して裕福でない)父母祖父母に、経済上の大きな援助―負い目を持ちながら、結局はそのおかげで地元を出て、さまざまな地域や国の人と出会い、今の仕事へとつながっているわけだから、そのことに対して返さねばならぬという義理や責任がある。ただ、産み産まれた血縁関係だからといって、あまりに近い距離感だとしんどいものがある。

「二人で予算も話し合って進めているので、援助は要らないです。前日のお宿や新幹線含めて僕からプレゼントさせてください」と、少し背伸びをして連絡を取る。これも親孝行かな、とか思いつつ。ポジティブでもネガティブでもなく、淡々と、しかしやはりこういう私の世代観家族観なりに、感謝を込めて。

Not yet in full bloom / 地球のみんながしくじり先生

I went to a branch house of the local government, and passed a marriage notification to an officer, with my partner. Then she, my wife now and I walked around a small valley near the office. A little colder than yesterday. Cherry blossoms are not yet in full bloom. But I knew spring is coming to Tokyo.

3,2,1ドンの日に入籍をした。気づけばもう3月も終わりに近づいている。桜もぼちぼちと色づいているが満開にはまだ至らず、花粉症に苦しむ周囲の人々を横目に春がそろそろ来るんだなぁなんて思う。職場近くの目黒川は、この時期花見で人通りが多くなるのだが、そういえば一昨年も去年も、自分はゆっくり花見をすることもなく通り過ぎていたなと思う。今年ぐらいはどこかでのんびり見ようか。

「実感」なんてものはどこかを境目に突然生まれるものでもなく、いつだって自覚より先に現実が動いていくのである。婚姻関係や家族関係などといったものにいまだしっかりとした立ち位置を見つけられていないが、私がどう足掻いたって時間は過ぎていくもので、家や仕事やあれやこれやと乗り越えているうちに、いつの間にか「夫」になっていたり「父」になっていたり、するんだろうな、たぶん。

それはさておき「しくじり先生」の深夜放送最終回、オリラジあっちゃんの講義は神回すぎる。あと杉村太蔵回。入籍前日深夜になに観てんだという話だが、私は人生だいたいしくじりこじらせ続きで、もっと言えば彼ら講師陣のように別に大きく成功した時期があったでもなく、しくじりどころかくすぶりという形容詞の方が合っているぐらいであるから、しくじりをビビったり後悔している場合じゃないのだ。4月からまた新しい仕事が始まる。中田先生の名言「地球のみんながしくじり先生なんだよっ!!」を胸に刻みつつ、どんな時でも「お任せください!」の精神でいくSHOZON

What makes his/her behavior “problem”? / 「困った人」は「困っている人」

I and my company colleagues are attending “Amenity Forum,” the largest forum of human services in Japan for two days. Lots of professionals dedicated to welfare services gathered to the forum, and made presentations about their services, newest research outcomes, and so on.

Our company named LITALICO runs more than 100 centers to provide people with disabilities with job support and education services so that they can find the way to learn and work that suit for them, and choose their own way to live.

I attended a symposium about severe behavioral disorder. in general, it is said that people with severe behavioral disorder makes “problems” such as screaming, self-injury, attacking others etc. But the speakers at the symposium said that, a behavior itself is not a “problem,” but a problem is caused by an interaction between people and surroundings. I agree with that. For example, if a man scream in his own room, that isn’t annoying for others. So it’s not a problem. But if he screams in a classroom, office etc. and that disturbs other people’s life. And, there must be a reason why he screams in the classroom. Something must have made him scream as an antecedent stimulus. So our mission is to replace such stimulus to other stimulus that doesn’t make him scream, or provide other options for him. To achieve the mission, we make detailed assessment on him and his surroundings. It is not easy, but if we never give up, gradually his behavior will change.

Now I’m not working as a field staff. My current job is research and management at office. But today’s session encouraged me so much. Whether field staffs or managers,all of us are working as professionals to improve qualities of lives of people with disabilities and disorders. They themselves of their behaviors are not “problems.” There must be signs they send to us, and we should catch them.

ここ最近はろくすっぽ日記も書けていなかったが、熱気に当てられたのでホテルで久しぶりに。「アメニティフォーラム」という福祉関係の事業者・実践者・研究者が集まるフォーラムに参加している。今年は第20回ということでかなり気合が入っている。会場は滋賀県の大津、琵琶湖の目の前にあるプリンスホテル。全国から1000人ぐらい集まる3日間の大型イベントだ。途中懇親会も入るが、基本的にはシンポジウムやゼミがぶっ通してで、ついさっき、深夜の24時まで続いていた。

プログラムは多岐に渡るが、興味があって多く参加したのは強度行動障害支援のセッション。ハッシュタグ#アメニティフォーラムでツイートしたが、いくつか抜粋してここにもメモしておく。

強度行動障害については、以下のように定義されている。

“強度行動障害児(者)とは、直接的他害(噛みつき、頭突き、など)や、間接的他害(睡眠の乱れ、同一性の保持例えば場所・プログラム・人へのこだわり、多動、うなり、飛び出し、器物損壊など)や自傷行為などが、通常考えられない頻度と形式で出現し、その養育環境では著しく処遇の困難なものをいい、行動的に定義される群” (1988年『強度行動障害児(者)の行動改善および処遇のあり方に関する研究』(財団法人キリン記念財団助成研究)より)

ポイントとしては、強度行動障害は、上記に記されたような「状態」が続くこと、であり、個人だけに帰責されるものではないということだ。そうした行動を起こすには必ず理由があり、奇声や噛み付きは表層に見えている「氷山」の一角に過ぎないと我々支援者は考える。「困ったひと」ではなく「困っているひと」であり、いわゆる「問題行動」の下には、その人がそうしてしまう、本人と環境の相互作用がある。我々は「アセスメント」という技法を使ってその人の日々の生活を記録し、その行動の原因や本人が抱えるニーズを丹念に分析する。その上で、そうした問題行動が起きないための環境構築や、本人への働きかけを行う。つまり、「行動障害」は「二次障害」であり、本人が行動障害を起こさないための予防環境づくりが肝だということだ。

そもそも何をもってその人の行動を「問題行動」とするのかという問いもある。「奇声を上げること」は、それ自体常に「問題」なのか。たとえばある人が、自分の部屋の中で奇声を上げることは、他人に迷惑をかけないかぎりとくに「問題」ではないと言える。それが、学校や職場や公共空間など、集団生活の中で奇声を上げるということになると、周りが迷惑を被るから「問題行動」とみなされるわけだ。その行動が問題とされるには、当人の行動を周りが問題だと受け止めるから、あるいは問題を感じる環境・文化があるから「問題行動」なわけである。

つまり、行動には意味や役割があり、それは固定的ではないということだ。その行動が「問題」だとされるなら、その理由=行動を起こす本人の意図や困り事や願いを見極めること。その困りごとが起こらない環境を整えたり、願いが叶えられる代替行動を習得できるようにすること。たとえば、子どもにとって、「頭をたたく」という自傷行動が「母親を呼ぶ」という役割になってしまっている場合、「ブザーを押す」「声をあげる」など、同じ役割を持つ別の行動に置き換える学習が必要になる。

……と、いうのが支援における基本的な考え方やスタンスなわけだが、言うは易しで、実際の支援現場は毎日が試行錯誤の連続である。テレビが宙を舞う、窓ガラスが割れる、噛みつかれる。それが成人男性の行動だったら、スタッフも当然、怖い。あるいは、家族支援。障害のある子どもの親への支援研究はまだまだ少ない。周りの不理解、子どもの行動に対する悩みで孤立する家族。夫のDVや子どもの暴力で追い詰められた母親が、自分も子を虐待しそうになる、あるいはしてしまう。自分を責める。ひとつひとつの事例報告を聞いていると、本当に壮絶なケースが多々あった。(だからこそ支援を属人化せず、地道に居住環境を整えたり、テキストや研修による支援者養成をしたり、地域や職場でチームを作って対応したり、という組織プレーが重要になるのだが…)

私自身は、今は現場で直接対人支援をやっているわけではなく、企画・編集やマネジメントの仕事がほとんどになった。また、現場支援をやっている時も、今回のような重度の行動障害のある人を担当した経験はない。それでも、今回のお話は自分の心を強く打つものがあった。

支援の現場は野球で言えば「1割バッター」のようなものである。残りの9割、ほとんどは失敗の連続である。だけど支援のプロフェッショナルは、その9割の失敗を決してムダにしない、試行錯誤の積み重ねで1割の成功を生み出す。そんな話をされた方がいた。

失敗して、失敗して、試行錯誤して、ようやくその人の行動が少し変化する。魔法のステッキはない。でも、だからこそ、続けるんだよな。現場だろうとなかろうと関係ない。それぞれの持ち場で、ヒットを打つための試行錯誤を重ねるのだ。

祖父の病室

関西出張に合わせて休みを取り、母方の祖父の見舞いに行った。神戸で母と合流して車で岡山へ。美作市という、田畑が広がる県北東部の田舎町が母の出身地である。

祖父はここ数年でずいぶんと弱り、入退院を繰り返している。以来、母は働きながら月に2回は岡山に帰り、見舞いに行くという生活を続けているが、私は留学やら仕事やらにかまけてほとんど顔を出していなかった。

強い雨風に降られながら、高速道路を抜け、母の実家近くの小さな病院にたどり着いた。昨年も大きな手術があり、その間は県の中央病院で措置を受けていたが、少し落ち着いてきたため、最近転院してきたそうだ。

地図を読めない母は、「2階」という情報だけを頭に入れて、受付も案内図も無視して上階へと上がっていく。案の定変なところに迷い込む。1階受付まで連れ戻して職員さんに聞くと、祖父の病室は別館にあるらしい。

渡り廊下を渡ってエレベーターで東館の2階へ。1階受付で聞いた番号の部屋にたどり着くと、違う人たちの表札が張ってある。あれれと思ってナースステーションでもう一度聞いてみた。

「あ、今朝、部屋変えたんですよ」

案内された部屋は2人部屋で、祖父のベッドは窓際にあった。

01.jpg

「景色も見えないと飽きるだろうと思って。ここだと電車も通るから。田舎だから1時間に1本ですけどね。」

祖父は眠っていたが、母と私が声をかけると目を覚ました。

母が問う。
「お加減いかがですか?」「みてのとおりじゃわ」
「この子の名前覚えてる?」「ゆ うへい か」「そうそう。孫を久しぶりに連れて来ましたよ」

私も話しかける。
「帰ってきたよ」「いつきたんだ」「今日着いたところ」
「※●※■○んか」「え、なんて?」
発音が不明瞭なのでところどころ聞き取れない。
「くぅあできたんか」「あ、そう、車で来たんよ」

「今度結婚するんよ」「どこのひとなんあ」「東京の人」「いつするんだ」「3月頃かなぁ」「そいたらわしはいかれえんなぁ」
祖父は、もう自宅には帰れないだろうと言われている。
 
 
16時になったので、テレビをつけて水戸黄門を流した。寝たままでも見られるようにテレビは天井から吊り下がっている。枕元にあるイヤホンを引っ張りだして祖父の片耳にはめる。「恐怖!凶賊卍衆」という回。イヤホンが両耳分あれば一緒に視聴することができたのになぁ。

少し遅れて、従兄弟兄弟もやってきた。同じように祖父に話しかける。ほどなくして食事の時間となり、看護師さんがやってきた。

祖父はもう自分で飲み食いをすることはできないので、胃ろうカテーテルで栄養を摂取する。ウィダーインゼリーのようなパックに入った栄養剤を看護師さんが注射器に詰め、それをチューブに指して祖父の胃に流し込む。透明でほとんど水みたいなものや、薄橙色のドロリとしたものなど、何種類かの栄養剤が4回、5回と流し込まれていく。「食事」が終わるとチューブには蓋がされ、脇にある医療台に使用済みの注射器が並び置かれた。一連の動作が実になめらかで、私はしばし見とれていた。

17時が過ぎて、母も夕飯の支度をするというので、祖父とお別れをし、その日は母の実家に泊まった。祖母も、母の兄弟夫婦も、従兄弟兄弟も、その他親戚のおじさんおばさんも、一族郎党がぞろぞろと集まってきた。母の実家は、夕食も宴会もシームレスに続いていくのが特徴で、ちびちびと飲み食いしながらうだうだと夜遅くまで話し続ける。私はだいたい2時間頑張れば良い方で、早々に布団のある居間へと退散してしまう。
 
  
*  
 
翌朝。病院から祖父の意識がなくなったと電話がくる。その後すぐに回復したのだが、母と、従兄弟兄弟家族と揃ってもう一度病院に顔を出す。一日経ってもう一度対面した祖父の顔は、少しくたびれていた様子である。

6人ずらり。みんなが祖父を取り囲んでまた例のごとく「名前覚えとるか?」と聞く。祖父は順番に答える。「僕は?」「じゃあ私は?」スムーズに名前が出てくることもあれば、「なんだったかなぁ」と思い出せないこともある。その時は頭文字を言ってヒントを出す。母が私を指して「じゃあこの人覚えてる?」とまた同じ質問をする。私は答えられても答えられなくてもどちらでも良いと思いながら聞いていた。

名前を尋ねる、というやり取り。放蕩者の私が気まぐれに顔を出した昨日・今日に始まったことではない。ここ数年、母や従兄弟家族は何度も何度も繰り返してきたのだ。その度に祖父は、思い出せたり、出せなかったりしながら、少しずつ、少しずつ弱っていく。

もう家に帰ることも、自力で歩くこともない。
カテーテルで胃に直接「食事」が注入される。
「お茶を飲みてぇなぁ」といっても叶わないから、霧吹きで水を吹き入れる。
時おり痰が詰まって酷く苦しそうに咳き込む。

小康状態はあっても、「良くなる」ことはない。
未来ある私たちが「自己決定」を合言葉に遮二無二走っている世界とは対極の時間が、祖父と、祖父の周りには流れている。

それでも
親族は見舞いに来る度に祖父に名前を尋ねる。
看護師さんは毎日おむつを取り替える。
祖父は、毎日16時には水戸黄門を観る。

続く限りは、同じようなやり取りを繰り返す。