Kenny G @ Blue Note / ケニーGの演奏・エンキョリレンアイの話とか・不思議な夢の話

Yes, I’m already fit in my life in NY, but sometimes, especially such a night today, I’m surprised to realize to be here, or wonder “Why am I seeing Kenny G, a super star I never dreamed to see in the past? Oh, here’s Manhattan, I’m in Blue Note…” First I heard about him when I was in a brass band club in junior high school. Our teacher told us about his technique, circular breathing, which enables him to play as if endlessly, and introduced to us music videos of his wonderful performance. What I watched and listened tonight was, so amazing. I don’t have good vocabulary to describe it, but just so awesome…! Sometimes moody, melodious, other times dynamic. I had no chance to be tired. It felt the time passed so fast, despite his endless sound by circular breathing.

Not only the performance, his talk was also fun. He told us that he and his band members are ‘by-products of public school education,’ with a soprano sax on his hand, which he used for more than 20 years since his high school. He talked about an episode at White House when he performed for President. Humorous and warm, his talk reflected his attractive personality, in line with his sound.

I never forget such as wonderful night.

大学の友達と連れ立ってブルーノートでケニーGのライブを観た。中学校で吹奏楽部にいたんだけど、顧問の先生がケニーGを大好きで、よく話してくれたのを思い出す。循環呼吸法という、「鼻で吸って口で吹く」という、簡単に聞こえるけど超絶難しいトンデモテクニックの持ち主で、45分だかなんだかずっと吹き続けるギネス記録も持ってるらしい。一時期部活のみんなで循環呼吸の練習をするのが流行ったと思う。とはいえ僕はユーフォ吹きだったから、彼を初めとするサックス奏者のことをずっと追ったわけでもなく(最近ブルーノートにもよく通ってるけど別にジャズに詳しいわけでなくて、有名な人の名前は知っててCDも何枚か持ってる、程度の素人ミーハー趣味、というかだいたい全てのジャンルに対して僕はその程度だ)、まさか今になってここで本人の演奏を生で聴くなんて想像もしていなかった。

6pmの開場前に合流して列に並んだ。ブルーノートはバー席(予約なし早い者勝ち入場料$45)とテーブル席(予約ありだけど場所は早い者勝ち入場料$75)があって、しがない大学院生の僕らはバー席にしたのだけど(値段も演奏者によって微妙に違う。Kenny Gみたいなスーパースターは高い)、運良く座ることができた。

友達が「日本ではおばさま達に大人気でね。あの整った顔立ちにモジャモジャロングヘアー、ラテンのノリでしょ」なんてことを始まる前に話してくれたのだけど、なるほど確かにこれはおばさま方にモテるわ、と演奏を聴いて更に納得。ムーディーで、メロディアスで(しかしトークは実に軽妙なモテ男のそれで)、いつ終わるとも知れない彼のロング・ソロはほんとにセクシーで、僕が女性だったなら「濡れちゃう…」って表現しても良いぐらいなもんだった。

終わってからCDを一枚買って帰った。

ところで開場から開演までに2時間もあって、ビール片手に色んな話をしたのだけど、始まるちょっと前に一緒に行った女友達2人といわゆるエンキョリレンアイの話になって、僕なんかに意見を求められても全く参考にならない、というか、成功事例を持っていないので、「まぁ、難しいよねぇ」ぐらいにお茶を濁しながら二人の話を聞いたものだけど。なんの話したっけ、時差って大きいよねって話とか。NYと日本だと時差が13時間で、こっちが夜であっちが朝、もしくはその逆なので、テンションが合いにくい、とか。遠距離に限った話でないけど、仕事なり学業なり打ち込むものがどちらかにある場合、相手も何かしら同等のものを持っていないと自立したバランスが取れなくて難しいよね、とか。そういうのが遠距離、というか海外留学の大変さ、余裕のなさと相まって難しくなる側面はある。あぁあと、20代後半から30代前半は、男性もそうだけど、やっぱり女性は出産のことも意識して、非常にsensitiveな時期だから…とか。彼女たちのように海外大学院の修士や博士で長い時間を過ごす大変さというのはあるんだろうな。

恋愛だけはほんとに千差万別で全てのカップルに死にたくなるぐらいののっぴきならない悩みと歓びとキスハグがあって、こればっかりは一生かかってもわかりそうにない。

不思議な夢を見た。まだ直接会ったことはないのだけど、ここより北の方にいて、年の終わりか明けに会いに行くと約束している2人と会っている夢で、とはいえ設定もテンションもメチャクチャだった。二人の居住地域を考えればたぶん起こりそうもないのだけど、なんだか治安が悪くなって世紀末、な感じで、僕が訪ねたから二人は家に泊まっていきなよと招いてくれたのだけど、家に着いてみればよくわからない男どもが不法占拠していて、じろりとこちらを見ている。襲ってくるでもなく、家を荒らすでもなく、ただ居座って、じろりと見ている。

「こいつら、いつも来るの?」「うん、うちにも最近。ここらへんじゃよくあることなの」

ひそひそ声で言葉を交わして、なぜだか僕はその状況を納得し、胸の奥の方に静かな勇気の火が灯り、(現実ではまだ会ったことない)2人のために、これからこいつらと一戦交えることになっても力の限り闘おう、怖いけど2人のためならきっと僕なんだってできる、なんて決心したところで目が覚めた。

不思議な夢。

Practicum Day / 舞台ではみな平等

It was a Practicum Day, when every MPH student gather for each department and make presentation about each of their own experience and learning during the summer internship (called as ‘practicum’). We met up at a large lecture room, and broke out into a small group of 7-8 students and 2-3 faculties. It was a whole day long event. Each student spend 15 minutes for presentation and another 15 for Q&A. In my group, most of classmates worked in US hospitals, consulting firms, and community services, one went to Uganda and conducted Qualitative research analysis, and I worked at an unique venture think tank focusing on social marketing of health promotion in Japan.

A common challenge those worked in US large organizations was a fragmentation of US medical system, and bureaucratic decision making process that blurred who’s in charge of what. It happens also in Japan.

I talked about my research project of international comparative study on home nursing service in Europe. For comparative study, merely collecting data on interested service (home nursing in this case) is not enough, because historical and cultural background and health systems behind the service are hugely diverse. To find lessons that are actually applicable to my own country, I need to develop common standard for comparison based on understanding of whole systems in each country. My presentation was the last one, and they looked enjoying it, with comments of ‘terrific presentation’ from professor.

今日はあれだ、Practicum Dayっつって、MPH生は夏休みにどこかしらへインターンするのが修了要件なのだけど(それをPracticumと呼ぶ)、その報告会的なやつ。小グループに分かれてひとりずつプレゼンして、夏の経験をシェア。まぁ、fun eventだよね。

HPM(Health Policy and Management)の学部単位でみんな同じ日時に開催。朝早くに集まって、朝食を食べてから担当教授のイントロトークを大教室で。その後7,8人の小グループ10,11組ぐらいに分かれて小教室へ。夕方までひとりずつプレゼン&質疑応答30分ずつでどんどん回していく。僕らのグループは、そのPracticumの担当教授が当たった。恰幅の良いアメリカのおじちゃんって感じなんだけど、けっこうバシバシ鋭い質問を浴びせていて、みんな割りとタジタジになってた。

MPHって、実務と学問の重なりあったような大学院だから、ビジネススクールと違って、バリバリ実務って人ばかりでなく、アカデミアよりの人もけっこういる。プレゼンもアメリカ人だからってみんな上手ってわけでなく、字数多すぎの詰め詰めスライドに、抑揚なく速いテンポでひたすら喋るだけって感じの人もいた。あんまりオーディエンスを意識してないんだなぁという感じ。研究発表とかならそれぐら情報量詰めても良いんだろうけど。質疑応答の時に教官に「Executiveに報告するつもりで3つの要点だけ言え」って言われて、まぁあんまりスラスラ答えられなかった人が、”You are not a student now, here you are a professional”って言われてひえーってなってた。

僕は8番目、最後のプレゼンだったのだけど、手前味噌ながら、ウケた。訪問看護の国際比較研究についての報告あったのだけど、ディテールはそぎ落としたからよく伝わったのだと思う。大学院のコースワークでは日本のことはほとんど出てこないし、日本からの留学生は学年で僕一人だったから、最初に「日本のイメージってどんなんですか?」って質問投げかけて、ちょいちょいジョークも飛ばしつつ、日本の高齢社会の現状、高齢者看護の話に持ってった。それから、国際比較の際は単純にデータを集めても何の参考にもならなくて、各国の歴史的・文化的背景と、それに基づく制度設計を全体として理解しなきゃだめっす、みたいな話をした。

終わったあとはまた大教室に集まってwrap up. 各グループの担当教官がグループごとの全体講評をしていった。なんつーか、こっちの先生、みんなキャラ立ってて魅力的だって思うよね。日本の予備校講師ほど濃くはないけど。最後のグループの教授が、”Now I’m standing between you and matini”とか言ってて、気の利いたジョークだなと思った。

木曜の日記でも書いたけど、留学生が現地文化に溶け込んだり、ネイティブのペースで議論するのはなかなか難しい。だけど、プレゼンテーションならしっかり準備して自分のテンポ・リズムで話すことができるし、その時間は否が応でもみんなが注目してくれるから、ある意味逆転のチャンスだったりする。そこでユニークな視点や発想を提示できれば、若かろうと、外国人だろうと、フェアに評価してくれるのが、この国の良いところだなぁと感じる。舞台の上ではみな平等なのだ。僕の場合も、今まで何回か学内外のプレゼンテーションの機会を活かして人と打ち解けたり友達を増やせたところがある。もっとうまくなりたい。

Working abroad, and cultural & ethnic roots / 海外で自分のルーツを活かすこと・男は直線、女は直角、の話・同窓会運営の諸問題 etc.

Visited The New York Asian Women’s Center (NYAWC) with a friend and talked with Japanese officer working more than 7 years there. They help women and their children overcome domestic violence and other forms of abuse by empowering them to govern their own lives. NYAWC is the largest organization that focuses on a DV issue for immigrants. Another young officer guided me their office and explained their jobs, 24 hours hotline, shelter services and so on. Their services are multilingual (Japanese, Chinese, Korean, Spanish etc.). Then I talked with them for 1 and a half hour.

DV is an important problem, maybe in every country, every society itself. But in addition to that, when it happens on immigrant couples (both are immigrants or, husband or wife is immigrant), it become more difficult to support because of cultural and linguistic barrier. In general, US people have a stronger “sense of entitlement,” I mean they know their own rights to sue the partner, or depart when it becomes intolerant. But immigrants do not know well domestic laws and legal systems, and what they can do or cannot as immigrants (also immigrant population tend to be marginalized, low SES status). And they do not know much about where is a service or organization that help them in their own language. In addition to that, cultural difference suffers them, especially women marry with domestic men. The young lady officer, who is on hotline counseling service and talk with Japanese in NY frequently, told us that Japanese women tend to bear even if they suffer from DV, and to think they themselves have something wrong, their partners were just in stress at the time of DV, or they should improve their relationships. So Japanese women are not so active to declare and use their own ‘rights’ compared to US women. Thus NYAWC officers tell them “know your rights,” cautiously and cordially consult with them, and provide them with options such as legal actions support, shelter services etc.

What was interesting for me was that the Japanese officer said, their own cultural or ethnic backgrounds are very essential and vital to be competence in such jobs accompanying in person counseling. Just being able to speak English doesn’t mean competent in abroad. However we foreigner make efforts, we cannot be native both in terms of language and cultural ‘codes.’ Thus, leveraging our own background is important to be unreplaceable.

NYAWCのオフィスを訪問してお話を伺った。上に書いた通り、アメリカでのDV被害の実情と対策のこと、immigrants特有、あるいは日本人特有の悩みやトラブルの傾向など、活動自体のお話もさることながら、日本人として海外で働くことについての話も大変興味深かった。

海外で言語・文化的な様々な壁を越えて代替不可能な人材としてネイティブと肩を並べて活躍するには、高度な専門スキル以外だと、自分ルーツとなる出身国・地域の文化・歴史的背景を活かせるかどうかってことになる。特にこういう対面カウンセリングを伴う仕事では、クライアントの文化的バックグラウンド、そこからくる暮らしや考え方を理解できるかどうかというのはかなり大きい。

一緒に訪問した、20代前半からずっとNYにいて現地機関でカウンセラーの仕事をしたこともある友人が「それでも私はこっちでは9歳児並みなの」と言った。「ネイティブ並み」ってのを言葉の流暢さだけじゃなくて、笑いとか歴史とか機微なところまで分かるレベルとしたら、どれだけ勉強してもなかなか…

日本で「グローバル人材」なんて叫ばれて久しいが、「ちょっと英語が喋れる」レベルならそこら辺にいくらでもいるわけで、それだけでは「誰でもできる仕事」しか回ってこない。現地に溶け込む、異文化を理解する努力も大切だけど、自分のルーツ、ローカリティはふんだんに活かしてなんぼだと思う。

僕もまぁ、こっちで色んな繋がりやチャンスが広がったのは、石巻での経験あってこそで、1年deferしてなかったかどうだったか分からない。MPHの授業でも、よく語れるのはCommunityやSocial capitalといったSocial determinants, Marketingなど日常生活に根ざしたもの。それからEthics, Law, Politicsなど学部のmajorと関連するもの。そこそこ慣れたけど、アメリカでお医者さんやってた人がアメリカの医療制度・現場実践を前提にお話する時とか、銃社会であったり連邦制度であったり、社会の成り立ちからして日本と全然違う部分での話題は、なかなか(苦笑)MPHも学部・専攻はかなり多様で、中国やインドやケニアやなどから来てる留学生は、BiostatsとかEpidemiologyなどスキル向上で対応できる要素が大きいところやPopulation & family healthみたいな途上国・開発援助色が強いところに行く人が多い印象。まぁ、なんちゅーか、勉強熱心な優等生であるだけで留学や海外就職してもなかなかアレで、したたかさと粘り強さと創意工夫あってこそなんだろうなぁ。

終わった後、ランチを食べながら一緒に訪問した友達と色々話す。
男女の恋愛観の話。

「男の人はね、真っ直ぐ進みながら色んな人と付き合っては別れるから、振り返ると色んな顔が見えるの。だけど、女の人は別れる度に直角に曲がって生きるから、振り返っても誰もいないの」

な、な、なんちゅー格言や!!


greenzで書いた夜明け市場の記事が公開された。
レトロなスナック街をリノベーション!福島いわき市の飲食店オーナーが、再出発をめざす「夜明け市場」

鶴巻さんに、「すっかりいわき担当だね」なんて言われて、確かにそうだなと思いつつ、来年またいわきに顔を出すことを楽しみにしている。

UDOK.のりけんさんが、こんな投稿をしていた。FBだが一般公開ポストだったのでリンクを貼っておく。下記一部引用。

「復興」と言ってしまうことで、問題の本質が見えなくなったり、何かに取り組む人の真意がぼやけてしまうことがあると思う。そして、ほんとうに復興が必要な問題を見えにくくすることもある。

しかしながら、実際のところは、冒頭のように、福島で行われる何かに対して、復興とか希望とか、そういう言葉でまとめられてしまうケースが多い。まあ、いろいろと都合がいいんだよね。誰も傷つけずにニュースの時間を消化できるし、「被災地の声」を届けたことにもなるし。

簡単に紋切り型の「復興」や「被災地」といった言葉を使わないでいかに届けられるかが、言葉を使う人、ニュースを届ける人の仕事だと思うのだよな。

翌日のPracticum Dayのプレゼン準備で切羽詰まっているときに、海の向こうのこれまた翌日にある同窓会に関する連絡の相談が後輩から。(今年は学年幹事に指名されて海の向こうからせっせと出欠催促のメールを同期に送っていて大変しんどかった…苦笑)

同窓会活動って、要は毎年集まってみんなで懇親会するのと、あと現役がなんか困った時に先輩がサポート(あるいは事前に教育)すること、それができるための体制を作って維持することに尽きると思うんだけど、そのための実作業はとても地味で、要は名簿・連絡先の管理・アップデートと、メンバーへの呼びかけ、会計などなどを卒業して働きながらやっていくことになる。

一般的には
・メーリスやオフィシャル連絡が機能しない問題
というのがありがちで、伴って
・ごく少数のメンバーの幹事業にしわ寄せが行く問題
があり、伴ってその人達も「やってらんねーぜ」となり
・年々出席率が下がっていく問題
があり、それをどう食い止めつつ、省エネモードで無理なく盛り上げていくかが難しい。

同窓会あるいは現役活動へのアラムナイの距離感が様々なのは当たり前のことで、自分の現役活動を終えたら離れていくアラムナイがいても良い、と僕は思う。基本的には加入も脱退も個人の意思なのだから。かといってオフィシャル連絡だけしてあとは知らん、というのもちょっとさみしい。あとは、自分たちも現役時代に色んな人のお世話になってきたわけだから、恩返しというか恩送りというかさ、そういうのは、大事だと思うわけですよ。コミット度合いの高い人達の熱意の押し付けになってはいけないけれど、こう、「連絡不精なだけで別にそのコミュニティを嫌いになったわけでもなく、顔さえ出せば楽しんで満足してくれる層」というのが必ずいて、いやまぁメールの確認・返信ぐらいちゃんとしろよとは思うわけですけど、やはりそういう人たちには是非途切れずに残ってもらって、たまにでも良いから来て欲しいわけです。久しぶりに会えるだけで僕は嬉しい。

自主性や自助努力や自己責任といったものは基本的に信用せず、「性怠惰説」を前提として、少しでも幹事業に負担がかからずなおかつみんなの「面白そう、久しぶりに行ってみようかな」の気持ちを刺激するかって話です。

コミュニティは、作るよりも維持すること、それも変化に応じながら維持していくことが一番むずかしい。

とはいえ、愛ですよ、愛。

日本にいる友達の具合が悪いようで心配だ。少しでもうまく睡眠をとれると良いのだけれど。

Fall deepens

It’s a clod day. Fall deepens. 朝晩冷え込んできた。

On Wednesday, I have a Strategic Communication class, by senior lecturer Alan P. Levenstein, who has a brilliant career as a business person and knows much about marketing (and also, every time humorous and wearing dandy suit). This semester we took a case of gun control and developed a communication strategies for Mayors Against Illegal Guns, and at last made a presentation to a officer from the organization.

Whenever I study about U.S. social issues, gun control, Obamacare, soda ban, tobacco etc., I see huge difference of between US and Japanese system and culture. Whenever political debate come to regulation on anything, US public debate (esp. from repub.-oriented persons) shows concern on, or allergy to, governmental regulation on individual freedom. It appears less time in Japan. Also there are huge varieties and autonomies between states under the federalism system. That makes them so difficult to realize nation-wide gun control or national health insurance. Japan tends to prefer equalized standard for everyone. It’s not a good or bad question, just a characteristics of each country, and it’s almost impossible to radically change the culture because of deep-rooted history (e.g. Independent War from Britan, defeat on WW2 and rule by US after), but at least give me interesting lessons.

親知らずを抜いた部分の腫れがちょっとずつひいてきた。ま、それはどうでも良いとして、僕は幸か不幸か、ほとんど大きな怪我や病気をしたことがない。ヘルスケアや病気や障害や災害やなんかについて語るとき、いつもつかみどころのない感覚を抱いている。用語や特徴や統計的分布や対策をどれだけ覚えたところでなかなか変わらない。惹かれるようにしてそこら辺の分野周辺をうろついているのは、結局身近な人の存在、が大きい。今まで出会い関わってきた人―友人や、昔の恋人やお師匠さん、最近ではじいちゃんばあちゃんもだんだん元気なくなってきた、で何かしら心身の大きな痛みや苦しみと闘っている人、そういう人に対する愛おしさとかやるせなさとか羨ましさとか、そういうもの。

NOGANの茂木さんのインタビュー記事がFBのシェアで流れてきたので読んだ。
ET Luv.Lab., 「横浜の創造力の舳先に」茂木 隆宏 – ノガン株式会社 コンサルタント

茂木さんとはじめてお会いしたのは2011年の1月か2月のこと。当時手伝っていた寿町の活動でインタビューに行ったのだった。
ないものを求めるのではなくて、そこにあるものを工夫して、というお話、当時とても印象に残っていたのだけど、そうか、それはその後の僕の石巻での仕事にも、今の暮らしにも、繋がっていたなぁ、と。

今回の記事で印象に残ったのは下記の部分。

【加藤】そう言えば、ノガンって名前の由来とかあるんですか?

【茂木】由来としては、世界で一番重い飛べる鳥の名前です。僕らは鳥を意識していて、始める時から「垣根は超えたいね」という話はしてたんですね。トータルデザインみたいなのが最初のコンセプトだったので。色々なところに飛んでいって、移動できて、ちゃんと中身詰め込んで飛べるギリギリのラインの鳥。

【加藤】なるほど。ギリギリのラインはすごい体力使いそうですけどね。

【茂木】いつも勉強している感じがします。僕、WEBできなかったんですよ。知らない世界でした。一緒にやっている浅野もプロモーションの仕事を今はガシガシやっていますけど、そもそもインテリアの出身なので。

【加藤】じゃあどんどんクライアントからの案件に合わせて新しいことを覚えながら。一緒ですね。僕、3年前くらいまでほとんどプログラミング触ってなかったですから。

【茂木】ええ!そうなんですか。それはそれですごくないですか。

【加藤】でも、結局、それで何とかできる人が、どんどん強くなっていく気がするんですよね。

そうか、そうだよなぁ。

NOGANのお二人、Webデザインからおでん屋さん(!)まで手広く活動されていて、まだおでんは食べたことがないのだ。また横浜に、寿町に行きたい。

Dental clinic at school / 親知らずを抜いたこととか、気になったニュースあれこれ

At last I enrolled a student dental plan and went to a dental clinic at Columbia Dental School. Even after taking an antibiotics, swelling of my gum didn’t get better. I knew the cause, wisdom tooth left long time. The lower right wisdom tooth had grown in a bad angle. Early in the morning, I submitted an registration form, made a payment for the insurance, and told a staff my pain is urgent. They treated me as emergency, so soon I was directed to be diagnosed by doctor. Though I had to pass a class in the morning, I could successfully let the tooth pulled out. So now, my under right cheek is a little large. Nothing I could eat today…

By the way, I rarely go to hospital, because I’m generally in a good health. But whenever I go there, I feel a little tragic, or nervous, by seeing someone suffering. While I was waiting on a seat, an old lady groaned frequently. I didn’t what’s wrong with her teeth, but could guess her mental wasn’t in good state. Another lady kept putting her hand on her cheek. It must be painful. Every people coming to hospital have any kind of pain, anxiety, or fear. I know that is a hospital, but I’ve never accustomed with such mood.

In the evening, I attended an meeting of CJR, Consortium for Japan Relief (though friends told me “Why you come today!? Keep in bed!” by seeing my cheek), and discussed our activities this fall. We’re planning to hold some documentary film screening and panel discussion event this and next month. Now we think it is a time to further collaborate with other organizations, not exclusively related to Japanese 3.11 disaster, but more generally, persons and organizations that dedicate themselves with a field of disaster relief or management. Lessons from 3.11 disaster in Japan must be utilized to other countries’ cases, and on the other hand, we can learn something from others.

I came back home at late night. I like the mood of night Brooklyn, with trees along the street dimly illuminated by light.

先週抗生物質を処方してもらったものの、1週間たっても全然腫れがひかない。夏に同じ状況になった時は数日飲んだらおさまったのだけど、これはいよいよ限界か、と、朝イチで大学のDental Schoolに駆け込む。アメリカでは医療保険と歯科保険は別々。入学した時に学生向けの医療保険には入らされたのだけど、ここでStudent Dental Planというものに改めて申し込むことに。Emergencyだと言って、その日の午前中に抜歯手術をしてもらうことができた。保険加入で$180(年間プランのみだけど、12月卒業3月帰国だからちょっともったいない…)、今日の手術はディスカウントされて$108。安いんだか高いんだか。まぁ良心的な値段にはなっているのだろう。

抜いたのは右下奥の親知らず一本だけ。他の3本は割りと真っ直ぐ生えてくれて、今のところ問題が起こっていないのだけど、その一本は、ほとんど真横ってなぐらいな生え方しやがって、歯茎や奥歯をぐいぐい押してくれるんだ。そら腫れるわ。
手術は無事終わったけど、今現在も右のほっぺがぷっくりふくれあがっている。ふぐ。いや、ふぐなんてかわいいもんじゃないな。スーパーマリオのドッスンみたいな人相(右半分だけ)になってる。今日は何も食べるなと言われ、飲み物も冷たい水だけ。切ない。まぁでも断食したことあるし。

先日書いたショートノベルの感想をTwitterのフォロワーさんからDMでいただいた。嬉しい。

先日、東京でNoh×Contemporary Artのワークショップ&コンサートを主催した青木涼子さんが、今日からスペインのマドリッドでオペラに出る。テアトロ・レアル王立劇場の「メキシコの征服」という演目だそうだ。青木さんの役はマリンチェという女性。演目はメキシコの最後の王モンテズマとスペインの将軍のコルテスとの出会いが描かれたもので、マリンチェは、実際に存在していた、二人の通訳を務めていたメキシコ人女性で、コルテスの愛人であったとのこと。青木さんからのご案内のメールでは、”オペラでのマリンチェの役割は、movement(動き)とsilence(沈黙)で、二人の間を行ったり来たりします。モンテズマとコルテスが西洋人のキャストなので、それと全く違う次元からの素材がマリンチェには必要である、またアントナン・アルトーが能に影響を受けていたこともあり、日本の能の役者、そして女性であることから、今回のキャスティングが決まりました。”とのことだった。先日観に行った東京でのコンサートは、まさmovementとsilenceの芸術で、とても感動した。
「共命之鳥」という曲があったのだけど、本当にホール内で鳥が鳴いていて、打楽器奏者の方と青木さん3人のmovementとsilenceに、ドキドキしながら見入り、聴き入っていた。きっと今回の配役にもピッタリなのだろうと思う。観に行けないのが残念だけど、海の向こうから応援しています。

アピタル 内部被爆通信 《83》 診察に来たあるお母さん 坪倉正治 (つぼくら・まさはる)
毎回読んでいる坪倉先生の連載。外来に来たお母さん。色んな感情や考えが頭の中で入り乱れて、精神的に参ってしまっている様子だった、と。

今回ご紹介したような方を、そばにいる人がみんなで、そして地域で守っていく必要があると改めて感じたのです。

そのような方は、外来をしっかり受診したりとか、自分の意見を大にして主張したりとか、インターネットやSNSも含め、大勢の前で誰かを公然と批判したりとかはしません。というか、できないと思います。大多数の方の中に埋もれてしまい、顧みられることも少ないです。

「よく外来を受診してくれた」と伝えました。

自分から声を挙げて、不満を行ったり助けを求めたりできない人もいて。そういう人の存在はメディア、とりわけインターネットだけ観ていても気づくことができない。地域で守っていく。そのためには、気遣いあえる、何かあったときに気づける関係が必要だ。

毎日新聞 生きる物語:「弱さ」の向こう側/6 研修医の大きな壁 2013年10月08日

脳性まひで電動車いすを使っている研修医の方のエピソード。車椅子に乗り、脳性まひであるため、他の研修医と同じような動きを容易にできない。それでも、自分で工夫と訓練を重ね、助けがなくても自分で注射ができる自助装置を使って診療に臨む。しかし…

 患者の親から「担当を代えてほしい」と言われたこともあった。久しぶりに「障害がなければよかった」と思った。「自分が医者をやっていていい」という確信が揺らぐと、周囲に助けを求めることもできなくなった。再び、弱さを1人で抱え込むようになっていた。

記事は今回で完結しておらず、次回に続く。


The Diplomat, “In Japan, Will Hafu Ever Be Considered Whole?” J.T. Quigley
日本で生まれ育った、日本人と外国人「ハーフ」の人びとの話。見た目が日本人ぽくないという理由で、学校で同級生からからかわれたり、温泉で入場拒否されたり。やっぱり、こういうの、あるよなぁ。2020年のオリンピックまでに、どこまで変われるだろうか。
記事でも紹介されている映画監督(彼女自身もハーフ)が、『ハーフ』 というドキュメンタリーを撮った。10/9-10/18に渋谷UPLINKにて上映。くそー行きたいなこれ。

Float on the city / ベンチから眺める街

The first week of my trip, I stayed in London. Most of the visits to specialists and organizations related to our research on home nursing were in Hatfield, a beautiful country area 30 minutes north from London by train, but had also good times in London in the evenings.

One significant characteristics of UK’s health system is that medical service, provided by NHS basically for free and social service, provided mainly by local authority are clearly divided. Home care, especially for elderly care is a point where both sector come across and contact the same person, an individual who live in their own home and community, and have various needs based on their daily life, which includes both medical services and domestic/personal services (bathing, cooking, washing etc.). Since our main focus was a nursing service, we visited related professionals and organizations, but at the same time, I had always paid attentions to other sectors and comprehensive systems, though it was too complicated. We met faculties of the University of Hertfordshire, and NHS hospitals/community services, the Royal College of Nursing (trade union for nurses), and the Queen’s Nursing Institute, a organization for support and advocate of home nursing. As I mentioned, there is a fragmentation of the overall health system in UK, and varieties across local districts, so even for specialists or organizations in UK, it was difficult to gain figures or materials of all the necessary information such as workforce, service delivery. Thus, it was important to know what is missing pieces and how to infer that. …Still my brain is storming after lots of visits and additional documents, I try to grasp the overall picture and build our final report to client.

Anyway, despite fragmentation of the system, and huge decrease in budgets and workforce, especially for district nurse, a key player of home care in community, I was impressed with lots of efforts by practitioners and organizations. A district nurse, with whom I visited several homes of local residents, who had various diseases and needs, showed me how she communicated with each of them, and also their relatives and other actors such as social workers. Her caseloads looked very large, and it sounded partly because of recently decrease in human resources (but still she worked so hard every day every week). The Queen’s Nursing Institute impressed me with how they made research by themselves such as surveys to practitioners, and advocate to policy makers to approach problems in the field. The quality of their reports and pamphlets were so high, and that told me their professionalism to fight to realize their goal, not just criticizing the government.

*

In the evening, though half of time I fell down asleep after back to the hotel, I could met my friends living and studying in UK. It was so happy for me, cos they showed me parts of their daily life here, what they see, what they love, how they feel and do, while walking around the town with them. Not only here, I always feel myself a foreigner, or drifter. I never imagine, so far now, to settle in one place for long time, say 5, 10, or 20 years. So wherever and whenever I visit some town, I look and walk around the town with an eye of observer, never a inhabitant. My thoughts and feelings tend to float, and that’s why I respect each of you, who settle in a community, keep your own rhythm and tempo of your life and work, and warmly welcome me, with happy smiles telling me what you love in our town. Though short stay every time, I never forget your kindness. Thanks a lot, and hope to see you someday somewhere again.

その街に住んでる友達と一緒に歩くのが良い。ヨソモノの僕が素朴な疑問と感動を繰り返す一方で、彼/彼女が日々、その街をどう見て、何を愛でているを知ることができるから。「知ること」それ自体が二人の散歩の目的でないのも良い。

パブや居酒屋に集まってお酒片手に「ぼくの/わたしの人生ハイライト/ダイジェスト」を順繰りに話し、気持ちが高まった拍子に未来や夢の話をしちゃうのも、勿論楽しいことだけれど、目的もなく歩行のリズムで、話すともなく言葉がこぼれてくる時間は、よりいっそう愛おしい。

なんだかんだと観光スポットは良い。基本的にはヨソモノしかいないから、非日常の気楽でバカに明るい感情が溢れていて、あまり余計なことを考えずに住む。ハグをしたり写真を撮っているその様子を、その街に暮らしている友達と、ベンチに座って眺めるのも良い。

お気に入りのマーケットに連れてってあげる、と言われ、行ってみたものの時間が早すぎたり休日だったりして、「普段はここもっと賑やかなんだよ!」なんて弁明されるのもまた良い。

それにしたって僕には根が無いね。

「外食続きでつかれたでしょ!」と、おうちに連れてってもらい、手料理をごちそうになった。こたつに寝転んで待っていたらうたた寝してしまって、おいしそうなにおいで目が覚めた。

しあわせってな、オムライスのことだよ。

Autumn leaves / 「日常」はどこにある

A little bit busy days with a lot of writing including class assignments (memos, reports), grant application, web-articles. Writing is hard, unproductive and wondering process to make good works. So it needs a courage to get started (I fall in sleep many times before starting), but once I started my mind will be sharpen up, and put myself on endeavor to weave a good story. Enjoying? Yeah, maybe, at the same time suffering, but just cannot stop it. It’s a way of living.

On the way to my home I overslept for one station, so I walked up to my street for about 3 avenues and 3 streets. Alongside pavements, broad-leaf trees standing (it’s so Brooklyn-like), and I found there were already some amount of fallen leaves. It’s autumn! Soon my street will need to clean-up, but I rather look for it cos I can enjoy sounds of leaves swept by my broom.

こちらの朝、向こうの夜に、小名浜UDOK.のみなさんとSkypeで話した。「日常」という言葉がキータームで、色々なことを話した。日常からはみ出していくこと、何気なく通り過ぎていく日常のなかに面白さを見つけること、あるいはその「日常」は実は当たり前ではない危うい存在なのだとときたま自覚すること。そこから生まれる、日常に根ざした表現活動があるということ。

彼らの活動の延長として来週末には小名浜本町通り芸術祭だ。それの紹介も兼ねて記事を書くからSkypeをしたのだけど。行きたいなぁ… 
まぁまた来年以降いつでも行ける。フラッと顔出せば、そこにはみんながいるし。

地域に根ざした表現活動というものは、その土地に暮らす「地元民」だからこそできることであるが、一方で、「日常」からある種の「非日常」を発見する行為は、その「地元民」を一時的に「観る者」≒「ヨソモノ」へと変える行為でもあるだろう。「日常」と「非日常」、「地元民」と「ヨソモノ」は、実はいつでも転倒し得る。それが面白いと僕は感じる。

ところで僕の「日常」や「地元」「ホーム」はどこにあるのだろう。いやもちろん出身地とか長く過ごした土地というのは存在するのだけど、今日話したような色々な機能を果たす時間や空間としての「日常」や「地元」というものを純粋な意味ではどこにも持っていない気がする。いつもふらふらしている。それが悪いこととか悲しいこととは思わないけど、「土地に縛られる」という感覚をついぞ持っていないままここまで来ている。どこに行っても、誰といても「ヨソモノ」である感じはする。
あ、昔のヒト、あるいはそのヒトと関連するモノ・コトに縛られたり取り憑かれていることはちょっとあるかもしれないな。人生そんなもんかな。

お仕事やお手伝いでもって、書くこと、あるいはその前後段階としての物語を編むことでお役に立てる機会が少しずつ増えてきている。それは嬉しいことなのだけど、なかなか自分のことをゆっくり整理して書き落とす時間がとれていないな。

とはいえ、仕事としてやらせてもらうのは、気がシャキッとして、良い。この人のために、もっともっとうまく書きたい、伝えたいって前向きな気持ちでやれる。

これポストしたらちょっと寝てUDOK.の記事書こう。

P.S. 1
日本に帰って何がしたいって、親知らずを抜くことしかない。抜かずに放置していたやつが暴れだして、この夏の東京勤務中にけっこう腫れて痛くなったのだけど、留学中は国保入ってないから、歯を抜くお金はねーなと、とりあえず抗生物質で収めたのだけど、個々数日また再発。こっちの学生保健も歯科はカバーされていないから、同じく実費で抗生物質だけ処方してもらった。うーん、対処療法。早く抜きたい。

P.S. 2
現在の居所(NY)と実家(神戸)と海外転出前最終住所(石巻)と帰国時の主たる勤務地(東京)がバラバラだから色んな書類や荷物の受取・保管とか給与や税金の支払とかややこしい。住民票もないし。夏に税務署で相談したけど担当の方困ってた。帰国が3/15を過ぎるか否かで確定申告の対応も変わるようだ。でも俺そのタイミングがちょっと分からんからなぁ。今日も、日本と遠隔でやってる仕事で、請求書の住所どうしようかという話になった。
ノマドらない、ノマドれない、ノマドりたくない。むしろ定住したい。引きこもりたい。無理か。
いや、ちょっとウソだな。ノマドとかはどうでも良いのだけど、実際のところ、いつの間にか安定願望とか定住願望というのが消えてしまっている。えー、俺こんな性格だったっけ。人生分からんもんだよ。楽しいけど。

Back to Big Apple

2013.09.07 Sat.

I’m back to NY and fall has come! It is a time of “Hello!” to new comers, and “Welcome back!” or “Good bye” to friends (of course I know it happens every time, every season under the Big Apple, but…).

Immediately after being back to NY, I started the Fall semester with jet lag, finding that some of friends of our class are still working abroad (for global internship), some had already graduated in May and no longer there. On Friday, I met a friend from Burma (he graduated another school in May), spent just an hour with a cup of coffee before he’ll go back to his country. He got a job in his home country, with great passion for the future of Burma where a lot of changes are happening towards development and democratization and market is opening to foreign capitals. It won’t be an easy task to handle power games between and within countries and seek for decent society, there must be light and shadow. But anyway, I send my best cheer to him and other Burmese friends, hoping they’ll be fine and seek for their dreams.In turns, new students have come to campus, including my friends from Japan. I was surprised that already one year had passed since I came to NY. It is now a funny memory, but during the first semester I felt pretty nervous and depressed. Now I know rainy days never stay. On Saturday, I met one of my friends from Japan and had lunch. We studied at the same undergraduate college but it may be already about 2 years since we last met, though we had Skype talks. Given her interests and personality, the mood in this city may fit her.

Artists, designers, businessmen, students with ambition and dream come from everywhere and leave here anytime. Hard competition and huge disparity, but still this chaotic, crazy but lovely city welcomes everyone. Nothing normal, nothing special. We are allowed to do anything, and with any luck, can enjoy 15 minutes of fame.

始業の前日に帰ってきて、時差ボケを引きずりながら低空飛行で新学期を開始。来週からようやくブルックリンへ移る。
夏の間に幾人かの友達がクニへ帰ってしまっていたことを知る。代わりに新しい顔ぶれがわんさかやってくる。この街では毎日のように人が吸い込まれては吐き出されているから、そんなことは珍しくもなんともないはずなのだけど、季節や学期の変わり目はやっぱり別れが目立つ。とにかくみんな達者でやっとくれ。僕も、そうだな、あと半年。マンハッタンは相変わらず過剰に狂った街だと思うけど、だからこそ…何やったって良いのだ、ここでは。

雨とワックスのにおい

本を読んでもノートを開いても、文字が頭に入ってこない。
こんな日もあるかと、電車の座席に座って思考を止めた。
丸の内線は実は荻窪まで伸びている。

降りる駅だと思って席を立ったが、あとひと駅先らしい。
空いた車内で一人立っていることの意味を考え続けるほどの力もなく、
さっきの座席の斜め向かいに座り直した。

さっきまで僕と同じ列、2人分ほど空けて座っていた男性は、
落ち着きなく辺りを見回し、僕と目が合うとぼそり「なんだよ」と吐き出す。
そうだな、僕は、なんだろう。

アナウンサーがカメラのレンズの少し上を見るようにして、彼の輪郭をうつろになぞる。
突然課された宿題の答えが出ぬまま目的地に着いたので、
手すりをだらりと持って身体を引き上げ、彼の横を通って車外へよじり出た。

ホームに降り立つと雨のにおいがしたが、階段を登って地上に出てみれば、とっくに上がった後だった。
そしたら今度は、ついさっき美容室でカットの後につけられたワックスのにおいが妙に鼻にさわり出したから、
足早に家に帰ってまとめてシャワーで洗い流した。

今日は土曜だと思っていたら、どうやら日曜らしい。
手持ちのケータイは手ブレがひどくって不可ない。

あわいを生きてる

公開しない体で日々の日記をつけていたけど、ここ数日の出来事や考えに共通点があったので、
そのまま載っけちゃおうかと思って。たまにはね。

何かと何かの、間
あわい
そんなテーマで。
(だからこの記事も、構成と非構成の、間にあるのだと、そんな言い訳をしてみるのです)

2013/07/04 Thu.

スパイラルに陥らないように。
その瞬間の自分の素直な感覚に従うことも大切だけれど。
一方で、「そう思おうとしている」自分の存在、無意識に形成された強迫観念を、ある程度対象化することも大切。
まぁ、意識する、気をつける、では習慣は変わらないのだけど。
どこかのコンサルのおっさんが言ってた、時間の使い方、環境、人付き合いを変えろ、という主張だけど、
habit(習慣)に関する学術研究においてもおおむね同じ事が指摘されている。
 

 
「誰もお前の細かい行動なんか気にしてないよ」

時折自分に言い聞かせる。

* 
 
社会は巨大なお芝居の舞台で、人生はその中でいくつかの役割を順に、あるいは同時に、あるいは交互に演じていくことなのだという話をした。
理解した上で、役割に準ずる、時に外す/トチる、反逆する人
理解しないままで、踊らされる、反発する人

ひとつのペルソナだけを見て、相手の「人間性」を断定したくないといつも思っている
知らないところ、覆い尽くせないところはいつでも残るから
それでも知りたい、重なりたいと思うのが人情だけど
永遠の追いかけっこ

東京という街で生きることをどう表現したものかって、たぶん、その身を「浸し」ているというのが一番感覚に近い。今のところ。

同じ都市と言ってもNYとはまた違う。NYでは骨と輪郭を持って舞台の上に立っているような感覚が強い。
NYは街全体がジャズのようですね、と言った人がいた。

2013/07/05 Fri.

担当していたインタビュー記事を朝に仕上げて入稿。
ちょっとずつ、書くお仕事、していきたい。

書くことに限らず、社会と接続してバランスを取るためには、
何かしらのお仕事を持っていることはやっぱり大切だな、と何度も思う。
僕のように内側に潜りがちな人間は特に。
そんなものがなくても出来る、というのが理想だけど、
締め切り、読み手、上司・同僚、クライアント、商品・サービスの購買者・購読者etc.
仕組みやスケジュールのなかで否応なく他者の存在が可視化されているというのはやっぱり有難い。

お勤め3週目が終了。早かった。

それにしてもキャッシュが無い。
試用期間が終わり今週からお給料が発生しているのだけど、
振込は来月になるから今月は緊縮財政。

心は錦ってね。

ここ数週間ずっと咳が出る。なんでだろう。
風邪ぽっかったけどくしゃみとかはもう治ったしなぁ。
この夏は無保険だから病院行くわけにもいかない。

ノマドとかそういう流行り言葉はどうでも良いのだけど、
図らずもそっち界隈に近いライフ・ワークスタイルになりつつあって、この先どうなることやら。
国籍、戸籍、住民票、国民保険、年金、住居、そういうハコにちゃんと収まっていない不安定さはある。
移動が多いと荷物を多くできないから、家具とかかさばるものは買えない。買うお金もないが。
(本だけはどんどん増えていくから困る)
ま、なんとかなるんだろうけど。
確固たる足場や肩書きを外部から与えられなくても、
自分でちゃんと生きてる人の具体例が身近に多すぎるからな。
国籍ひとつとっても、日本とアメリカの(こっそり)二重国籍だったり、
あるいは故郷を追われて難民となった人だったり、
在日外国人だったり帰化したり、色々いるからな。
それぞれの人がその境遇ゆえに背負った大変さもあるし、
社会現象としてどう議論し対処すべきかというのは別の議論としてあるけど、
ひとりの人間が、生きる、生き抜くということからしたら、究極的には瑣末な問題だ。

一方で、HOMEがある、HOMEを持っていると思えることは、人が健やかに生きてゆくうえで大きな支えになる。
「ただいま」と「おかえり」を言える関係性、日常。
最低限それだけでも、みんなが持てる社会だと良いなぁと思う。
それは必ずしも「地元」的なひとつの土地や街でなくたって良くて。
時期によって変わったり、複数持っていても良くて。

ふらふらと移ろいながらも関わってきたいくつかの分野に共通しているのは、
自分自身の居場所や役割、心身や健やかで穏やかな暮らし、あるいは安らげる暮らしを持てなかったり、
そういう出来事に直面した/している人たちがいる、ということだろう。
紛争、障害、災害etc.

富岡や小高や飯館や浪江の人たちのことを想う。
いつかの将来に(場所によっては数世代先になるだろう)、帰ることが出来れば幸いだけど、
新しい場所での直近の暮らし、ここでも別のHOMEを持つことができますようにと願う
 

 
本当は、 
「大丈夫であるように」と、そう願っているのは他ならぬ僕自身でもある。

2013/07/06 Sat.

起きてみたらなにこの暑さ。
梅雨、もう終わり?まだ?もうすぐ?

梅雨と夏の間。

少なくとも、僕の今日の気分は夏、夏だってばさ。

夏だ!と思った時に聴く曲は決まっている。

JUDY AND MARY Brand New Wave Upper Ground

おいかぜーをーたっどぉればーくもーがーはーれてゆくー!
ってね

少し前にちょっとおセンチな気分になって、あまり人がいない静かで肌寒い海に行きたい、なんて言ってたけど、
太陽いっぱいの夏の空の下、海辺や桟橋を走るようなこともしたい。

女心と秋の空、なんて言いますが、
男だって、夏だって、いつでも表情と気分は変わるんです。
昨日と今日の間。
ネアカとネクラの間。

2013/07/07 Sun.

昨日公開したみちのく仕事のインタビュー記事がけっこう好評で嬉しい。
書き手冥利に尽きる。

震災後、「東北との関わり方」をどうしたら良いか/どうすべきか/何ができるのかといった悩みや相談と出会うことが多かった。
あるいは最近は、震災に関わらず、主に若い世代の間で、「働き方」や「暮らし方」そのものを考えなおす/問いなおすということがちょっとしたトレンドになっているように感じる。

伴って、方法論や形式論が盛んに議論される。株式会社/NPO/一般社団法人/任意団体、雇われ/起業/フリーランス、都会/地方、Uターン/Iターン、日本/海外、就職/進学/休学 etc.
こうした話題がトレンドになるのは、今まで主流となっていた(らしい)働き方に疑問が持たれ始め、ある種の過渡期にあるからだろうと思う。震災が人びとの心を揺さぶり、こうした問いかけや悩みを加速させた面もあるだろう。
方法や形式が内実を左右する割合はとても大きいから、自分にとってどの方法・形式がピッタリなのか考え続けること自体は大切なことだと思う。

ただ実際は、二者・三者択一で選び取られるほど働き方というのは単純なものではないし、どれかひとつの形式が他に比べて優れているというわけではない。
なので、考えること自体は大切なのだけど、一方、考えているだけで答えが見えるわけではないのも事実で。
また、最初から不変不動の最終的な答えがあるはずもないというのも事実で。
やってみて初めて分かる、ということもたくさんある。

流動的な状況・自分自身の変化・成長に合わせて少しずつシフトチェンジがなされ、だんだん落ち着くべきところに落ち着いていくもんだと思う。
人間ひとりの人生単位で見たときには、上記のような形式論の粒度では掬いきれないだけの多様性と流動性がある。何かひとつを選んだように思えても、2,3年後には考えも働き方も大きく変わっているということは十分あり得る。

昔誰かが言ってた「会社に人生を預けるな」という言葉には共感するところだけど、
自分以外の誰かが掲げる「働き方論」に自分の選択を預け切ってしまうことも、組織に身を預けることと本質的には変わりない。
山を登る時に、得体の知れない「誰か」に上からロープを垂らしてもらうよりは、
時間がかかっても、ハーケンをひとつずつ打ち込んで、自分で登っていきたい。
 
 
「答え」なんてものが仮にあるとしたら、それはいつも何かと何かの「間」にだろう。
掴めるようで掴み切れないから、リアルタイムで触れてはすれ違う。
「わたし」と「あなた」の間
「個人」と「組織」「社会」の間
「自分の働き方」と「あなたの働き方」の間
「現在の自分」と「未来の自分」の間
「実践」と「言論」の間

あわいを生きてる。

岡山・美作、じいちゃんの田んぼ、カエルの音

母方の実家は岡山の美作にあって、この土日久しぶりに帰っていた。じいちゃんとばあちゃんは農家である。僕は生まれも育ちも父の地元である神戸だが、このじいちゃんばあちゃんのお米と野菜を食べて育ち、小さい頃の夏休みなどは、年のほとんど違わないいとこ兄弟と一緒に野山を駆け上がったりNintendo64をして遊んだ。

じいちゃんとばあちゃんは農家「である」と言ったけど、半分ぐらいは農家「だった」という表現も当てはまるかもしれない。ばあちゃんはまだ元気に畑をいじっているが、じいちゃんの方は、父方の祖父母とは比較にならないほどここ数年で衰弱してしまい、もう田んぼを耕せる身体ではない。そういうわけで、田んぼの方は親戚のおじさんが引き継いで管理してくれるようになった。じいちゃんが弱ったのは、心筋梗塞や肺炎などが色々と重なってのもので、今年僕がNYにいる間も、かなり危ない状態に一度陥った。母は、退院後に事後報告でメールをくれたが、親族一同、いよいよかと思うほどであったそうだ。今回帰ってきて僕自身がじいちゃんと対面した限りにおいては、1年前の印象とそこまで変わらなかったけど、それは別に元気ハツラツという意味ではなく、弱った状態でしかしどうにかこうにか命が続いてくれているというだけの話だ。毎食後に4,5錠ほどの薬を飲んでいる。よく痰がからむ。

じいちゃんばあちゃんの土地も含めて、家の周り一帯の田んぼでは田植えももう終わっていた。畦を散歩しながら、時折しゃがみこんで水の張られた田んぼを覗き込むと、大小様々な虫やカエルたちと出会う。帰ってくる直前に読んでいた本、宇根豊『農は過去と未来をつなぐ』によると、日本の田んぼには5,600種あまりの生き物がいるそうな。

夜、縁側に横になっていると、カエルと虫たちの鳴き声が絶え間なく聞こえてくる。昼間とは比べ物にならない物量で、縁側の窓ガラスを一枚隔てた外の世界は、文字通り彼らの音で隙間なく満たされ埋められている。窓を開けて外へ出れば、きっと僕もその中に溶けることができたのだろうけど、帰国直後の東京と関西間の頻繁な移動による疲れと、NYとの温度差に驚き夜を半袖で過ごしたために、ここ数日少し風邪をひいてしまったものだから、立ち上がって駆け出すほどの元気も持たず、くしゃみをしながら座椅子でうたた寝をした。

さっきまで僕もいた台所では賑やかな話し声が聞こえる。食事の後もそこに残って飲んでいるのは、母と、いとこ兄弟の両親、つまり母の兄弟であり僕からしたらおじさん・おばさんと、それからその、じいちゃんの田を引き継いで耕してくれている親戚のおじさんと、そのおじさんの姪っ子夫婦。ばあちゃんは居間でテレビを見ている。じいちゃんはその隣の寝室で早々に眠りについた。僕がそこを抜けだして縁側に来たのは、まぁ里帰りの常で、NYで何をしている、将来どうする、仕事は結婚は…となかなか決まり悪く恥ずかしく答えにくい質問が飛んでき出したからで、要は緊急避難である。

ほどなくして、「風呂が沸いたからはよへぇれ」とばあちゃんが起こしにきた。続いて母も同じことを言う。もう少しじっとしていたかったけど、一度言い出すと僕が動き出すまで気をもんで何度も言ってくる二人だから、重い腰を上げて風呂に移動した。風呂は田んぼや畑がある側とは反対側だから、縁側ほどではないけれど、湯船のなかからもやはりカエルの声が聞こえてきて、そこでまたゆっくりする。布団に入って本を読みながらそのまま眠りにつく。

翌日日曜日は9時過ぎまでゆっくり寝て、午前中に母とじいちゃんばあちゃんと一緒に墓参りにゆき、山の中腹にあるその墓の草むしりをして線香をあげ、「ばあさんがいんでしもたらここに入れてくれな」などとばあちゃんに言われ、昼はそのばあちゃんがいつも揚げてくれる大好物のコロッケを頬張り、それから車で神戸へと発った。

自己責任論のズレ

田中龍作ジャーナル | 「奨学金」という名の学生ローン 1,000万円超す借金抱える若者も
奨学金を自己責任の問題にすると日本が滅ぶ – 技術教師ブログ

奨学金の返済困難や就職難といった、若者の社会・経済的苦境の話題になると必ず出てくるのが自己責任のシバキアゲ論なのだけど、あれがなんでズレてるかって、ああいう言説の適用範囲を想像してないからなんじゃないかなと思う。

自分の人生をどの程度主体的にコントロールできるか、と考えたときに、その度合い(能力面でも意思の面でも)が大きければ大きいほど自己責任論はすんなり受け入れられるのだろうけど、その逆、個人じゃどうしようもないレベルまでトマホークをぶん投げるから不味い。

現在から見て未来を考えて作っていく場合であれば、先のことは分からないわけだし、また意思決定の主体が社会的にも自立した大人であれば「自分の人生は自分で考えてなんとかしろ」と言っちゃえるのかもしれない。
で、そういう言説を好むのは、だいたい社会的にもある程度成功して、「自分の人生は自分で切り拓けるし、切り拓くべきだ」という信念を強固にした方々なのだろうけど、彼らが自分と近しい人・近しい環境―たとえば、激務の外資系コンサル・投資銀行に自分から就活して入ってきた、それなりにタフな学生・若手社会人に対して上司・部下の関係で言うならまぁ分かる。
だけど、その言説のスコープを社会全体に広げるのは無理がある。子どもたちにはコントロールできない生まれ・育ちの時点での社会・経済的格差や、青年たちにはコントロールし切れない景気・就職の動向や卒業後の稼ぎの見通し、教育の質を無視してマッチョになれと言われても、無茶でしょ、と思う。

難しいのは、こうした話題の渦中にある20歳前後の青年期が、保護・教育の客体としての側面(子ども)と自主・自立した主体としての側面(大人)が折り重なった時期であるからだろう。加えて、社会が成熟するにつれてモラトリアム期も長くなっていく傾向にあるから、すでに中年・壮年となった方々の当時の若者感覚とは当然ギャップが生じるのであり、最近の若者は情けない・根気がない・のんびりしている・覇気がない⇒だから就職できない・奨学金を自分で返そうともしない、みたいな発想に陥りやすいのだと思う。

借りたお金は返す、というのは当然のことだし、学生支援機構の奨学金も、名前は「奨学金」だけど実態は貸与ローンであることぐらい、申し込み時にどんな学生だって書類を書きながら普通は自覚・理解する。返す当てがないなら借りるな、それぐらいの金銭的・経済的判断・マネジメントは大人なんだからちゃんとやれ、と言う人もいるかもしれない。
とはいえ、多くの学生は、高校・浪人から上がって大学に入ったばかりタイミングで学生支援機構の奨学金(ローン)を申請するわけだし、その時点に様々な不確定性・リスクを見越して、奨学金を借りるかどうかの判断を下したり人生設計をできる学生なんてほとんどいないと思うんだけど。ましてや、最初から返す気が全くなくて踏み倒してやろうなんて気で借りる人なんかほっとんどいないはず。
入学後も学業や課外活動や就活に追われるうちに、そうしたフィナンシャルプランを立てることは後回しになりがちだ。それぐらい在学中にできるようになりなさいというなら、それを教える・促す人や仕組みや教育機会はもうちょっと必要だろうとも思うし。

高い教育を受けて、ビジネスの世界でも組織を運営したり仕組み・構造を作る側に回っているような優秀な方々が、こういう話題になると急に視野狭窄のマッチョ自己責任論を振りかざすのを見ると、なんだかなぁ、と思う。

P.S.
というわけで、渦中の若者世代からしたら、なんでもかんでも自己責任論にせずに、きっちり構造上の議論や法制度改正をしてくださいよってことなんだろうだけど、「若者」という集団・立場さえもとっぱらって、一度切りの自分の人生を生きる、根源的な当事者たる「わたし」の立場からしたら、結局「今、ここ」から出来る最大限の抗いをするしかないのだ。

一度きりの人生単位で考えたら、「わたし」の生まれたタイミング・環境が不運にして相当程度不利だったり、そうした状況に対する社会的・構造的な是正措置が取られない、あるいは間に合わないこともある。それはもう当たってしまった以上仕方ないことだから、頭使って一番マシな戦略を探して行動し続けるしかない。文句言ってても誰かが助けてくれるとは限らないし、諦めたって状況は好転しない。
1)既存の仕組み・環境のなかで最大限頑張ってマシな待遇を得て、サバイブし続ける。
2)既存の枠組みを変えて新しい仕組みを作る、そのためにできる様々な働きかけをし続ける(記事にあるようなデモもその一つかもしれないけど、必ずしも有効で賢い戦略とは言えない)。
3)今いる環境から逃げ出し、よりマシな、より自分にフィットする環境や社会を見つける。  

できることってだいたいその3つしかない。あるいはその3つを同時進行的に、あるいはこまめにスイッチしながらトライアンドエラーを繰り返すしかない。

Jヴィレッジのいま – 2013.6.8訪問

福島第一原発で働く作業員の中継基地となっている「Jヴィレッジ」を見学してきた。福島県立医科大学が主催する第4回福島災害医療セミナーのコーディネートで、セミナー参加者の医師・看護師・放射線技師などの方々と共に訪問した。施設内は担当の東電社員の方にご案内いただいた。写真撮影は許可されていないので、文章で出来る限り現在の様子を伝えようと思う。

今でこそ原発事故収束のための拠点として名前が知られているけれど、Jヴィレッジはもともと日本最大級のサッカートレーニング施設だった。設立から現在までの経緯はWikipedia記事に概要が載っている。東京電力も出資社の一つだ。

福島第一原発からちょうど20kmのところに位置し、2011年3月15日からは、政府・東電・自衛隊・警察・消防隊などが事故収束に当たるための最前線基地として機能していたが、同年9月以降は、作業員の宿泊施設がいわき市内に移ったため、Jヴィレッジは作業前に作業服に着替えるための中継基地となった。

最初に案内されたのは、福島第一原発で勤務する東電社員や作業員の怪我・疾病に対応するための診療施設である「Jヴィレッジ診療所」。2年間で約6900人が利用し、受診者の症状の半分は感冒症状(要は風邪)であり。他には、ゴム手袋の長期着用による皮膚かぶれなどの症状が多いとのこと。受信者の2割ほどが東電社員で、残りはほとんどが作業員とのこと。100人程度はその他、周辺地域で除染作業に従事していた人や周辺一般住民が日中怪我をして運び込まれてくるケースなど(一般住民も当診療所を利用可能)。大人数が駐在する施設であり、感染症の蔓延も重要なリスクであるため、インフルエンザの予防接種なども行われていた。

次に案内されたのが、作業員の着替え・装備着用の部屋。もともとロッカールームだったであろう部屋で、作業員の方々が防護服に着替え、手袋などを着用していた。その隣の部屋には作業用マスクが置かれていた。作業する場所によって粉塵などのサイズも違うため、大型の特殊なマスクから簡素なものまで、いくつかの種類があった。説明を受けている時に、作業員の方が何名か入ってきて、リーダーらしき人が、その日初めて派遣されてきたであろう人に、マスクの種類やサイズの説明をしていた。福一での作業を終えた作業員が脱衣・スクリーニングをするための設備が置かれた部屋も案内された。汚染拡大を防ぐために入退出の導線が管理されている。

敷地内には小さな売店もあり、近くでは防護服を着用した出発前の作業員の方々がタバコを吸ってくつろぐなどしていた。ランチは施設内のカフェテリアでいただいたが、「ハーフタイム」という名前で、なんともサッカー施設らしい。館内を歩くと、もともとのサッカー施設としての名残を感じさせるポスターやタペストリーに、東電や作業員への応援メッセージが書かれた色紙、横断幕や、種々の事務案内(バスの時刻表や、東電からのお知らせや、社外相談窓口など)が混在していた。

震災直後は相当に緊迫した現場だったのだろうけど、今となってはとりたてて張り詰めた雰囲気はなかった。正社員もおり、バイトの中でも経験日数の多いリーダーも新入りもおり、短いながらも休憩時間があり、出発前には他愛のない世間話を交わす。昔何度か経験した派遣の日雇い肉体労働と似た雰囲気を感じた。

働きに行く現場が福島第一原発であること、被曝に備えるための装備・検査が徹底されていること、積算被曝線量が基準値を超えたらそれ以上は働けなること、危険度が高い分だけ日当が高いこと、そうしたいくつかの点は「特殊」だと言えるだろうけれど。
 
 
 
さて、このJヴィレッジだけど、6月末をもってその機能が大幅に縮小する。こちらの資料で発表されている通り、入退域管理施設が福島第一原発の正門付近に新たに建設され、6月30日から運用開始予定だからだ。作業員の本人確認や装備着用、スクリーニングや除染、疾病・傷病者の医療・診療行為は全てその入帯域管理施設で行われることになり、Jヴィレッジは自宅や宿から集まった作業員の構外移動車両への乗り降りと、その車両のスクリーニング・除染を行うのみとなり、中継基地としての役割は終了する。

Jヴィレッジの敷地全体はJFAのものだが、このJヴィレッジ診療所のみ楢葉町の所有物であり、当診療所は6月末で閉鎖されて楢葉町に返還される。診療所内にあるWBC(ホールボディカウンター)は町民の健康調査のために引き続き利用されるらしい。

JFAはJヴィレッジをいずれサッカー施設として再び利用する計画らしい。太陽の下、ここでサッカーのプレイ風景が再び見られるのはいつのことだろうか。

やさしさの手ざわり

福島市内にある、「Cafe桑の実」というお店に連れて行ってもらった。

今年の4月にオープンしたばかりで、まだウェブサイトも無いのだけど、口コミでどんどん広まったらしく、今日もよく混んでいた。
「予約しとけばよかったね」と言いつつ、店内の様子を見ながら順番を待つ。木のぬくもりが感じられる落ち着いた空間。

ランチメニューは、メインのパスタやタコライス、食後のコーヒーor紅茶に加え、こうやってビュッフェ形式で並べてあるサラダやキッシュなどのおかず、ケーキやゼリーなどのデザート、お茶やジュースが食べ放題・飲み放題。パスタの写真、撮り忘れたけど、どれも優しい味で、美味しかった。

味のある木のテーブルやプレートは、地元の「はんどめいど家具 Olive」という家具屋さんのものを使っている。

コーヒーや紅茶のカップは同じく福島県内にある会津地方の焼き物。一つひとつ店員さんがこだわって選んだらしい。コーヒーは「椏久里」という、もともと飯舘村にあった自家焙煎珈琲店から。「椏久里」は、全国から珈琲好きがわざわざ飯舘を訪ねてくるぐらい美味しくて有名なお店だったのだけど、震災後に福島に移転して営業を再開した。飯館はまだまだ線量が高くて飲食店営業が出来る状況ではない。

さて、このカフェなんだけど、位置づけとしては障害者自立支援法に基づく就労継続支援A型事業所と呼ばれる施設でもある。みなさんの住まいの近くにもあって見たことあるかもしれない、障害を持った方が働いてパンとかクッキーを売っているような施設。ああいった施設と同じ枠組み。自立支援法施行前は「授産施設」と言われていたような種類の施設。

「就労継続支援事業所」とは、障がい者自立支援法に基づく就労継続支援のための施設。一般企業への就職が困難な障がい者に就労機会を提供するとともに、生産活動を通じて、その知識と能力の向上に必要な訓練などの障がい福祉サービスを供与することを目的としています。同事業所の形態にはA、B二種類あり、「A型」は障がい者と雇用契約を結び、原則として最低賃金を保障するしくみの“雇用型”。「B型」は契約を結ばず、利用者が比較的自由に働ける“非雇用型”です。
(2011/9/26掲載)kotobank.jpより引用

言われなきゃ分かんないし、それ教えてもらったところで、へー、そうなんすかぁ、というぐらいの感じで。

福祉事業、授産施設、障害者雇用・社会参加、健常者、障害者、正常、異常、適応、不適応、格差、震災復興、被災地、地場産業、地域活性化etc.
そうしたもろもろの大文字の言葉たちなんか、料理や珈琲が美味しくて、器が素敵で、空間があたたかくて、そこで友達とおしゃべりして過ごす時間が幸せであるという、それだけのことでするっと抜けちゃえるんだよね。

人のいない町―福島県双葉郡富岡町、旧警戒区域訪問(2013年6月3日(月))

夜ノ森。はじめてその名前を聞いた時、なんて美しいんだろうと思った。春には桜が満開になって綺麗だよ、と教えてもらい、まだ行ったことのないこの場所に、不思議と惹かれていた。

実際にここを訪れたのは昨日のこと。葉桜が繁っている。

福島県双葉郡富岡町。福島第一原発からほど近いこの町は、現在も帰還困難、居住制限、避難指示解除準備の3区域に区分けされ、立ち入りや居住が制限されている。昨日、6月3日(月)、富岡町出身の藤田大さんにこの町を案内していただいた。夜ノ森駅より先は、原則立ち入ることが出来ない帰還困難区域となるため、進んだのはその手前まで。

炊き出しや仕出し等飲食業を行う鳥藤本店の専務である藤田さんは、現在富岡町からいわき市に避難している。いわき市の四倉に移った事業所を訪ね、お話を聞いてから車で出発する。国道6号線を走り、久ノ浜、末続と北上し、双葉郡に入る。そこから広野町、楢葉町、富岡町と進んだ。以下に写真と共にその道のりを紹介する。大雑把な地形イメージがつくように、こちらに双葉郡のGoogle mapのリンクを貼っておく。また、「福島民報 minyu-net」では「帰還困難」「居住制限」「避難指示解除準備」区域のマッピング(2013年5月28日現在)を見ることが出来るので、こちらもリンクを貼る。

広野町と楢葉町の境目あたりにあるガソリンスタンド。この辺りから避難指示解除準備区域になる。ちなみに、避難指示解除準備区域で出来る活動はこちら、平成24年5月9日付 原子力被災者生活支援チーム 「避難指示解除準備区域内での活動について」にまとめられている。日中の通行や住民の一時帰宅、ガソリンスタンドなどの一部の事業活動(飲食、小売、宿泊業などは禁止)、除染・災害復旧など公益のための活動が可能だ。居住制限区域になると活動は更に制限され、事業活動も要件を満たす例外的なものしか許可されない(参照: 平成24年6月18日付 原子力災害現地対策本部 原子力被災者生活支援チーム 「居住制限区域における例外的な事業継続・再開の運用について 」 )。

除染のため取り除いた土壌や枝木などが、黒い袋に詰められここに仮置きされている。

田畑のほとんどは手入れがなされず、草がぼうぼうになっている。

津波の被害も激しかった沿岸部、富岡町駅周辺へ。
「石巻いたんなら、津波の跡なんかもう見飽きたかもしれねぇけど」
藤田さんはそう言いながらも、ここは誰々の家があったところ、ここは行きつけの飲み屋、と、かつての町の記憶を教えてくれる。
「見飽きる」ということはないけれど、確かに津波の跡への「慣れ」というものはあって、基礎を残してほぼ全て流された町並みとその跡に雑草が生い茂る様子は門脇あたりを彷彿とさせるものだった。
「慣れる」ことができるのは、石巻にしろ富岡にしろ、僕が「その前」の光景を知らないからだろう。想い出を持たない土地に気持ちを寄せること、一見似たような風景の違いを知ることは、こうして藤田さんのような地元の人に伴走してようやくかろうじて可能になる。

鉄骨とホームだけが残る常磐線富岡町駅。
「昔はこんなに海が近くはなかったんだぞ。駅の向こうの家が全部流されて見晴らし良くなったけんども」

よく晴れた日、線路に花。富岡町駅、夜ノ森駅と続く常磐線は、現在は広野駅が終点となっている。

月の下という、これもまた美しい名前の通りを進む。
「この辺りが富岡町のメインストリート」
実は福島県入りした初日の5月28日(火)にも、夜に車で富岡町駅や月の下辺りを別の人に案内してもらっていた。夜、家だけが残り誰もいない町に、信号と街灯だけが光る様子は少しゾッとするものがあった。昼間に通るとまた少し印象が違う。この辺りは波が来ていないので、基本的に建物は無事だ(もちろん、人が住んでいないので雨漏りなどで少しずつ腐敗していっている)。ゆえに沿岸部よりも暮らしの面影を感じやすい。それだけに一層、無事な建物から人だけがいなくなったという事実が存在感を持つ。

夜ノ森辺りまで進んだところで藤田さんの説明を受ける。
「この車道を挟んで右側、バリケードがあるところからが帰還困難区域、左側は居住制限区域。同じ町なのに通り一本で隔てられんの」

本記事冒頭に上げた夜ノ森の桜並木や公園では、毎年春、桜の季節によさこい踊りが見られたらしい。公園の手前まで来て、その後近くにある藤田さんのご自宅に上がらせてもらってから引き返した。
 
 
以上、写真でざっと紹介したが、下記に避難区域の区分けを紹介する。
引用元は同じく上記で紹介した福島民報 minyu-net 「富岡町の避難区域再編」(2013年4月1日現在)

東京電力福島第1原発事故で全域が警戒区域に指定され、全町民が避難している富岡町は3月25日午前0時、帰還困難、居住制限、避難指示解除準備の3区域に再編された。避難区域再編は8例目。

関連ニュース記事も紹介。Yahoo!ニュース 福島民報 5月28日(火)10時22分配信 「双葉町で区域再編 バリケード107カ所に増」

藤田さんがこのように旧警戒区域の富岡町を案内するようになったのは、富岡町からいわきへ避難してきた住民と、いわき市住民の関係のしこりがひとつのきっかけだという。

 発想の元は富岡町民のエピソード。いわき市に避難した町民は、最初は市在住の知人に厚遇されたが、東電の賠償金の差などからやっかみを受け始めた。一時帰宅があり、知人もカメラを持参して一緒に行った。だが、避難から時がたった家の惨状を目の当たりにして撮影できなかった。その後、知人のわだかまりは薄れたという。
 帰還を前提とする国の方針に疑問を持つ藤田さんは「現状を見て感じてもらえば同じ目線で会話できるのでは」と警戒区域が解除された自宅や勤務先を案内する。(毎日.jp 毎日新聞 2013年05月30日 01時29分 「記者の目:いわき市 避難者と市民の溝=町田徳丈」)

「おめたちとこ線量低いのに、お金ももらっていつまでも帰還しないで何やってんだべ、なんてことも言われるわけよ」
富岡町を始め、旧警戒区域内でも、上述3つの区分による受ける補償や賠償額に差が出てくる。一方でもちろんいわきの人びとも被災している。藤田さんの鳥藤本店は、幸運にも震災後の4月からいちはやく事業を再開することが出来たが、慣れない土地で新たな仕事を見つけることができない人、今までとは違う職種・業種へ転職することを躊躇う人も少なくなく、全ての避難民が仕事を再開しているわけではない。石巻でもパチンコ店が連日繁盛していたが、なまじ寄付金・補償金・賠償金の額が大きいと、自ら働き生活を立て直す力が失われてしまうこともままある。
放射線物質は風や雨の影響で様々なエリアへ不均等に拡がっていったから、行政が定めた帰還困難、居住制限、避難指示解除準備の3区分と、線量のグラデーションは決してきれいに重ならない。
そうした様々な要素が絡み合い、いわき市内での市民・避難民間の軋轢が生まれている。
(参照: 毎日.jp 毎日新聞 2013年05月24日 東京朝刊 検証・大震災:福島・いわき市の現状 共生遮る誤解の連鎖)

「こうして一緒に回って、直接目で見てもらって話をすると、分かり合える部分もあると思うんだよな」

こうした分断状況をなんとかしたい、繋がりを生み出したいという思いから、有志の人びとが現在「いわき未来会議」という市民活動を立ち上げ、対話を続けている。藤田さんの旧警戒区域ツアーもこの未来会議から派生した活動だ。

差異や格差に注目してばかりいると負のスパイラルから抜け出せない。いかにして共通の土台を作っていくか。

藤田さんをはじめ、こちらに来て出会った人たちから感じた、強く前向きなエネルギー。
今日から北上して福島・相馬・南相馬へ。また来たいと思う。

※1
気になる方もいると思うので参考までに放射線関連の情報と補足説明を。放射線低線量被曝に関しては僕自身の専攻である公衆衛生(Public Health)が大いに関わる分野であり、それなりに勉強してきてはいるので、近いうちにまとまった解説記事を書きたいと思う。

まず、福島県放射能測定マップで空間線量の測定結果を確認することができる。ミクロに見ていくと同じ町内でもずいぶんと振れ幅があるが、今回回ったエリアはおおむね1〜2μSV/h(マイクロシーベルト毎時)といったところだった。水の流れなどが影響して、20μSV/hほどに跳ね上がるホットスポットとなっている場所もいくつかあった。
数字だけ出してもそれが何を意味するのか分からないと思う。上述の通りまとまった解説は後日に譲るが、下記ではざっくりと目安を。

被曝による健康への影響だが、広島・長崎の原爆被爆者の追跡調査やチェルノブイリ原発事故の被爆者追跡調査などで取得・分析されたデータが主要な予測・判断基準となっている。ICRP(国際放射線防護委員会)の公式見解では、自然被曝以外に生涯で通算100mSv(ミリシーベルト)を被曝すると癌で死亡するリスク(確率)が0.5%上乗せされるというものだ。生涯通算100mSv以下の被曝の場合の健康影響は、今のところよく分かっていない。そこで、わからないながらも被曝線量と癌死亡リスクの上乗せ率は比例関係にあるだろうと考えるのが、線形しきい値なし仮説(LNT)になる。これもあくまで仮説にすぎないが、保守的な見積もりとしては悪くない。

ところで、原発事故がなくとも、我々は日常生活のなかで自然に発生する放射線に被曝している。自然被曝の世界平均は、年間で約2.4mSv、日本は2011年末の調査結果で平均年間2.09mSvと言われている。X線診断などのいわゆる医療被曝というものもある。つまり、放射線被曝をゼロにするということは不可能である。その上で、自然被曝以外の余分な被曝をどのぐらい気にして、どの程度までおさえるべきかというのを考えなければならない。それを考える際に上述の先行研究が重要になる。

ICRPは今回のような原発事故が起こってしまった時の被曝基準を、事故直後の緊急時被曝状況と、事態が落ち着いた後の汚染地域での生活である現存被曝状況に分けて考えている。現存被曝状況では、年間1〜20mSvミリシーベルトの範囲のできるだけ低いところにとるよう勧告がなされている。

さて、富岡町周辺の空間線量に当てはめて考えるとどうか。
まず、ミリシーベルトとマイクロシーベルトの違いに気をつけなければならない。ミリはマイクロの1000倍である。上述の放射能測定マップで示されているのはマイクロシーベルト毎時、つまり一時間あたりの空間線量率だ。おおざっぱな年間被曝量の見積もりは、下記のようなものがある。
人は1日の24時間のうち8時間を外で過ごし、16時間を屋内で過ごし、屋内では放射線が4割の大きさに減るという仮定のもと考えると、8時間+16×0.4時間=14.4時間を屋外で過ごすと見なすことができる。この「1日の長さ」に1年の日数をかければ、14.4時間×365=5256時間≒5260時間となる。
よって、おおざっぱに一年間を約5000時間と見なして線量率をかければ良い。ミリはマイクロの1000倍であるため、空間線量率(μSv/h)の数字を5倍して単位をmSVに変えれば分かりやすい。
なので、1〜2μSV/h程度の地域に1年間住むと、外部被曝だけで1〜2mSV/yearの被曝となる。これらに呼吸や食事を通じた内部被曝が加わることになる。ICRPの現存被曝状況勧告範囲内に収まってはいるが、もちろん、原発事故も何も起こっていない、平時の被曝量よりはかなり多くなる。仮にここで80年間ずっと過ごしたとしたら、生涯80〜160mSVの被曝となるので、癌死亡リスクが有意に上昇するレベルだ。居住制限がかかるのも妥当と言えるだろう(上述の通り、3区分による地域分断など、被曝とは別の問題があるとはいえ)

一方で、僕のようにほんの1,2時間訪問・滞在する程度での被曝量は、ほとんど無視して良いレベルだと思う。
とはいえ、進んで余計な被曝をすることもないわけで、今回も手袋やマスク、靴を包む袋などを藤田さんから渡されて着用した。こうした防護策は、風邪や食中毒対策として普段から手洗いうがいを気をつけるようなレベルとして、多少線量が上がる地域ではやっておくと良いと思う。

※2
上記紹介記事・PDFは全て2013年6月4日(火)アクセス