自分の痛みに名前をつける。浦河べてるの家の当事者研究に教わったこと

咳が出ない。曇天の下、ただひたすらに続く国道235号線を走る道中でふと気づいた。オフィスから物理的に離れるだけでこんなにわかりやすく収まるのかよと笑ってしまう。そしてようやく、ああ自分はやはり相当に無理をしていたのだなという事実を受け止める。

東京のクリニックで適応障害の診断書を受け取った2週間後、僕は北海道にいた。新千歳空港から車で2時間の浦河町へ向かう。北海道の地図を見て、下の突起部分の少し手前に位置する、人口1万2000人の小さな町だ。そこにあるのが今回の旅の目的地「べてるの家」だ。

べてるの家は、浦河町で1984年に設立された、統合失調症などの精神障害のある当事者が営む地域の活動拠点だ。誰かに保護・管理されるのではなく、自分自身が「苦労の主人公」となって、自身の症状や困りごとについて、仲間と分かち合いながら研究していく「当事者研究」発祥の地として知られている。統合失調症の症状の一つである幻覚・幻聴を「幻聴さん」と呼び、自分の隣人として外在化することで病気との付き合い方を変えていく。そこから派生して生まれた「幻覚妄想大会」や「幻覚妄想かるた」というユニークな活動を、耳にしたことがある人もいるかもしれない。

そんなべてるの家の人々が毎年8月に開く「べてるまつり」に参加してみようよと、知人に声をかけてもらったので、行ってみることにした。誘ってもらった当時は、まさか自分がこんな状態になっているとは思いもしなかったけれど。

「このタイミングでべてるに行くの、なんか呼ばれてるみたいだな」と、自虐3割・期待7割の変な感情を抱いたのを覚えている。

適応障害になったばかりの駆け出しのビョーニンが、大先輩たちの姿を見て何を感じ、考えたかを、ぼそぼそと綴りたいと思う。

病気に名前を与え、「隣人」として付き合うこと

「で、あんた、なんのビョーキなの」

べてるまつりのプログラムを終えた夜、懇親会会場で出会った彼女に僕はこう問われた。小川和加子さん。浦河に来て約20年になる、べてるの家のメンバーの一人だ。

「適応障害です。あと…ADHDと、どもりもあって」
「なんだぁ、イケメンかと思って話してみたら中身しっちゃかめっちゃかなんだねぇ」

問われるままにたどたどしく答えてみたら、「しっちゃかめっちゃか」だと大笑いされた。つられて僕も、ヘラヘラと笑う。この時スーッと、気持ちが楽になったのをよく覚えている(ちなみにイケメンというのは和加子さんが言ってくれたから”引用”しているだけであって、僕が自称したわけではない。いやほんと)

和加子さんに問われた僕は、医師からの「お墨付き」である診断書をもらった適応障害に加えて、診断はないけれど、長らくマイルドに自分の生きづらさを形成してきた特性や症状についても、勢いのままにポロポロっと付け加えていた。初対面にもかかわらずそんな話をしたのはきっと、ここではそれが「正式な」診断かどうかは大きな問題にもならない、むしろ平凡すぎて埋もれてしまうぐらいであることが、べてるまつりに参加してわかっていたからだろう。

べてるの家の人たちの病気との付き合い方は、実に自由で軽やかだ。

「統合失調症精神バラバラ状態」
「人間アレルギー症候群バツつけ型」
「統合失調症サトラレ型」

などなど…一人ひとりが実に多種多様な「自己病名」をつけている(ちなみに和加子さんは、「明るい躁うつ病笑い型」とのこと)。

名前をつけること。医師という「専門家」に与えられた診断名ではなく、自分で名前をつけるということ。それは自分が抱えている「苦労」を、誰かではなく自分自身の手に取り戻して引き受けるということであり、自分を脅かす、得体の知れない存在であった「病気」を、かけがえのない「隣人」として捉え直す行為だ。

自己病名をつけることに始まる、べてる家の当事者研究では、病気の症状や苦労を人生の中でどう位置づけ、どう付き合っていくか、自分自身で決めていく。他人から見てえらく大変そうな症状であっても、本人にとって問題でなければそれで良い。逆に周囲からちっぽけな悩みに見えても、それが本人にとって重大事項であれば、研究し、向き合う価値のある苦労なのだ。

 

僕にとって、べてるの家に行く前に適応障害の「診断」を受けたこと自体は、ネガティブなことではなかった。やっぱり自分は無理をしているんだと気付き、立ち止まるきっかけになったからだ。だけど、診断を受ける前から日常生活の端々で感じていたマイルドな生きづらさを、「もっと大変な人と比べたらそうでもない」と、無理に押さえつけていた部分はなかっただろうか。

「ビョーキなんです」とためらいなく言っていいということ、専門家ではなく、自分自身の苦労の実感から語っていいということが、こんなにも気持ちを楽にしてくれるのか。なんだか救われたような気がして、ヘラヘラと笑いながら泣いていた。

べてるの風は、僕らの街にも

「ここには安心して弱さを開ける空気があるけれど、じゃあべてるの人たちが東京で暮らして働けるかといったら、それは難しいかもしれないよね」

浦河から少し離れた町の宿に戻る道中で、一緒に行った知人の一人が、そんなことをポツリと口にした。

 

そうかもしれないし、そうではないかもしれない。ハンドルを握りながら僕はぼんやり考えていた。

浦河という土地が背負ってきた歴史。べてる家の人たちがこれまで積み重ねてきた文化や実践は、確かに一朝一夕で出来上がったものではない。いま現在の東京、特に目まぐるしく動くことを求められる企業の現場において、べてる家のようなペースと空気感で一人ひとりが当事者研究を行う余裕がある空間は、まだほとんど無いといっていいだろう。だけど、ここだけが特別で再現不可能な「ユートピア」なのかと言われれば、それはそれで違うように思う。

「ここの人たちは、病気の症状に関して言えば、決して治りきっているわけではないんだよね」

べてるの家に設立時から関わり続けている、ソーシャルワーカーの向谷地生良さんはこう語る。

「自分の言葉を発するということを、ずーっと押さえつけられてきて症状がひどくなっちゃった。そこからべてるに来て当事者研究を始めて、自分の言葉で語り直すことができるようになった。するとそこで、病気なのに心が健康になっていくということが起こってくる」

幻覚・幻聴や妄想、気分の浮き沈みの激しさといった精神疾患の症状は、多くの場合、なくすべき・治すべき「問題」として捉えられる。そして、そうした症状を抱える当事者は、専門家や支援者、家族などの周囲の人から心配され、時には保護・管理される客体として扱われてきた。だけど、当時の彼らに本当に必要だったのは、症状を消すための薬ではなく、そもそも本人が何に困っていて、何を感じているのかを自分の言葉で語る機会であり、それを現実のものとして受け止める関わり方だったのではないだろうか。

「あの人はビョーキだから」
「あれは妄想だからまともに相手しちゃダメだよ」

自分の訴えをまともに取り合ってくれない周囲の人たちに比べれば、なくすべきものと扱われたきた幻覚・幻聴の方が、彼らにとってよほど現実感のある存在だったに違いない。べてるの人たちが自分たちの症状に「幻聴さん」という人格を与えるのは、彼らを現実の存在として外在化し、対話することで、逆説的に自分自身の言葉に気づき、取り戻すことにつながるからなのだろう。

翻って僕たちの日常はどうだろうか。

幻覚や妄想症状が起こるほどでないにしても、「自分の声」を押さえつけられる、あるいは自ら押さえつけてしまう場面は決して少なくはないように思う。

「うつ病になったけど、周囲には言えない、休めない」と思って、より一層無理をする人。「いま自分が踏ん張らなければ現場が持たない」と言って、どんどん責任を抱え込む人。

心の病気は良くないことという前提が、ますます症状を重くする。弱さを開けないでいることが、ますます心身を摩耗させる。誰が決めたわけでもない暗黙の前提のもとで「我慢」を続けることで、どんどん自分の声が聞こえなくなっていく。こうした構造やプロセス自体は、べてるの人たちが精神疾患を発症し、重篤化していったプロセスと、ほとんど重なるように思う。

であれば、それを防ぐ方法、あるいはそこから回復する方法も、べてるの人たちから学び、共有することができるはずだ。

先述の小川和加子さんを含む、べてるで暮らす女性数名の暮らしを映したDVD『べてる流 女の一生』では、当事者研究のミーティングで、若いメンバーの一人に対して和加子さんが厳しい言葉を投げかける一幕がある。

「ちゃんと自分助けしなきゃだめだよ。ミーティング出て、当事者研究やって、自分の声聞かないとだめだよ」


自分の声を聞いて、“ちゃんと”自分助けをする。自分が当事者であることから逃げないこと。べてるの家の当事者研究は、決して「傷のなめ合い」的な共依存関係ではない。それぞれのありのままを受け止めつつも、一人ひとりが自分の人生の主人公になれるのだという、強い理念と信頼によって支えられていることを感じる言葉だ。

べてるまつりから帰って、自宅でこのDVDを見た僕は、自分も和加子さんに叱られているような気持ちになった。


「やりがいのある仕事、上司、部下、同僚の期待に応えたい」
「自由にやらせてもらってるんだから、自分で決めてなんとかする」
「いま踏ん張ることで、未来にはもっとできることが増える」

…ひとつひとつは、それ自体、間違ってはいないのかもしれない。でも、その中で気泡のようにプツプツと湧いてくるかすかな違和感を、「いったんそれは後で」と押さえつけてしまい、自分助けをしてこなかったのは、他ならぬ僕自身だろう。咳が出て、動悸がして、そうやって身体が悲鳴をあげてようやく教えてくれた。そろそろ自分の声を聞くべきだよ、と。

自分の声を殺してしまうということ、その積み重ねによって少しずつ壊れていくということは、いつ、どこにいて働いていても、誰にでも起こりうる。その意味で、僕と、これを読んでいるあなたと、べてるの家の人たちは地続きで繋がっている。

同時に、どれだけ壊れて傷ついても、またそこから自分助けをすることができる、回復していくことができるという点でも、きっと僕らは、地続きである。

浦河と東京。それぞれに流れている空気も時間も、ずいぶんと違うことは確かだ。だけど、慌ただしい日常の中でも、自分の声を大事にして、耳を傾けることはきっとできるだろうし、その方法を誰かにシェアすることもできるだろう。もし身近な誰かが、僕と同じように自分の声を見失っていたとしたら、「一緒に当事者研究やってみようか」と、声をかけることはできるかもしれない。

まずは弱りきった自分を助けることからだろうけど、今ならその苦労も、楽しみながら味わえる気がする。

それでもくたびれた時は、また和加子さんに笑い飛ばしてもらいに行くんだ。

「挫折じゃないさ、左折さ。ちょっと寄り道がいい道かも」と書かれたホワイトボード。浦河訪問時に筆者撮影

※本稿は、2018年に筆者が適応障害を発症後、浦河べてるの家の「べてる祭り」に参加した経験をもとに執筆したエッセイである。公開当時、他のメディアに掲載されていたものを、一部修正して本ブログにアーカイブした。