ドライバーデビュー初日のこと - 令和タクドラ日記 第4回

タクシードライバーとしてデビューしたとき、僕は不安でいっぱいだった。

教習所で二種免許の取得後、タクシーセンターが主催する地理試験などに合格。そのあとは、所属するタクシー会社で社内研修にうつる。

タクシー車内に搭載されたナビや決済機器の使用方法、そして、会社ごとに定められた接客ルールなどが教えられる。

約1週間の社内研修を終えると、晴れて独り立ちである。ひとりで街に出てのタクシー営業が始まる。

僕は、離婚をして、住んでいた静岡県から出て、とりあえず川崎に移住しただけの人間である。

だから、横崎タクシーの営業区域である、川崎市、横浜市には土地勘がない。土地勘がない人間がその街でタクシードライバーをやって大丈夫なのか。

これが一番の不安材料だった。

お客さんが乗り込んできて、「横浜のみなとみらいに行って」と言われたとき、どうしたらよいのか分からない。だって、行ったことがないのだから。

お客さんに向かって「行ったことがないので、どうやって行ったら良いのか教えてください」と言えば良いのだろうか。

社内の新人研修で、研修担当者にこの質問をぶつけた。

「なんとかなります。みんななんとかしてますから」

「それでは困ります。タクシー業界は人の出入りが激しい。僕のように、まったく土地勘のない人間も入社してきますよね。そういう人間のための教育マニュアルはないのですか」

「ありません」

「ない?本当にないのですか?」

「そんなもの、ないよ。とにかく現場で走って、自分で考えて、道を覚えていくしかないですよ」

研修担当者は、さらりと答える。

「じゃあ、あなたが新人だったとき、どういう風に道を覚えたんですか?」

「もう二十年くらい前のことで……あまり覚えていないなあ。とにかく、がむしゃらに頑張ったら、道を覚えていた、としか言い様がない」

「ぜんぜん参考にならないんですけど!!」

研修担当者があてにならないので、喫煙スペースで煙草を吹かしている先輩タクドラに、初日をどう迎えたのか、片っ端から聞いてみた。だいたい、3つのパターンの回答を得た。

先輩A「昔のことだから忘れた」

先輩B「道が分からない、というのはプロじゃない。とにかくガンバレ」

先輩C「まだ新人なので、行き方を教えてください、と丁寧に言えば、お客さんは教えてくれるよ」

9割のお客さんは、新人だと言えば、道を教えてくれる。

ちょっと安心した。

さて、初日がやってきた。

とりあえず、京急横崎駅のタクシーロータリーに付けた。

京急横崎駅は、京急線の鶴見市場駅と鶴見駅の間にある。横崎タクシーから一番近い駅である。

20台くらいのタクシーが駅から出てくる客を待つ。一台ずつ、乗り場に並ぶ。お客さんが乗り込んできたら、次のタクシーが、その乗り場に前進する。

僕の順番がやってきた。

緊張が走る。

乗ってきたのは背広を着た中年男性。

「日産の工場まで。大黒ふ頭の。第3地区」

研修で教えてもらった場所である。

「かしこまりました」

マニュアル通りに接客した。

後部座席のドアを閉めて、タクシープールから出る。

今日、僕に配車された車両は、日産セドリックである。いいぞ、日産に向かうお客さんを乗せるには良い流れだ。

信号待ちの時間に、神奈川県の地図をひろげて、目的地の日産の工場の場所を確認する。道を全く知らないドライバーだと気取られないように。ルーティンで地図を見ている、という演技をした。

お客さんは静かに、座っている。運転席に座っている僕が、タクシードライバーの初日であることは知らない。

「初日なんですよ」と声をかけるべきか。いや、やめておこう。

大黒ふ頭に近づくに連れて、国道を走るトラックの数が増えていく。横浜市鶴見区の大黒ふ頭は、横浜の物流の拠点である。港湾関係者、物流関係者がひっきりなしに走っている。セドリックがそのトラックのなかに飛び込んでいく。

国道15号線を西に向かう。キリンビール工場を左手に見て左折すると、大黒ふ頭に向かって南下する。視界に入るのは、首都高速道路のジャンクション。コンクリートと鉄骨でできた巨大な大蛇のような高速道路が架かっている。大型トラックが首都高速道路の入り口に入っていく。僕はセドリックで南下する。

橋を渡って、食肉市場を通り過ぎる。

300メートルほど走ると、左手に日産工場第3地区が見えてくる。白い工場建屋に、シルバーのダクトがむき出しになっている。日産は神奈川県を拠点にしているグローバル企業だ。日産のない大黒ふ頭はありえない。ゴーン社長はレバノンに逃亡したが、自動車不況になっても、日産の工場労働者は生産現場から逃げることはない。工場を動かして国内外で金を稼ぎ、タクシードライバーにもその恩恵はまわってくる。

目的地の第3地区、バス停の近くで停車した。

「ありがとうございました」

料金を現金で受領。領収書を手渡しして、お客さんは工場に向かって歩き出した。彼にとって僕はただのタクシードライバー。僕にとって彼は初めてのお客さん。この後ろ姿を忘れることはないだろう。ドアを閉める。周囲を確認する。後ろから時速50キロ以上で、大型トラックが走ってくる。何台も。バックミラーで後方の安全を確認。ウィンカーを右に出して、ゆっくりと発進。

無事に初日、一人目のお客さんの対応に成功した。

車内でひとり。じわりと喜びがこみ上げてきた。

国道15号線に戻って考えた。鶴見駅につけるか、横崎駅につけるか、流し営業で走るか。

流し営業を選んだ。研修で教えてもらった、営業ルートの定番である道に向かってハンドルを切った。

そして目指すのは、川崎だ。僕が住んでいる街なので、自転車と徒歩で少しだけど地理が分かっている。

二人目のお客さんは、鶴見区仲通りにいた。川崎に行くのは後だ。手を上げた女性を乗せた。行き先は鶴見駅。「近くてごめんね」と、乗り込んできた。「いま鶴見駅に向かっていたので、ありがたいです」「あら、そうなの」「実は、僕、今日がタクシードライバーの初日なんですよ」「それはたいへんねえ。じゃあ、道は……」「ぜんぜんわかりません」「でも、鶴見駅には行けますよね」「それは大丈夫です。この道をまっすぐ北に行けば着きますよね」「あはは、面白い運転手さんだね。がんばってね」

鶴見駅に到着。初乗り料金をいただいた。

すぐにタクシープールに並ぶ。十数台の待ちだ。30分以上は待機になるだろう。

エンジンを止めて車外に出た。すこし伸びをして鶴見駅を見渡した。

タクシードライバー人生が始まった、と思った。

二人のお客さんに、正直に「今日が初日なんです」としゃべったことでかなり不安が消えた。

3人目のお客さんが乗り込んできたときに「●●まで」と目的地を告げられたとき「新人なので、地理に不案内で……」と言いかけたら「じゃあ、降りる。ほかのタクシーに乗る」と降りていかれた。

これは仕方が無い。

4人目のお客さんに「新人なので、地理に不案内でスミマセン」と言うと「何日目ですか」と返ってきた。初日、と言うと、降りられてしまう、と思ったので「実は今日で3日目です」と説明したら、「ああ、そうなんだ。じゃあ、道順を教えますよ」と明るい声が後部座席から返ってきた。

先輩タクドラが言うように、9割のお客さんは親切に道を教えてくれる。これは正しかった。

初日なので無理はしないと決めていた。10回営業した時点で帰庫した。まだ明るいうちに帰庫して、納金の仕方を教えてもらわないといけない。

帰庫すると運行管理の担当者が僕を待っていた。

「お疲れ様です」「無事に帰ってきました」「それが何より。事故がない。それがタクシードライバーの一番の仕事ですから」

日報を見せると「ふん、ふん。初日にしては上出来でしょう。何かトラブルはありましたか」「今日がタクシードライバーの初日です、とお客さんに話したら、笑われました」「接客業なので笑ってもらえることは良いことです。そのうち、接客のやり方がわかってくるし、七海さんらしい接客ができるようになります。慌てず、安全運転でがんばってください」

こうしてタクシードライバー初日が終わった。

※横崎駅は存在しない。フィクションです。