よくやっている。―2022年6月22日の日記

 部屋の片づけは心の片づけだとはよく言われることかもしれないけれど、まさにそうだと実感している。いや残念ながら、そんな言葉を吐けるほど私の部屋はきれいではないのだけれども。夕方、スペチャで友人たちと話しながらざっと部屋の片づけをした。もう長いこと片づける気が起きないのに身を委ねていたら、とんでもないことになってしまい、気が滅入ったのだ。私は誰かと雑談しながら家事をすると捗るという癖があるので、あわいで友人たちに呼びかけたところ、お手すきの二人が集まってくれたというわけだ。小一時間ほどしゃべりつつ体を動かして片づけをすると、からだは汗ばんだ。これはいい。気持ちがいい。今日はざっと片づけただけだけれど、明日は掃除機をかけて、あわよくば雑巾がけまでしてしまいたい。

 今日は消化器科受診の日だったのだけれど、行かなかった。だって思うのだけれど、あわいでしばしば書いてきたとおり、私が食べ過ぎてしまうのは、慢性的に抱えている寂しさやら使用している睡眠薬によるものが大きいので、医者から「食事制限しなさい」と言われたとて、今の私には無理だと思う。だって食べることで補われている何かがあり、それによってバランスを保っているところがあるから。だからといって現状のままでいい、何もしないというわけではなく、朝はラジオ体操をする、朝起きられるように定時に睡眠薬を使ってしっかり眠る、寂しさは読書やら書き物やら音楽やらでやり過ごす、そのための手段をたくさん持っておく、息子と一緒に近所を散歩することを楽しむといったことを一個一個地道にやっていった上での食事制限だったり減量だったりするのではないか。内臓の数値が危険値なのは分かるのだけれど、その面だけを切り取って対処しようとするのではなく、私という人間全体を包括的に見ていく必要があるのではないか。

 そんななか今日は、朝は5時にスッキリと目覚められたし、朝からラジオ体操を第2までやったし、寂しさもとい退屈さも読書やら歩き回ることやら片づけやらでしのいだ。なんてすばらしいのだろう、私は。ほんとうによくやっている。書くことがすばらしいのは「よくやっている」と書けば、心からそう思えてくることだ。言葉が心に、からだに浸透していく。

 ただのなんてことない一日。なんてことない日々が過ぎていく。もう6月も22日なんて驚いてしまう。上半期を振り返ろうかと思ったけれど、面倒で先延ばしにしてしまった。だけれど、この半年間で私は確かな手ごたえをいくつも感じた。友人との関係や、自分がしてきたこと、向かっている方向がなんとなくこれでいいんだということ。将来やキャリアのことを考えると、ムショーに心配になることもあるけれど、大丈夫、私はよくやっている。よくやっているのだ。この日記を最後まで読んでくれたあなたも大丈夫。よくやっている。幸あれ。