回復の日々―2022年6月18日の日記

 疲れが溜まっている。それはもうしばらくの間ヘドロのように私に張り付いていて、なかなかいなくなってくれない。私は自分のことで精一杯で、息子のことを十分に気にかけてやることができない。

 昨日、息子が通っている放課後等デイサービスへ迎えに行ったとき、担当の相談員さんから「最近どうですか?」と尋ねられた。「息子は元気ですが、私が疲れていて……」と正直に漏らしたところ、「いつでもショートステイを使ってくださいね」と温かい言葉をいただいた。息子は嫌がるだろうが、心身ともに元気な大人が世話した方が十分にケアされることを考えると、そうした方がいいのかもしれない。

 今日は土曜日だけれど、今朝も放課後等デイサービスに息子を送り出し、仕事をする。昨日取材したカフェの記事を書くのだ。書いていて、カフェの店長をしている友人への思いが溢れてきて、温かい心持ちになる。こういう友人が複数いることが、私の日々を豊かにしてくれている。

 目の前にいない人のことを思うことは、幸せなことだ。会いもしないし直接言葉を交わすこともないけれど、その人たちが幸せであるようにと願うことが、私自身をケアしてくれるような気がする。

 昼前に近所の生鮮食品店で、タコとアジの刺身を買う。実家に行って、食べる。食べ終わったら、ソファで眠る。そして帰る。こんなことができるのは、世界で唯一実家くらいのものだろう。

 着替えて、駅前複合施設へ出かける。お気に入りの丸テーブルに腰かけ、自由帳へと頭に浮かぶことをつらつらとメモする。「何も出てこない」と感じる。出涸らしのお茶みたいだ。大事なことは何も出てこないし、何も入れられない。もうずいぶん長いこと本を読めていないし、映画だって観られていない。何かを出したり入れたりするための余白のようなものが足りていないのかもしれない。ある面から見れば、満ちているのかもしれない。満ちているものが溢れだしたら、また何かを紡げるようになるのだろうか。

 帰宅して、また眠る。眠る。眠る。眠ることで何かを取り戻そうとするかのように。何も出てこないのに綴るのは、この回復の日々が私にとって大切だからだ。何かが起きたとしても生きてゆけるという、未来の私へのメッセージ。だから私は今日も、日記を綴る。