なんとはなしに様子は知っていながら、でも今は本人にとって大事な時間なんだろうなと思って、そして最近ちょっと風が吹いたような気がしたから、「お茶でもどうだい」と、友人に連絡をした。
二子玉川駅からちょろっと歩いて、川沿いのカフェでお茶兼ランチ。直接会うのは2年ぶりぐらいかな。ムスメもつれて、ゆるゆると。
「苦しむ自由を奪わない」という言葉が印象的だった。
家に帰ったらちょうど『違国日記』の6巻が出ていたことに気づいて、Kindleでポチッとして読んだら、タイムリーにも、「せっかくなら苦しんで生きたいでしょ」という台詞が。それから、「孤独に水をやる」ということも。
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午後、チケットを買っていた「ALS患者さんに聞こう! ON-LINE」Second StageのYouTube配信を観る。発表者1人1人の日常生活においても、発表方法においても、そのコミュニケーション方法の多様性が印象に残った。
・口文字
・透明文字盤
・スイッチ類
・介助者による代読
・メールやチャット
・打ち込んだ文章の機械音声による再生
・「コエステーション」(AIによる合成音声、前者よりかなり本人の肉声に近い)
などなど…
本人の症状進行と身体機能、介助者(ヘルパーや家族)との関係性、コミュニケーションを必要とする場面ごとの環境(同期か非同期か、道具を使える環境か、介助者の手が空いているかetc.)、パターン化しやすいものかどうか、突発的か準備をできるものか、そしてそれぞれの文化や価値観。さまざまな要素が影響しながら、さまざまな選択肢の中から、いずれかを、または複数を、使い分けたり切り替えたりしながら、なのだろう。
「コエステーション」による発話は、WITH ALSの武藤さんが使っているのを何度か聞いたことがあるが、今回の発表者の中でも1名使用している人がいた。本当に、なかなかの精度というか、本人たちも自分の肉声に近いと評するぐらいの品質で、技術の進歩を改めて感じる。これによって希望を抱ける人も多くいるのだろう。
ただ、どんなツールも万人にとって最良で万能、というわけではない。「肉声」または「自分の声でしゃべる」ということに対しての感じ方、考え方も人それぞれだろう。コエステーションでの音声に対しても、「かなり近い」〜「やっぱ違う」まで、個々人・また同じ人の中でもさまざまな感じ方があるだろう。先天的に言語障害がある人(声は出せるけど言葉や文章はしゃべれない)と、ALSのように中途障害で徐々に声を失っていく人でも違うだろう。使う中で少しずつ馴染んでくる面もあるだろう。
「吃音」の当事者の中でも、色々工夫してほとんどどもらなないようになっていくことを、「本当の自分を出せていない」と捉えるか「それもまた自分」と捉えるか、人によって違うという話を思い出した。
コミュニケーションは、意味情報の伝達だけで成り立っているわけではない。音、声、言葉、受信と発信についての考え方・感じ方、文化や身体的要素も影響してくる。
関係性の中で、(変化の可能性も含みながら)そのつど本人にとって心地よい方法を「選んでいく」こと。一度で終わりではなく、チューニングを重ねていくこと。
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夕方4時を過ぎてもまだまだ暑い。ムスメとツマと3人で近所の公園へ。砂遊び、ブランコ、からのかくれんぼ。4歳ぐらいのおにいちゃんが、途中からかくれんぼに参戦。ムスメも打ち解けて楽しそうに遊んでいた。一緒に遊んでくれてありがとね。
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沖縄から立派なパイナップルが3つ届く。沖縄の人と結婚した姉と、夫の人からの贈り物。めっちゃ甘い。めっちゃうまい。