おばさんになったら

 年を重ね、装うことに対して無頓着になった。前は違ったのに。かつては、ほかの人の目線を意識し、自分をより素敵に見せることを私なりに楽しんでいた。でも今は違う。気づいたら地味な服ばかり着ている。子育てがはじまってからは特にだ。一着で済むから楽だとワンピースを購入することも多く、おしゃれに対して消極的だ。いつの間にやらふくよかな体型になり、からだの線を強調させない、身幅のゆるい服ばかり持っている。

 おしゃれすることは身に着ける服や小物、髪型を通して自己表現することだ。「自分はこんな人間だ」と意識してあるいは無意識のうちに意思表示することである。この世界に対し、装うことで私という人間をどう示していいのかが私には分からない。その手がかりがふんわりとしか掴めない。どんな服を着たらどういうメッセージになるのか、あるいはならないのか、さほど知らないのだ。そういうわけで、無難で地味な格好を私は選んでしまう。装うことに対して戸惑いがある。

 それからあまり目立ちたくないという心理も働いている。狭い田舎町で出会い、すれ違うたくさんの人たちの中に埋もれていたい、自分を隠していたい。だから人とそれほど違いのない、私が思う「普通の」服を着る。なるほど、もしかすると不特定多数の人とのコミュニケーションに対しておびえがあるのかもしれない。なるべく人から突っ込まれない無難な服を選べば、服のせいでコミュニケーションに摩擦が生まれることはない。そんなことを無意識のうちに思っている。変なの。文章を書いて表現することには躊躇しないくせに。

 しかしここ数カ月で小さな変化があった。昨年、生理不順で婦人科を受診したのがそもそものきっかけだ。長らく自分のからだを軽んじおろそかにしてきたことを私は突きつけられた。たとえば食べ過ぎることは、自分のからだをぞんざいに扱うことだと。そうして私は自分のからだを意識的にケアするようになった。和食中心の食事に変え、野菜を多く摂ることを習慣づけた。健康や食に対する関心の高まりは美容への関心につながり、スキンケアを見直した。生活習慣の中で自分を大切にすることを覚えたのだ。それは他者の目線を意識する手前の基盤を整えることでもあった。

 スキンケアの効果が出ると、人から「きれいだね」とポジティブな声かけをもらう。ヘアケアにも注意を払うようになり、さらに「なんだか艶っぽくなったね」と言ってもらう。この好循環もゆきすぎると不健康につながってゆくのだろうが、今のところいい塩梅でとどまっている。まだ装うことに対してそれほど関心が高くはない。しかし服を着ることで明確になるからだの輪郭にも少し自覚を持つようになった。

 ところでうちの子は春に小学生になる。入学式は保護者にとっても他者の目線を意識して装ういい機会だ。久しぶりに一着を悩み考えて選ぼうと、買い物に出かけた。子のハレの日だ。何を着よう。そうして私が選んだのは、結局普段着としても使えそうな、それでいてきちんとめの、紺色のロングワンピース。リネンでできている。相変わらず地味だ。そうそう簡単に人は変わることができないのだろう。これにコサージュをつけて、必要であればジャケットを羽織るつもりだ。それもまた悪くないかもしれない。自分の選ぶ服は自分の鏡である気がする。装うことをなんとなくでしか楽しんでいないとしても、それもまた今の私らしいじゃないか。そもそも私にとっておしゃれとは自己表現のツールというよりも、己の快を追求する道の上にあるのかもしれない。

 「またおしゃれが楽しくなるわよ。」

 行きつけの美容師さんがかけてくれた言葉が蘇る。私が地元に帰省して以来、かれこれ8年ほど私の髪を触ってくれている人だ。年齢はたぶん私よりひと回りほど上で、華奢なからだにいつも素敵な服をまとっている。

 「外見をあまり気にしないものだから。」と話す私に彼女は言った。

 「子どもが小さいときはおしゃれどころじゃないわよね。私もよく母に言われてたわ。まだ若いんだからちょっとはきれいにしなさいよって。」

 彼女の店に来るまで、髪を切るとなるといつも困っていた。誰に髪を洗われても、切られても緊張して疲れてしまい、新しい店を見つけては変えていた。彼女に出会ってはじめて、美容室を訪れるときのドキドキが治まったのを覚えている。無理して愛想よくしなくていいんだ、と思った。

 「長男が寝ない子だったからそれどころじゃなかったわ。」

 染めて洗い、乾かした髪に再びハサミを入れながら笑い、彼女が言った。

 「だけど長男が三歳を過ぎたころだったかしら、思ったの。将来どんな格好でお客さんの髪を触っていたいかなって。お客さんはどんな人に髪を触ってほしいだろうかって。」

 そうか、いつも身ぎれいにしているこの人だってかつてはそうだったんだ。

 子がまだよちよち歩きのときに私は離婚した。それ以来、周りの人に支えられつつも基本的にはひとりで必死に子育てをしてきた。でも子は少しずつ私の手を離れてゆく。子が成人する頃、私は50代に近い。どんなおばさんになってゆきたいだろう。彼女がトリートメントをしてくれた髪はいつも通りなめらかで指どおりが良い。つるつるとしなやかな後頭部に触れながら、彼女のお店を後にする。風がスカートの裾をなでて踊りすぎていく。髪から立ち上るシャンプーの香りが心を撫でてゆく。