中山博士の奇妙な愛情 または私は如何にして占いを毛嫌いするのをやめて星を読むようになったか

■2022年7月24日

「占星術ですか・・・。実は俺、ホロスコープ読めるんですよ。・・・いやぁ、だってほら、占星術って、先輩は如何にも嫌いそうだったから(笑)。これまで、あえて話題にはしなかったけど。・・・うん。そう、サークルの、あの頃から読めましたねぇ」

 彼とは長い付き合いだが、そうか、まだまだお互いに知らないことってあるんだな。今日は数年ぶりに会えた。嬉しい。さて、このタイミングで「最近、占星術に興味があってね」と言い出すのは、正直、はばかられた(笑)。会わない間にやべぇもんに、うさんくさワールドに、片足突っ込んじゃった?と心配されやしないか。気になってしまって。いや、占星術は決してそんな怪しいあれじゃないんだけどさ。どう切り出したらいいものやら。彼と占星術の話をしてみたかった。彼の知的好奇心にぶつけてみたかった。そこで私は、慎重に話題を振った。日本の科学史の大家、中山茂先生の西洋占星術の歴史の本を読んだこと。あくまで科学史の関心として、ある時代までは天文学とともに発展してきた占星術の歴史について、勉強していること。より正確に言うと、私自身は、「西洋占星術の歴史を研究した『中山茂先生その人』」について、研究中・勉強中であること。そんな私の遠回しな話を、彼はゆっくりと頷きながら聞いてくれた。そして、ホロスコープが読めること、西洋占星術に通じていることを、彼は打ち明けてくれたのだった。・・・まじか、奇遇過ぎないか?

 今日、私が慎重に占星術の話題に触れたように、彼もまた、慎重に扱ってきたんだろうな。彼の言う通り、学生当時だったら私は「占い」と聞けば顔をしかめただろう。

 いつの間にか星の読者になろうとしていた私は、今夜、彼と大いに語り合うことが出来た。思えばもともと彼は(以下略)。

■2022年7月21日

「ついに読み終わってしまった。茂本。俺は、次に、なんの研究をしたらいいんだろう?(笑)」「それウケる!いや、私もつぎどうしようかな」「ね!今日は、なにかの記念日になるかもしれないよ。この読書会からの発展がさ」

 約一ヶ月、中山茂先生の「西洋占星術史 科学と魔術のあいだ」をみんなで読み込んできた。いやぁ本当に楽しい読書会・研究会だった。一緒に作ってきたレジュメも35ページの大作に。本を読み、勉強しながらレジュメをまとめてディスカッション、一体いつぶりか。こういうのだよ。こういうのが好きだ。こんな時間が最高だな。

 読み終えて残る疑問は、中山茂先生の占星術に対する奇妙な愛情に関することばかり。先生はあくまで科学史の専門家、歴史家として、占星術を推進するでもなく頭ごなしに否定するでもなく、極力中立的な記述を試みたそうだ。前書きにそんなことが書かれていたと思う。それでも・・・我々は感じてしまう。気が付いてしまう。例えば、わざわざインドの南端ケララ州に赴き、当時のインド占星術界の元締めたる術師と面会するバイタリティー。例えば、占星術以外の一切の占いを「その他の雑占」と容赦なく切り捨てつつも、占星術だけは注目に値するとしたその偏愛。ケプラーに対して(ニュートンにもだったか)、ホロスコープを天動説から地動説へ、太陽中心モデルに書き換えなかったことをぼやくように問うありさまは、単なる歴史家の好奇心の範疇だろうか。中立と言いつつも言葉の端々から、先生はプトレマイオスの占星術を、アリストテレス的自然観で決定論的な宿命占星術を、"科学的"という意味で、数多ある占星術のなかでも特別に一つの理想として捉えているように読める。中立のはずの先生の中に占星術の理想像がある?・・・先生!お好きですよね?大好きですよね?占星術!?どうでしょうか?!

 中山茂先生と言えば、「通史 日本の科学技術」、図書館の棚のあっちの端からこっちの端までズラーッ!ドドーンッ!って感じのお堅いドデカい蔵書シリーズのイメージだった。あとは「パラダイム」という術語を日本で最初に紹介した人だそうで。そんな先生が占星術の科学史の本を数冊執筆されて、カルチャースクールで占星術史の講座を開講されて、いったいどんな愛情だったのだろうか。他の本や遺された個人のホームページとか、そういうものを読み解かなくちゃ。そのあたりを研究していこうな。あぁ、そもそも占星術それ自体についても、私自身ももっと勉強した方がいいね。

 まだ冒頭しか読めていないのだけれど、もう一冊、古い方の先生の本は、新しいものに比べてもっと占星術をディスるような口調にみえた(笑)、冒頭だけ、ね。学者としてはさ、ちょっと突き放すくらいが丁度いいのかな。あまり占星術に肩入れしているように見えるとさ、下手するととんでも系というか、オカルト系の人だと思われかねないなど、スタンスの取り方には慎重さが求められたんだろうな、特に70年代80年代の当時な。もちろん、先生の愛情やスタンスを勝手に妄想しすぎては、研究としては先入観が強すぎってやつになっちゃうから要注意な。

 読書会はいつもオンラインだったのだけれど、この日はみんなに会えたよ。ようやく会えて嬉しかったな。日が暮れてさ、終わった後、その後の予定も曖昧なまま、キャンパスの裏の公園みたいなところでみんなでダラダラ過ごした時間も愛おしいな。この時代、直接会えたことの貴重さがあるよね。

■2022年7月7日

「この解釈の幅がさ、むしろ良いんだろうなぁ。安易には『どうとでも言えるからズルいじゃん』って、占い批判のポイントになるのかもだけど。人の知恵と工夫はここに詰まっているんだろうなぁ」「当たったかどうかなんてこの際、別にどっちでもよくてさ。世界の見方、ものの見方としてさ、いいよね、占星術」

 今日は中山茂先生の本の読書会、2回目。七夕だ。占星術の科学史的側面についても、占星術そのものについても、理解が深まってきた。面白いなぁ。占星術はある意味で、人間理解の技術であり、人間社会での処世術であり、そういうものの体系なんだろうなぁ。古から人々が占いたかったことは夢や希望、それから苦しみについて、そういうことがほとんどだろう。自分自身のこと、他者のこと、家族や仲間、職場、地域みたいな大小様々な社会のこと、かなぁ。

 例えば親しい他者、家族や恋人、友人のことが分からなくて苦しかったとする。お互いに傷付けあってしまったとする。「そもそも、相手を表面的に分かった気になってはダメです。よくよく慎重に丁寧に相手の話を聴き、様子を知り、想像を働かせよう。そして、それでもなお、分からないかもしれないと知っておこう」などなど、私は最近そういったことを様々なところで学びつつある(今更、恥ずかしながらの三十代半ばだよ・・・)。カウンセリング、ケア、アサーション、心理学、精神医学、あるいは処世術として。勉強中。練習中。そして気が付いた。そのあたりで学んでいる内容が、占星術のあちらこちらにも書かれていたのだった。占星術は言う、例えば、ホロスコープの地平線の東に位置する星座がその人の基本的な姿勢や印象を決めるのかもしれないが、しかし、それだけに捉われていてはその人を深くは理解できない。もっと多くの星々の位置やバランス関係を見よ、そう簡単には人のことを理解できない、と。そして、その人の個性のみならず、その時々の巡り合わせや関係する相手との相互作用の中で、人は本当に様々な、多様なあり方を見せるだろう、と。(なお、茂先生も現代の占星術について、カウンセリング的な意義や可能性について簡単に触れていた)

 読書会の仲間は、このホロスコープの複雑さ、変数の多さ、奥深さにようく腹落ちした様子だった。例えば、心理学や精神医学が個々人の特性や傾向について、ときにラベル付けしてしまうようなやり方に比べて、この複雑な占星術のモデルは納得できるなぁ、と。

 そう、当たり前のことかもしれないが、自分や他者、社会について考えたり理解したりすることは、大前提としてめちゃくちゃ難しいんだ。占星術はある程度のモデルや解釈方法を示しながらも、「理解なんてめちゃくちゃ難しいってことを忘れんなよ。浅く平たく理解できると思うなよ」と言い続けてくれる。すぐ分かった気になっちゃうからさ。自分を自分で戒め続けるのって難しいからさ。星の読解方法には、人や人間社会の苦しみに寄り添うための知恵や工夫、遥か昔からの蓄積が詰まっているんだろうな。

 今夜、私は裏山を上ったところにある公園で、織姫と彦星、夏の大三角、それから北斗七星の端っこや木星を眺めることが出来た。星空の手前で雲が素早く動くから、星々は凄く遠くにあるんだなぁと実感した。ゆっくりとした時間に身を任せて揺蕩う。星々に思いを馳せる古の羊飼いたちのことを想った。

■2022年6月27日

「え、中山茂先生が占星術の本書いてたの!?」「え、この人、そっちの界隈の尊先(尊敬する先輩)なの?!友達の推しは推せる」「うん、日本を代表する科学史の先生だよ。占星術の本書いてたなんて知らなかったや!」「「一緒に読もうぜ」」

 今日は中山茂先生の本の読書会、初回。まさか私が占星術を勉強するとはな。分からないものだ。科学論としてもめちゃくちゃ面白いな。続きが楽しみ。ありがたいなぁ。占星術師のSさんに感謝。彼女の口から中山茂先生のお名前が出てきたとき、お互いにびっくりした。

 「星は誘えど強制しない」そんな占星術の言い回しがあるのだけれど、Sさんはこの言葉を体現するような話をしてくれる。Sさんの語り口が好きだ。もともと占星術の話題に限らず、いつも彼女の言葉運びは、花咲き乱れる野原を吹き抜けていく春の突風みたいにチャーミングで。それでいて慎重なところもあって。私はきっとそんなSさんの語りでなければ、占星術に興味を持つことなんてできなかっただろうな。彼女は占星術が好きで、そしてこんな謎の科学史の本を一緒に読もうなんて言う知的好奇心の人で、同時に、そう、ときに占星術の体系を問う、客観視する姿勢も持ち合わせていて。ある意味で"科学的"だと思う。だからこんな私でも占星術の入り口へと誘ってもらうことができた。

 以前だったら、占いなんて、因果関係や論拠が分からないと一蹴していたと思う。私も少しは成長したのかもしれないな。この世界にはどんなに努力しようと自分自身の理解が及ばないことがある。それはなんかすげぇ特別な事象(なんだろう、なんかブラックホールと素粒子とかみたいな難しい最先端科学)に限ったことではなくて、むしろごくごく身近な、毎日の生活の中で、人との関係の中で、もしくは自分自身についてだって、ありふれたことだったんだ。「分からないこともある/そもそも分からないことばかりだ」ということを、なんていうか、抽象的・形而上学的に、頭でっかちなお勉強的に、じゃなくて、生活感覚的に納得するまでに、あぁ、恥ずかしながら30年以上かかったんだわ、私ってやつは・・・。占いの論拠は、数学や物理の公理や定理のようには整然とはしていない。だからといって、その体系が劣っているとか、役に立たないとか、いきなり無下にすることなく、まずは自身とは相容れない”他者なる”体系に触れてみたい。

 それからさ、なんでもかんでも自分自身で意思決定するのにもさ、さすがに疲れてきたんだよな・・・。選択肢とその影響や可能性についてとことん調べ尽くし、とことん考え尽くす。いつもそうやってきた。そうでなくっちゃ気持ち悪くて嫌だった。もしくは恐かったのかもしれない。でもね、そうやって、全部、決めていくのは大変だ。自分で考え尽くすことは難しく、人や流れに任せた方がいい場合だってある。それから、そもそも別にどっちだっていいようなことだって実はたくさんある。それでもさ、とはいえだよ、よく知らない他人の勧めに任せるのも嫌だし、GoogleとかのAIの推薦・レコメンデーションエンジンにお任せしてしまうのなんかしゃくじゃんね。その点、星々に任せるのは、なぜだか不思議と、それならそれで良いような気がしてきたんだよね。

 占いには、諦めを引き受けてくれる機能もあるように思った。どんなに努力をしても、どんな行動をしようと、叶わないことがあるのが人の世の常。良かれと思った行為が思わぬ結果を引き起こす。人間万事塞翁が馬とは分かっちゃいるけれども。そんな後悔や自責で人が潰れてしまわないように、星や様々な占い、ときには占い師その人が、その原因を幾らか引き取ってくれるのかもしれない。苦しさの仮置き場。星の巡りが悪かったのだ、と。そうやって、聞き届け、寄り添って、無念を鎮める、そんな機能もありそうだ。

 星々は遥か昔から巡り続け、その公転軌道も、そしてそもそも星々の存在自体が、数学的奇跡のようなものだ。例えば、皆既日蝕や皆既月蝕が起こるのは、地球と太陽、月の直径と距離が絶妙な関係にあって、地球から見て太陽と月がほぼ同じくらいの大きさに見えるからだ、そんな数学的奇跡。約46億年と言われる太陽系のその悠久さを想像したときにも、もしくは何千年も昔から祖先が星を眺め続けてきたその営みに思いを馳せたときにも、果てしなさで、胸がいっぱいになる。いいじゃないか。星々に基づいて、あるいは託して、ときにはかこつけて、何かを決めたっていい。便利な道具として利用したらいいじゃないか。

 子どもの頃、夜空の星々も星座の神話も大好きだったことを思い出した。いつの間にか、あんまり星を眺めずに過ごしているなぁ。

■2005年5月28日

「論理が分からないです。おっしゃるのは、因果関係ですか、それとも相関関係ですか・・・?高校生だと思っ」「いや、ちょっ、おまえ。いやぁ、こいつ生意気で、ほんと、すみません!」

 もう本当に行きたくなかった。今日は東大の学園祭、五月祭に高校の友達のNと行ってきた。やっぱり航空宇宙とか、物理とか、大学の人達にお話聞かせてもらうのは本当に楽しかった。なのに・・・。Nは心理学の学生さんの出し物の占いに行きたがった。そもそも心理学ってなんだよ。なんか胡散臭くないか。一人で行けばいいじゃん。別行動を提案した。占いなんて絶対嫌だよ。しかし、彼は一緒に行きたがった。仕方ねえ。結局、彼も、俺も、大学生のお兄さんも、全員酷い気持ちになってしまって、、、申し訳ねえ。Nはいつもこういうとき、ちゃんとしているなぁ。俺はだんだん盛り上がってしまって、徹底論戦しようとしてしまった。いや、別に最初から台無しにしようと思ったわけじゃないんだ。ただ、論理的に説明してほしかったわけ。だって、大学生でしょ、東大生でしょ、占いもノリでやっているわけじゃなくて心理学のなんかなんでしょ、だったら論理的でしょ、合理的でしょ、説明してよ。性格って何?相性って何?その導出方法の根拠の確からしさは何に担保されているわけ?その導出手続きの正しさは何に担保されているわけ?ほら、答えられないじゃん。ダメじゃん。そういやさ、テレビで毎朝やってる占いもアホ臭いよな。ラッキーカラーって何?星座とか血液型とかがどういう因果関係なんすか?・・・と、言いつつ、Nには言えなかったけど、最近塾の休憩スペースでさ、すげぇいい加減な「数字占い」を俺がやるの、ちょい流行ってんだよね(笑)。友達らや、うん、特に女子な!いや、これは双方にジョークだと分かってるからさ。いや、うーん、学祭のやつもジョークだったのかな。ジョークだったのかも。ごめん。

■2022年8月26日

 そうだ、最近、寝る前に星座早見を眺めるのを忘れていたなぁ。習慣にするんだった。おぉ、そういえば、いつの間にか太陽は獅子座から乙女座に移っていたね。それから、月齢を確認しよう。明日は新月か。

 星々のそんな周期は、普段使いのカレンダーのオルタナティブ?というか、セカンドオピニオン??というか、別の区切りを与えてくれる。「週の初めの月曜日」とかさ、「新しい月、今日から9月1日です」とかさ、そういう区切りはあるけれど、なんかもう月曜日はブルーだなぁとかってあるじゃん。たいていカレンダーは仕事とかと強く結びついていて、時に憂鬱。そんな日々の感覚に、ちょっとずれたタイミングで「おぉ今日から太陽乙女座か」みたいな切り替えも出来るのって、なんかいいよね。遥かな星々の巡りを想うと、ますます世界を大きく捉えられそうな気もする。

 8月はなんだかバタバタしていて、中山茂先生と占星術に関する勉強が進んでいなかったなぁ。また仲間らに声を掛けよう。勉強はいい。あの7月、太陽蟹座の頃、あの夏の読書会は本当に最高だった。その後、占星術の本も読み進めていてさ、また一緒に議論したいところがあったんだった。なんだっけ。メモを見返そう。

□2022/08/26

 さて、以上を書き終えて、果たしてこのエッセイはいったいなんだろうか。一見、日記のふりをしている。しかし、実際には今さっき書いたんだわ。少なくとも日記の体はフィクションということになるな(と、言うここの記述も、エッセイ全体すらも、嘘っぱちのフィクションかもしれない。皆様、茂先生の書籍についてはググって本屋か図書館で確認してくれよな)。

 ある種の小説だと言い張ることもできるかもしれない。閒で小説に関する議論が盛んなので、最後にこんなことも書いてみちゃう。わざわざ日付の順序も素直に並べずに、時系列をいじるような操作性・作為性も小説的な技法と呼べるかもしれない。とはいえ、小説にしては解説的・説明的過ぎるだろうか。また、小説と言い張るには、記述中の他者性が乏しいかなぁ(いいや、そもそも小説の要件などというものがあっただろうか)。テクニカルには、やっぱり概ね実話なので(繰り返すが、全体や部分がフィクション・嘘っぱちではない、という保証はどこにもない性質の文章なのだが、あなたはそれに合意してくださるだろうか)誰かの言動を勝手に公開することには及び腰になった。と言いつつちょっと書いたけど。・・・いや、本当にそれだけだろうか。私が何かを書くときには私のことばかりなのかもしれない。私の考え、私が理解できたこと、そんなことばかり。そんなのちょっと嫌だなぁ。いや、サブタイトルからして、私が占星術を受け入れるに至った過程がテーマなら、必然だっただろうか。もしくはそもそも人は自分が分かり得なかい何かを言葉になんてできるのだろうか。うーんぐちゃぐちゃぐちゃ。

「うん、いいねいいね。最後に『如何にも日記っぽい記述』をもってして終わりにすることが出来たじゃないか。さぁ、このあたりで公開することにしようか。」