眠りについて

私はずっと昔から、眠りに悩まされてきた。そしてそれは今もそうである。過眠状態と不眠状態を行ったり来たりしながら、どうにか日常生活を送っている。これを書いているのは午前4時で、昨日眠りに入ったのは0時頃だったから、実質3~4時間しか眠っていない。

昔正社員として某企業で仕事をしていたとき、朝どうしても寝坊してしまうことがあった。私には持病があり服薬をしているのだが、朝の眠気に勝てない。この時間に起きないと、あの電車に間に合わない。スマホのアラームを5分刻みで1時間くらい前からセットして、目覚まし時計をかけて臨んでも、やはり、起きられない。「この時間」を過ぎてしまうと、もう遅刻になってしまい、叱責されるのがわかっていたので、叱責されるのが嫌で諦めてまた眠りについてしまう。そして12時頃になって、上司から何回も出社催促の電話がかかっていたことに気づく。そんなのはざらにあることだった。そしてそのメールや電話の履歴を見る度、私は社会人に向いていないなと思っていた気がする。

聴覚障がいを持つ当時の同僚に、この悩みを話したことがあった。彼女は「聴覚障がいの人が使っている目覚まし時計があるよ」と言って、私にある目覚まし時計を教えてくれた。4~5千円したと思う(もっとしたかもしれない)。私はそれを購入し、なんとか起きられるようにしようと頑張った。その目覚まし時計は本当に地鳴りのようなというか、何かの警報かサイレンのようなけたたましい音が鳴るもので、最初はびっくりして起きられたのだが、徐々に起きられなくなってしまい(ストップのボタンを押さなくなってしまったので非常に近所迷惑だったと思う)、目覚まし時計を置く位置を工夫してみようと、一旦身体を起こさないといけないような場所に置いてみたりしたのだが、スヌーズ機能を何度使っても、やはり私は起きられなかった。私が当時働いていた会社は障がい者枠で働くことができる場だったのだが、当然上司には「なぜ朝起きられないのか」「なぜ朝遅刻するとメールの一本を入れられないのか」と叱責された。当然と言えば当然のことである。私は「寝坊については申し訳なく思っておりますが、私の飲んでいる薬のせいなんです」「色々な睡眠薬を試しているんです」と返した。しかし「睡眠等生活リズムを整えるのも社会人としての常識だよ」と一蹴された。これもまた当然のことかもしれない。しかし、私は朝起きることが非常に困難だったのだ。

私がちょっとした問題を起こして、本社から新宿支社に異動になったとき、なんとか起きれるようになったのだが、日中の眠気が本当にひどいもので、お手洗いに行ってきます、と言ってトイレで仮眠をとることもよくあった。当然新しい上長に心配されて、今日はもう楽な仕事でいいから、と上司に打診されたことも数回あった。私は不要な紙をシュレッダーに入れるという作業を黙々とこなしながら、ああ何故定時定時で仕事をしなければならないのだろう、私には無理なのに、と思うようになり、結局はその会社を辞めた。

正社員での仕事を辞めてからもうすぐ4年が経つ。私はその間に入退院を繰り返したり、ままならない身体でどうにか生きてきたのだが、最近は本当に睡眠が不規則だ。朝目が覚め、そして朝の薬を飲み、それがまた睡眠を誘発させやすいものでまた眠り、酷い時は一日中眠っている。そうかと思えば少しハイになって、夜通し眠れずに一夜を明かすこともある。生活が不規則なのはなんのせいなのかはわからないし、医師に相談してもあまり解決への糸口は見つからない。

朝起きて、日中活動して、夜眠るという当たり前のことができない私は、眠りに関してはもうこの自分の身体のシグナルに任せて、眠りたいときに眠り、起きて活動できるときに活動しようと思っている。今も夜寝た後は早朝覚醒してしまうときもあるし、昼の12時頃に起きることもある。起床したらそこで朝の薬を飲む。そしてまた眠りにつく。一日中眠っていることもある。

眠っていると日々が薄まってしまうように錯覚してしまうこともある。私には眠りが必要だから眠っているだけのはずなのだが、日中働いている人や活動している人に対して、負い目を感じることもあった。今は開き直って「寝たいなら寝よう」と思えるのだが。

ステレオタイプなものの見方をすれば、眠りというのは規則的なもので、朝無理にでも起きて日中働き、夜しっかり眠るというのが所謂「普通」の人の「眠る」ということなのだと思う。しかし私にはそれができない。もう何年も眠りに関しては悩まされているのだが、最近はそんな自分ー眠りたいときに眠る自分ーを嫌いになることはない。それは怠惰からそうしているわけではなく、あくまで症状の一環でしかないと考えられるようになったからかもしれない。

眠りというと個々人に差があることで、人と比べることではない。とはいえ、夜気持ちよく眠り、朝気持ちよく起き、日中活動するということができればなあ、と思うこともある。それでも、私が眠りについて感じる「通常のレールから外れている」ということについて、自己受容できるようになって、随分と気が晴れたということは言うまでもない。なぜこのような自己受容をできるようになったかというと、様々な人と出会い、中には凸凹を持っている人たちと関わるようになり、そういった人が「様々に逡巡しながらも、自分の好きなように生きている」ことに特に罪悪感を感じることがないのだ、ということを知ったからだった。そして、同じようなことで悩んでいる人がそれほど少なくないということを知ったからだ。これは大きな発見だった。

私にはフィアンセがいるのだが、彼との子をもし授かりたいと思うようになったら、眠るということが著しく阻害されることになると思う。私は色々な障がいや精神疾患を抱えているのだが、そういう「眠りに関する悩み」もひとつ「子を持つ自信がない」ということの言い訳になっている。

フィアンセが口を開けてすやすやと眠っているのを私は今ちらりと見やった。彼は悪夢をよく見ると言っていたが、私達は眠るときに必ず「おやすみ、いい夢をみてね、明日もいい一日になりますように」とおまじないのようなものを唱える。実際彼が見るのは悪夢ばかりらしいが(仕事のストレスがそうさせているというのを私はありありと感じる)。

いい夢をみてね、という言葉は私が祖母からいつも眠る前にかけてもらっていた言葉で、彼にもそういう言葉を彼にかけるようになった。

ひとにはそれぞれの眠りがある。私にとって眠りとは、いつの間にか人生の大部分を占める時間になってしまい(過眠からだが)、それについて思うことは「私は眠ることで自分を救っているのかもしれない」ということだ。特定の会社組織に所属せず、自由に生きられる今だからこそできることなのかもしれないが、私にとって眠りは「人生」そのものかもしれない。

乱文になってしまったが、このエッセイリレー「眠りについて」のお誘いを頂いたとき、「私って、普通の人の眠りとはちょっと違うよな」と思った。同時に、「眠り」は私をあらゆる形で救ってくれるーそれは例えば疲労からの回復や体調不良をやり過ごす手段、あるいは現実逃避としてのそれとしてーものだよな、と思った。

眠りがうまくとれない人もこうしているので、そして同じような思いをしている人に、私はこうだよ、というのを示したくてこれを書いた。もし誰かの気持ちが晴れるようなら嬉しく思う。