眠りについての覚え書き

 子どもの頃に繰り返し見た夢がある。

 城山公園の正門前に続く坂道を下ると、左手に狭い路地がある。石垣と生垣にはさまれた細い道だ。そこをゆくと祖父の家がある。祖父は私が生まれる前に亡くなったので、一度も私は祖父に会ったことがない。しかしそこは祖母の家ではなく祖父の家だという気がする。家父長制の時代を生きた人だったからなのか、父や母、親戚やまちの人から祖父の話を聞くうちに会ったこともない祖父の幻影を私自身が感じるようになったからなのか。おそらく両方だろう。祖父は版画をする人で、6人きょうだいの長男である伯父も次男である私の父も画家として生きている。

 子どもの頃、盆や正月になると親戚が各地から祖父の家に集まった。どこへ行くにも歩いてゆく足腰のしゃっきりした祖母と、生涯独身で、誰に対しても優しかった伯母を中心に女たちが台所を切り盛りし、男たちは運ばれる料理を肴に酒を飲んだ。芸術を生業にしている野性的な男たちの野太い声が酒の量とともに大きくなっていくのを、私は食事しながら静かに聞いていた。

 兄は食事もそこそこにして遊びはじめる。ひょうきんで人懐こい彼はいとこたちに可愛がられる一方で、私はいつもそこで誰ともなじむことなく、人見知りして静かに笑っていた。酔っぱらった男たちの声が次第に喧嘩の様相を帯びてゆくのを、聞こえないふりをしていた。

 それでも盆や正月といった行事は楽しみにしていた。いつもは会わない大人たち、とりわけ年の近いいとこたちに会えるのが単純にうれしかったのだ。ときどきそのまま子どもだけが祖父の家に泊まらせてもらうこともあったし、夜更けになってから両親と一緒に自宅へ帰ることもあった。

 夜道は暗い。祖父の家から公道に通じるあの道は街灯もなく、足元が覚束ない。おまけに当時は舗装もされておらず、生垣に足を突っ込まないよう、その下の崖に落ちてしまわないよう、見えない小石につっかえて転ばないよう細心の注意を払って歩いたものだ。「気をつけて」と声をかける両親の声とその気配がいまだに思い出される。静かな夜更けに、二人の声と家族が歩く音だけが響く。

 私の見る夢はいつもその道の上あたりを浮遊するというもの。上からなど見たことはないのに、子どもの私は誰もいないその道の上空をしゅうんと飛び回るのだ。誰もが寝静まった夜に。

 誰もが寝静まった夜など現実にはない。このまちではいつも誰かが起きて誰かが眠っている。夜中にひとり孤独に目を覚ましている人もいれば、ひとり時間を快適に過ごしている人もいる。誰かと愛し合っている人もいれば、不眠にあえぐ人も健やかに眠る人もいる。

 ただその夢の中では、誰もが寝静まった夜に私だけが起きていて、その空をしゅうんと飛ぶ。ただそれだけの夢で、場面の展開があるわけではない。

 その夢を子どもの頃に繰り返し、見た。

 私は34歳になった。私の朝は、台所に雑然と置かれたままの食べ物の残骸を見て後悔することから始まる。私には夜寝る前に物を食べる癖があるのだ。しかも少量ではない。一食分に相当する量のたんぱく質や炭水化物を摂っているからたちが悪い。そして怖ろしいことにそれを覚えていない。

 長らく睡眠薬を使っているせいだ。今飲んでいる薬を使い始めたのは昨年2月のことで、当時私は子育てのことで深く悩み、不眠が続いていた。うとうとしてなんとか眠りにつくことはできるのだが、質が悪く眠りが浅いのだ。主治医に相談すると、それまで使っていた睡眠導入剤から比較的効果の強い2種類に処方が変更された。

 その薬がいけないのだ。なければ熟睡できないのだが、飲むと服薬してから眠るまでの間に過食をしてしまう。口寂しいのか、お腹に物が溜まると安心して眠ることができるのか。睡眠薬で私の理性は弱まり、欲求の赴くままに行動してしまうようだ。しぜん私は太り、血液検査の数値も芳しくない。このままでは40代になったときに危険だという。

 主治医に相談するも、さほど取り合ってくれない。「キャベツを食べたらいいよ」「豆腐がいいよ」「カロリーの低いものを食べるようにしたら」ともっともではあるのだが、私にとって現実的ではない。毎日買い物に行くのも大変なので何かしら冷蔵庫には食べ物があるし、防災用のおかずだってある。

 一度「防風通聖散」という漢方を処方してもらったことがある。代謝やお通じがよくなるから少しでも体にいいのではないかという。しかしこれがまた不味いのだ。鳥の餌でも食べているような気分になる。良薬は口に苦しというけれど、これも続かなかった。

 毎夜、先に眠りについた子の顔を眺め、その髪をなでる。一度子にぴたりとくっついてその温かさを感じる。この子はほんとうに健やかに眠る。いつもどんな夢を見ているのだろうと思いを馳せる。私も眠ろうとする。それは安心するひとときだ。しかしそれでも、子が眠っている寝室の隣で、私は今日も過食に走ってしまう。

 そういえば、ここ十数年あの夢を見ていない。

 先日、主治医に薬のうち一種類を変えてくれるよう頼んだ。彼はあっさりと要求に応えてくれた。思いついて行動してみれば簡単なことだった。さらに最近、考え方を工夫する術を私は覚えた。過食に走りそうになったとき、その衝動を「明日の朝は何を食べようかな」と次の食事への楽しみへと切り替えるのだ。今のところこれは割と効果が高い。

 それらが功を奏し、眠りの前に意識が朦朧とした状態で過食すること減った。しかし今度は眠りが浅い。新しい薬は効果が弱いのだろうか。私の眠りについての悩みはこうして続いてゆく。

 思えば、10代後半ごろから眠れない日々が続いた。夜眠れず、空が白み始めた頃にようやくうとうとし始めるという昼夜逆転の生活を送っていた。不安で孤独な日々だった。あれからもう10年以上が経つが、私の心にはいまだ解消されない穴があるのだろうか。

 父との折り合いが悪くなったのは中高生のときだった。子どもの頃から私は版画家である父に憧れ、彼を尊敬していたが、思春期を迎えた私は父の持つ激しい性質に反抗し始めた。父との関係が悪くなるのと、私の精神状態が荒れてゆくのと、眠れなくなることは深く絡み合って、今となっては何が何とどう絡まっているのか、一つ一つほどいていくことは困難になってしまった。

 父の血を受け継いでいることを強く自覚している私は、その血に捉われているところがある。どういうことかというと、芸術家の父を持ち、私も私なりの「仕事」をしなければと思っている節がある。しかしそれはもしかしたら、自分で自分を縛っているだけなのかもしれない。私を掻き立てる「書かなければ」という衝動は、自分で勝手に自らを宿命づけているところから来るのかもしれない。祖父が全うし、父が全うしようとしている人生のように、私も彼らの作品に代わり得る何かを残さねばならないと。そのことが、無意識裡に私を無言の圧力にさらしているのだろう。眠りに悩むのも、それと無関係ではないかもしれない。

 月夜の深い青の空をしゅうんと飛ぶ不思議で愉快なあの夢の手触りをいまもまだ覚えている。またいつか見ることはできるだろうか。