私は大学生の頃、キリスト教カトリックの洗礼を受けようと試みたことがある。だが、持病の発症から、その計画は頓挫してしまい、しばらく洗礼を受けずにいた。
去年、ふとしたことがきっかけで、洗礼を受けようと意気込み、最寄りのカトリック教会に電話した。「洗礼を受けたいのですが、パニック障害があり、教会まで通えません。どうしたらいいでしょう」「それであれば、私の説教集がYouTubeにあがっていますから、それを観て学習して、来られるときに教会に来てください」。一般的に、キリスト教の洗礼を受けるには「入門講座」を受け、洗礼式(復活祭であることが多い)に臨む場合が多い。その神父様のYouTubeを観ようと試みるも、……尺が長い。そして、大量の動画を観なければならないことがわかる。観りゃいいんだが、どうも後回しにしてしまう。
そんなこんなで、結局今年の復活祭(復活祭は大体4月頭にあることが多い)にも洗礼を受けることはできなかった。
またダメだったかぁ、と思うも、今年こそはなぁと思い、でも教会にひとりで通うのは困難だしなぁと思っていると、夫が、「おれでよければついていってもいいよ」と言ってくれる。夫とはもう一年、いやそれ以上、寝る前に今日あった出来事を神様に報告して十字を切って眠ったり、私が困難を抱えて悩む際に夫が「一緒に聖書を読む?」と声をかけてくれたりしていて、キリスト教への理解はあった。「入門講座って毎日やるの?毎日教会行くの?それは無理だけど……あと、何時間くらいやるの?」夫はついていってもいいよという割に教会に向かうタクシーの道すがら少しイライラしていた。「わかんないけど多分要相談じゃないかなぁ」と私はタクシーの中で返した。
久々の教会につくと、信者たちがミサ式次第を入口で手に取っていて、そこで神父様とお話がしたいのですが、と私が信者さんに話す。するとTシャツ姿のどこにでもいる雰囲気の普通のおじいさんが出てきて、なんですか?と尋ねられた。私は、この方が冒頭でYouTubeを観てくださいと言った人とは別の人物であることがすぐわかった。洗礼を受けたいんですけど、と言うと、ああじゃあ何曜日に入門講座を受けたいですかと訊かれる。土曜や日曜がいいですと言うと、スケジュール帳を片手にえーっとねえ……ここはダメだし……としばらく悩んでいた。私はミサが始まる時間になっても神父様が悩んでおられるので、神父様、ミサは……と訊くと、ああもう時間だ、後から話は聞きますのでね、と答えて急いでミサの準備に向かわれた。
ミサが終わり、連絡先を神父様と交換し、第三日曜の午後から1時間半程度でやろうということになった。夫も同席してもいいですか?と尋ねると、旦那さんも洗礼希望?と尋ねられ、夫は咄嗟に「いえ、違います。妻の付き添いです」と言った。
帰りの道すがら、「俺はエリート信者になれないからまだ洗礼は受けられないよ、それに心の準備が出来上がってないし」と言った。エリート信者って何?そんなものはないよ、と笑って返すと、エリート信者はエリート信者だよ、なんかこう、階級とかあるでしょ?と訊かれるので、ないよ、と笑ってしまう。
そんな夫ととある夜、洗礼を受けるにあたって守護聖人の名前を洗礼名としていただくことができるんだよ、と話す。私は「マグダラのマリア」にしようと思う、大学生の時からずっとそう思っていたからね、と話すと、夫は「そんな二つ名みたいなの貰えるの?かっこいいなあ……」と言って、しばらくすると「エンジニアの守護聖人がいたよ!」と目を輝かせて私に報告する。セビリャの聖イシドールスがエンジニアの守護聖人の名前だったが、夫はエンジニアの守護聖人がいるということにすっかりウキウキとしていて、「イシドールスグッズもあるよ!ほらこのパーカー俺欲しい!これ着て仕事したい!洗礼を受けたら会社のみんなに自慢する!俺も洗礼受けるかも!」とノリノリであった。
迎えた入門講座1日目。ミサを受けると、背中に黒い文字で「義の人」とデカデカとプリントされたTシャツをきた神父様が、信徒会館で待っていてくださいねと言って用意に向かわれた。(ねえ、義の人だよ)と夫がこそこそ話しかけてくる。そうだね、とちょっと噴き出しそうになりながら私は頷く。空調もまともには効かないような信徒会館の一室で、我々は入門講座の第一回目を受けた。
帰り道、夫は「なんか知らないことがいっぱい知れてよかったなぁ、世界史の勉強してるみたいだったよ。それにさ」何?と私が訊くと、「義の人Tシャツ着てたじゃん、なんか義の人、信頼できるなぁ、義の人の話は俺も聞きたいよ」という答えが返ってきた。義の人Tシャツ効果は絶大である。
それからも、私が落ち込んでいると、夫は一緒に聖書を読む?と提案してくれたり、私が大学生のとき指導教官だった神父様からいただいたフランスのロザリオを見て、いいねえと言ってくれたり、日常の中にキリスト教があった。
夫と私のよもやま話Vol.9でも書いたが、偽妊娠騒動のときも熱心に夫は祈ってくれて、直後の通院の帰り道のカフェで、「洗礼を受けるためにはあと何回教会に通えばいいの?」と言われた。ツキイチで復活祭までだから、後8回じゃないかなぁ、と私が言うと、後8回も入門講座受けたら、俺ももう洗礼受けてもいいよね、エリート信者になれるよね、と言われる。だからそのエリート信者って何、とツッコむと、夫は笑っている。
ある日、夫がこんなことを真剣に言ってきた。「おれ、洗礼受けるのに一つだけ悩みがあんねん……」深刻そうな夫の顔に何事かと思うと、「おれ、歌下手やから、聖歌を上手く歌えないねん……」予想外の悩みに少し笑ってしまいながらも、「歌が上手くなくても、ちゃんと信者にはなれるよ」と返す。
そんなこんなで、私たちは洗礼というひとつの目標に向けて二人で祈り、歩んでいる。毎晩、祈りを捧げて、十字を切りながら。