「ご乗車ありがとうございます。どちら方面でしょうか」
「横崎通り2丁目まで」
「かしこまりました」
横崎駅近くのコンビニ前で手を上げていた中年女性を乗せた。挨拶をして、行き先を聞く。タクシードライバーとお客さんとのやり取りは、いつもここから始まる。
紙袋を2つかかえている。
後部座席からガサゴソと音がする。はあー、とため息をついた。
ルームミラー越しに、お客さんをチラリと見る。
窓から外を眺めている。
何かをブツブツつぶやいている。
そわそわしている。身体を揺らしている。
もうすぐ横崎通りだ。
赤信号で停車した。
「この先は、どうされますか。直進するか、曲がるか、どうされますか」
「右へ」
ハンドルを右に切って、右折しようとしたら、後部座席から
「なんで逆に曲がろうとするの!?」
と大きな声が飛んできた。
「失礼しました。では、左ですか」
「右よ、右!!。逆よ」
言い間違えではないか。
「いま右に曲がっていますけど」と念を押した。
「逆!」
仕方がない。後方に車が来ていないのを確認して、ハンドルを切り直した。
左折する。車体がゆっくりと左に向かう。
「そうだよ、右だ、はじめからそう言ったでしょ」
車は確実に、左折している。
しかし、お客さんは「右折」と認識している。
何かがおかしい。
周りに車が走っていないことを確認して、安全な場所に車を停めた。深夜時間帯で、まわりに車は走っていない。
「お客さん、いま左右を逆に、指示しましたよ」
「え?」
「お客さんが右だ、と言われたので、右折しようとしたら、逆だ、というので左に曲がりました。そうしたらお客さんは、それでいい、と言いました」
「そうだったかしら?」
お客さんの表情を、暗い車内で覗き込んだ。
おどおどしている。
おそらく方向を間違えることは、これが初めてではない。よくあることなのだろう。
目的地に到着して「ありがとう。助かったわ」と言いながら、降りていった。
このときの経験から、お客さんの道順の指示確認をもっと慎重にしなければならない、と学んだ。
タクシードライバーのお客さんには、障害のある人も当然いる。その中には、脳梗塞などで半身麻痺になった人、言語障害になってしまった人も含まれる。脳機能障害の影響か、そうした人たちは言い間違えをすることがよくある印象だ。
*
また別の日、半身麻痺で杖をついた高齢者男性が乗ってきた。発語に障害があるのはすぐに分かった。
目的地は川崎駅だ。信号待ちで停車していると、「川崎競馬場に行け」と叫び声があがった。
「川崎競馬場に行くんですね」と確認すると、
「そーうじゃーない。川崎駅にー行ってくれ、さっきそういーったじゃないか」
「え、いま、お客さんは、競馬場と指示しましたけど」
「競馬場に行ってくれ」
「競馬場ですね」
「違う。川崎駅だよ。俺は競馬場に行け、と言っていない」
「川崎駅なのか、競馬場なのかどっちですか」
「競馬場じゃない。川崎駅じゃない」
「川崎駅ですか」
「そうだ」
「競馬場ですか」
「違う」
「じゃあ、競馬場に行きますよ」
「違う。競馬場だ」
支離滅裂なやり取りを何度か繰り返す。そしてようやく、「競馬場を経由して、川崎駅東口に行きたい」という、このお客さんの要望が分かった。
本人もうまく言葉がでないので、イライラしているのが伝わってきた。
*
タクシーの後部座席に座って、ドライバーに道順を説明する。
これは簡単な作業だと思われがちだ。実際、ほとんどの人はそれなりに説明ができる。
しかし中には、説明が下手な人もいる。タクドラであればみな経験していることだ。
道順の指示に関するトラブルとして典型的なものが「あっち、こっち問題」だ。これは障害のないお客さんとの間でもよくあることである。
産業道路近くのバス停で、母と娘と思われる女性2人組が乗ってきた。行き先は川崎駅だ。
母親と思われる女性が、
「運転手さん、こっちに曲がって下さい」と指示してきた。
「え、どっちですか。右ですか、左ですか」
「こっちです」
「すみません、右ですか、左ですか」
「こっち!!!こっちだってば!!!」
「どっちですか。右ですか、左ですか???」
「こっちに曲がって、って言ったでしょ。すぐに曲がってよ。遠回りになるんだから!!!」
と怒りだした。
タクシードライバーは、運転中に後ろを振り返って、お客さんの顔を見ることはできない。
幸いにして、前後に車は走っていない。
「すみません。ちょっとお停めしますね」
と断ってから、タクシー車両を停めて、後部座席を振り返った。
その女性は、右に向かって指を突き出していた。なんでこんな簡単な指示がわからないのか、という表情だ。怒っている。
「すみません。いまわかりました。右に曲がるんですね」
「だから、右に曲がってって説明したでしょ!!」
「こっち、という指示でしたので、わかりませんでした」
母親は、無能なタクシードライバーだ、と言わんばかりに怒りのまなざしで私をにらみつけてきた。
隣に座っていた、中学生にみえる背格好の女の子が、母親の顔色をうかがいながらつぶやいた。
「お母さん、ずっと、こっち、って言ってたよ」
「え、そうだったっけ?」
「お母さん、いつも家でも、あっち、こっち、って言う。いまも、言ってた」
この女の子の応援があったので、車内に充満していた緊張感がゆるんだ。
母親は、気まずそうな表情に変わり、苦笑いして、「こっちって言ってました?」と反応した。
「よくあることです。運転中に、お客さんから、あっち、こっち、という指示があって、左右がわからないことはよくありますから。では、右折して、川崎駅に向かいますね」
アクセルを踏んで車を動かした。
タクドラの「あっち、こっち問題」がなぜ起きるのだろうか。同じようなことが続いた時期があって、問題の発生原因を考えてみた。
原因1) 顔が見えない人に対する指示に慣れていない
お客さんは、見ず知らずのタクシードライバーに道順を伝えないといけない。お客さんからドライバーの顔、表情は見えない。対面=互いに向かい合ってのコミュニケーションしか知らない人にとっては、希望を伝えにくい環境だ。それによって「指示する」ことへのためらいが普段より大きくなるのだろう。
原因2) 道順を詳しく知らない
道順を説明したくても、そもそも現在地がよくわからない。タクシーは動き続けている。道順をどうやって説明しようか、と考えているうちに、風景が変化していく。間違ったことは言えないので、黙ってしまう。気づいたときには、右に曲がるべき交差点が目前に来てしまっている。そこでとっさに「”こっち”に曲がって」と言ってしまう、という具合だ。
原因3) 日頃から、他人に指示することに慣れていない
業務で、他人に仕事を依頼する、指示をする、という立場にいると、指示に慣れていくものだが、そもそも経験が少ないお客さんも少なくないのだろう。
原因4) 自動車という移動する物体での特殊な身体感覚
自動車の中にいると、次第に車両と一体感が出てくる。だから、右、左、という意識をせずに方向を認識して、言葉による説明が遅れてしまうのかもしれない。
「タクシードライバーは道をすべて知り尽くしているべきだ」と思っている人がいる。
客が目的地を説明したら、タクドラは最短ルートで、もっとも短い時間で走る。それは理想だろうが、仕事の大半は、その通りにはいかない。
タクドラはその目的地を初めて知った。住所は分からない。
さて、どうするか。
お客さんは、いつも走るルートを知っているのか。
お客さんも初めて行く場所なのか。
目的地を確認した瞬間から、タクドラは脳をフル回転させている。
お客さんとやり取りしながら、目的地に安全運転で向かいたい。
そのためには、お客さんとタクシードライバーの協力関係が必要だ。
その第一歩が、「方向の指示」なのだ。
この道を、まっすぐ行くか、左折するか、右折するか。
3つの選択肢からどれを走ってほしいのか、的確な指示がほしい。
タクシーを利用するとは、ドライバーと力を合わせて、目的地に到着することなのだから。