「俺だって、タクシードライバーになるなんて思ってなかったんだよ!!あんたもそうだろう」
行き場のない苛立ちを僕にぶつけるようにして、彼は言った。
思わぬ業界の「洗礼」を受けたのは、タクシードライバーとしての勤務初日の朝だった――
出勤して着替えのためにロッカールームに入ったとき、夜勤明けの先輩が一人、入れ違いに出るところだったので、声をかけて挨拶をした。
「新人の七海です。これからお世話になります。よろしくお願いいたします」
うつむいたまま、軽く頷く先輩。
「まさか、タクシードライバーになるなんて、思ってませんでしたけど」
僕は苦笑いして付け加えた。すると先輩はサッと顔を上げ、疲れ切った表情を一変させ、目を剥いて吐き捨てるようにしゃべりはじめた。冒頭の言葉は、そのとき彼の口から出た言葉だ。
まだ自分は「右も左も分からない」新人であるとの謙遜と照れを込めての一言のつもりで、決して後悔や不満のニュアンスを込めたわけではなかったが、どうやらこれが彼の逆鱗に触れてしまったようだ。
「みんないろいろあって、タクシードライバーに流れ着いたんだよ。新人のあんたもそうだろう。毎日、酔っ払いを相手に仕事をして……俺の人生はこんなはずじゃなかった」
いらつきながら、床に目を落とす先輩。年齢は70歳過ぎだろうか。人生の疲れと夜勤明けの疲れが混ざりあって、小さく見える。
自分の意図とは違う受け取り方をされ、先輩の気を悪くさせてしまったことを軽く反省しつつも、僕は平静を保ち、自分の素直な思いとしてこう答えた。
「そうですか。僕はタクシードライバーは、いい仕事だと思ってここに来ましたけど」
「そうか?」
予想外の言葉に驚き戸惑ったのか、先輩の表情から怒りや苛立ちが薄れていった。
「タクシードライバーよりも、ひどい仕事を経験していますから」
そう答える僕の顔を、変わり者を眺めるような目つきでじっと見る。
「ふーん。新人さん、安全運転だけは気をつけてな」
「お疲れさまでした」
「おう」
ロッカーの鍵を開けて、制服に着替えた。会社支給の白いワイシャツ、背広の上下、ネクタイ。名札を付けて、仕事の準備は整った。さて出発だ。
なぜ先輩のような人たちが「こんなはずじゃなかった」という思いを抱えながらも、ここタクシー業界に行き着くのか。車庫に向かいながら彼の言葉と表情を思い返した。
入社時に、タクシードライバーという職業は差別されているかもしれない、と感じたことがあった。入社時にイレズミの有無を確認される、それがルーティンになっている等、タクシー業界には独自のルールがある。
*
「七海さん、絶対に採用決定です」
顔に大きな青アザがあることも明かした上で臨んだ「横崎タクシー」の採用面接。会議室を退出してすぐ、僕を担当してくれた人材紹介会社の新人スタッフが自信満々に言った。
「なんでわかるんですか」
「私、この仕事をして2年ですけど、30分間、全部、自分の言葉でしゃべる人を初めて見ました」
「これくらいできますよ。前職は、生命保険・損害保険を取り扱う大手保険会社で営業をしてましたし、20代の時は専門誌の記者もしてましたから。初対面の人に自己紹介したり、雑談するのは得意、というか普通にできます」
「そういう人は珍しいです。前に担当した人は、自分の名前を言って、履歴書を出して、それだけ。あとは横にいた私が、彼の代わりに話して面接を受けたぐらいです。それで、なんとか採用されましたけどね」
「そんなに口下手な人がいるんですね」
「多いんですよ。とくに地方から上京してタクシードライバーになる人が多くて、高齢の人だと、口下手ですね」
「ぼくは54歳で、高齢者ですけど」
「54歳ならぜんぜん若いほうです。65歳でタクシーデビューの人も多いですから。それにしても、七海さん、なんでタクシードライバーなんですか。ほかに仕事はあるでしょ」
「離婚したばっかりの50代で、川崎に移住したばかり。とりあえずすぐに収入を確保したいから。いくつかハローワークで仕事を探しましたけど、希望の手取り収入がもらえる仕事はなかった。尊敬する先輩がタクシードライバーやっているので、悪いイメージはないので、応募してみた、それだけですよ」
「そういう人は少ないですよ。みんな仕方なく、タクシードライバーに応募する感じ」
翌日、横崎タクシーから採用決定の連絡があった。
僕はこれまで10社以上の会社で働いてきて、転職のたびに業界研究をしてきた。どの業界にも歴史があり、業界の慣習がある。その業界の悪弊を打破するためにベンチャー企業が現れる。そして競争がはじまって、勝者と敗者が決まる。時間があれば、すべてを調べてから面接に行きたかった。採用が決まってからの業界研究である。
図書館に行って、タクシー業界について書かれた書籍を読む。さらに、ネット検索でタクシードライバー業界について書かれたブログなども探して読みふけった。
タクシー業界の歴史は古い。自動車が普及して全国に道路がつくられていくなかで成長していた。ただし、その運賃は国土交通省が決める。法的には公共交通機関のひとつである。
営業区内では運賃は同じ価格と決められており、したがって「目的地に移動する」というサービス自体の差別化は難しい。どのタクシーでも同じだろう、という感覚で利用されてきた。
その後、2002年の道路運送法改正による規制緩和で、タクシーの台数が一気に増えた。お客さんの利便性は上がったが、その結果、一台当たりの売上げは下がって、生活に困窮するドライバーが増えていった。
タクシー会社としては、総台数が増えたことで売上が上がったが、ドライバー不足という新たな課題に直面することとなった。どのタクシー会社も採用コストがかさんでいる。定着率も上がらない。全国の平均在職年数は約10年だが、あくまで「平均」である。もっと早くにタクシードライバーを辞める人もたくさんいる。そんな状況なので、僕はすぐに採用が決まったわけだ。
圧倒的な人手不足の業界なので、ドライバーは会社に不満があればすぐに別の会社に移籍できる。二種免許があって、真面目で無事故・無違反ならば、どのタクシー会社も大歓迎だ。とくに、タクシー会社が多い首都圏では、それが普通だと分かってきた。
僕を横崎タクシーに紹介した担当者が「もし、この会社に不満があれば、すぐにお知らせ下さい。もっとよい会社を紹介できるように動きますから」と説明した理由も分かってきた。
人手不足解消のために、タクシー業界は政治に働きかけている。タクシー営業に必要な二種免許の規制緩和を国に陳情。高校卒業の若者にすぐに二種免許を取得できるように、と法改正を目指していた。その背景には、タクシードライバーの高齢化がある。初めてタクシードライバーに従事する平均年齢は50代半ば。平均年齢65歳以上のタクシー会社もある。ドライバーの若返りをしないと存続の危機の会社が多いのだ。
タクシードライバーは、営業の技術、接客能力が必要とされる専門職であり、その「サービス」を評価され、お客さんからお金をもらう仕事である。工夫次第で「稼ぐ」ことも出来るし、裁量が大きいためワークライフバランスも取りやすい。ドライバーとして2年以上実際に働いてみて、僕はこの仕事をそのように捉えている。
それでもなぜ、これだけタクシードライバーという職業は不人気なのか。なぜ、冒頭の先輩のような人が、「こんなはずじゃなかった」という思いを抱えながら、70歳を過ぎてなお働いているのか。
これまで読んできた書籍やブログにははっきり書かれていなかったが、やはりそこに「差別」があるからだと思う。
タクシードライバーを立派な仕事だとは思わず、職業の選択肢から外す、という意識がひろく浸透している。根深い歴史がありそうだ。
ならば僕は、タクシードライバーの当事者になって社会を観察してみよう。タクシー業界を中から見てみよう。ジャーナリストとしての視点を持ちながら、この街を走ってみよう。人間観察の機会と、生活費の両方が手に入る、面白い仕事だ、と思ったのだ。