路上のダイコン - 令和タクドラ日記 第7回

静岡県から川崎市に引っ越して間もない頃だったと思う。早起きして、散歩をしていた。

国道15号線を川崎から、鶴見に向かって歩いていると、バス停がある歩道に衣服の塊が落ちていた。
何だろう、衣料ゴミなのか、と思って近づくと、人間が横たわって熟睡していた。

若い男性だった。アスファルトの上ですやすや寝ている。気持ちよさそうだ。

彼の周辺には、黄褐色の液体と、固形物が散らばっていた。その外見と匂いから、嘔吐した胃の内容物が路面にぶちまけられた、と分かった。よくみると、麺類と魚介類の断片があった。おそらくラーメンだろう。ちゃんぽん麺かもしれない。豪快に飲み食いして、締めにラーメンを胃袋にいれた。そのあと、友人たちと別れて深夜の街を歩き出した。泥酔状態になって意識が混濁したなか、彼は路上で眠ってしまった。そんなところだろう。

彼の身体の側には、黒い鞄があった。おそらく貴重品が入っている。

「あのう、大丈夫ですか」

声をかけたが反応はない。規則正しい呼吸音がするだけだ。

身体を揺さぶるかどうか、考えたがやめた。
強盗と誤解されたくないからだ。
寝起きの酔っ払いは何を言い出すか分からない。

彼を放置して、歩き出した。道に出勤で急ぐ人間たちが出てきた。15号線も通勤で急ぐ自動車とバスが走り出している。

振り返ると、20代の若者が路上の彼を「発見」して声をかけていた。その様子は、数分前の僕の動きと同じだろう。

その若者も途方に暮れて、すぐに路上で寝ている彼から離れた。彼も仕事があり、出勤しなけばならないのだろう。

もうすぐ午前7時。近所の人が通報して、最寄りの交番勤務の警察官が彼のもとに駆けつけるはず。放置しておけば良い。

その後、僕はタクシードライバーとして仕事を始めた。そして、泥酔した人間とのやり取りが避けられないことを知る。僕は「通り過ぎる」ことができなくなったのだ。

横崎タクシーに勤務して半年ほど経った。
朝礼で職員が事務連絡をしたあとに、次のように続けた。

「いよいよ夏本番。みなさんご存じのように、注意していただきたい季節がやってきました。
道で寝ている酔っ払いに注意!!
人を轢かないように!!
安全運転の徹底!!
夜間の走行時は、前照灯をハイビームにして、路上で寝ている酔っ払いを確認して避けてください!

毎年、全国で、一人か二人、路上で眠ってしまった人をひき殺してしまう死亡事故が発生しています。まあ、この手の事故は、加害者は、タクシーに限らないわけですけれども。
深夜時間帯を走っているタクシーは目立ちます。警察からも注意するように、と連絡が来ています。

我々としては無事故無違反は当然のことですけれども、タクシーのプロとして路上で寝ている酔っ払いを絶対にひかないように!!

以上!!」

「そんなに多いんですか」
僕は担当者に訊いた。

「この季節になると、横浜市鶴見区、横崎区、それから川崎は酔っ払いだらけになる」
先輩のタクドラが、反応した。

「ゲロを吐いて、その横で寝ちまう奴が多いなんてもんじゃねえ。そこらじゅうにウヨウヨ出てくる」

「タクシーのなかでゲロを吐く酔っ払いもいる。ゲロを吐かれたら、仕事にならない。すぐに営業をやめて帰庫して、車内の大掃除だ。2時間は取られちまう。匂いが残るゲロだと、その車でしばらく営業ができない」

先輩が吐き捨てるようにしゃべると、それが合図になったように、朝礼に出た他のタクドラたちもそれぞれの酔っ払い経験を隣の人としゃべり出した。
そしてエンジンをかけて次々に出庫していった。

この話を聞いた時、僕は川崎で見たバス停で熟睡している男性を思い出した。
もし彼がバス停ではなく車道で眠っていたとしたら……。
よく路面を見ていなかったドライバーが彼を轢いた可能性は極めて高い。
日本では歩行者を優先した道路交通法が運用されているので、結果として死亡させた場合ドライバーの責任は極めて重くなる。
特に死亡事故になったら最悪の場合、懲役刑になるだろう。執行猶予はつくかもしれないが。

この朝礼から数ヶ月後、秋風が吹くころ、「路上の人」と出会った。

場所は横浜市の住宅街の中。深夜12時ぐらい、国道15号線で手をあげたお客さんを横浜市の住宅街でおろして15号線に戻ろうと思っていた時だった。

道の先に白い大根が見えた。

なぜこんなところに大根があるのだろうか??
誰かが買い物カゴから落としたのか。生ゴミの袋から大根が飛び出たのか。

不審に思い前照灯をハイビームにした。ゆっくり時速5キロくらいで近づいていく。

大根にみえたのは、人間の足だった。

膝から下のむき出しのスネが大根に見えたわけだ。

ドアを開けて、「大根」の横に近づいた。やはり男の片足だ。
スネだけが車道に出ていて、上半身は有料駐車場の空きスペースに転がっていた。
身体の全体を観察する。50歳前後。グレーの作業服を着ている。無精ヒゲ。片手で腕枕をして気持ちよさそうに寝ている。自分の家で寝ているかのようだ。ここは路上なのだが。

タクシードライバーになる前に路上で発見した、あの男もそうだった。すやすや眠っていた。

注意していなければ、僕はこの大根を轢いていたかもしれない。背中に鳥肌が立った。

会社にすぐに電話した。

「いま、路上でスネだけを出している男性を発見。どうしましょうか。警察を呼びましょうか」
「その男性は路上の真ん中で熟睡していて、車両が動かせない状態なのか」
「いえ、道の片隅に、スネをだしているだけです。安全に通り過ぎることができます」
「わかった。それなら進路妨害になっていない。警察を呼ぶほどのことではない。そのまま営業を続けてください」

進路妨害になっていれば、警察を呼んで対応してもらう。それがタクシードライバーとして適切な対応とされている。
泥酔者が続出する季節になると、警察官は酔っ払いの対応に追われる。タクシードライバーも。

タクシードライバーは、路上にある様々なリスクを事前に察知して、それを回避しなければならない。

危険と隣り合わせの仕事である。