装わずにはいられない

 衣服というのは装置だなと思う。だぼっとした服を着れば自然とリラックスした、もしくはだらしない気分になるし、かちっとしたジャケットやコートを羽織れば気持ちも引き締まる。そういう話は多くの人が経験あるだろう。世界があって、それをどう「視る/視ている」かを伝える時、人は写真を撮ったりする。撮った写真はコントラストを強めたり弱めたり、更に切り取ったり切り取らなかったりして、「編集」されて世に出てくる。衣服をまとうのはこの編集作業のようだ。自分という存在を世界に対してどう位置づけるか、その宣言のようなものでもあり、あるいは・同時に、自分に対する呪い(まじない)のようなものでもある。ありのままの自分を目指すことが流行っているしそれはとても良いことだと思うが、原理的に言ってそれは不可能だ。本当にありのままでいたければ衣服を捨て去って、そして速やかに逮捕されるしか無い。

 以前ひょんなことから豚の屠殺を手伝ったことがあった。ルーマニアという国で働いていた時に、クリスマスを田舎の友人の家で過ごすことになったのだ。村のクリスマスはけたたましい犬の鳴き声で始まる。血の匂いにせき立てられ、狂ったように吠え立てる犬の声をBGMに、男達が足早にやって来る。予め決められた豚を小屋から引きずりだし、喉をナイフで一突き、そして家の者達とツイカと呼ばれる蒸留酒で乾杯し、一頻り祝いの言葉を交わした後、また急いで次の家に向かう。吐く息は白く、血は赤く、狂乱のリズムは忙しなく駆けていく。粛々と、瞬く間に肉片に変わっていく豚 ― さっきまで豚だったもの、を見ながら、僕らもそうだなと思わずにはいられなかった。糞を包んだ肉の皮。臓器の集合体。ほかほかと白い湯気を放つ豚の亡骸を見ながら、自分という存在の清々しいくらいの無意味さをしみじみと感じていた。

 人は服を着る。裸ではいられない。それは何も羞恥の問題だけではなくて、僕らがあまりにも無意味な「肉塊」でしかないというこの耐え難い事実から目を背けるためでもあるだろう。僕らは「意味」を着ている。意味をまとい、重ね合わせて、僕らが無意味ではないということを主張する。美しいことを、愛しいことを、強いことを、正しいことを、尊重されるべき存在であることを、僕らは何とか主張する。化けの皮を剥がす必要なんてない。それで良いのだ。騙し合って生きていこう。全ては誤解なのだから。僕が発した言葉と、僕が発そうとした言葉は同じだろうか。そんなことは誰にも分からない。本当のあなたなんていない。人は装うものだ。それは原理的にそうなのだ。僕らの間には無限の隔たりがあり、それは永遠に到達されることのないものだ。そしてそれでいい。

 そうした思いで世界を眺めれば、そこに飛び交う夥しい量の「意味」に目眩がする。今僕の目の前の席で女性と二人で話している白いシャツ姿の男の背中は、彼が仕事帰りの知的労働者であり、それなりに身体を鍛えていること、一方で身体にぴったりと合うオーダーシャツを買う経済力かそういう発想が無いこと、もしくは最近体型が変貌してきたのかも知れないこと、下着のタンクトップがくっきりと浮き出ていることからもあまり身なりに気を遣うタイプではなさそうであること、等々が浮かび上がってくる。彼の装いにとっては業務上差し支えの無い清潔さや誠実さを演出することが最優先事項なのだろうと想像される。―立ち上がった。刻み込まれたように無数の皺がついたスラックスの膝裏も、先ほどの想定と矛盾しない。肉塊に意味を持たせるためにまとったはずの衣服が、新たな意味を吸着して染みこんでいく。彼の暮らしぶりが、人生が、価値観が、衣服に滲み出ていく。彼に意味を持たせた衣服は今や彼と同質化して、彼という意味を伝えるものになっている。そしてこれが人間の数だけある。街を歩けば、行き交う人々がそれぞれどういう存在で、どういう存在だと思われたいのかという情報が無限に押し寄せてくる。確かに衣服はメディアだろう。そしてそれゆえ街は大混乱だ。自我のノイズがとめどなく溢れて、静寂は決して訪れない。無数の「どうありたいか」を、無数の肉塊が運んでいく。生きているなあ、と思う。

 ヌーディストの方々には悪いが、人が全裸で歩き回っていたら、さぞかしつまらないだろうなと思う。人それぞれの本来のカタチを愛そう、それは素晴らしいことだ。顔や体型や性器まで、「キレイ」の圧力の嵐は止むことを知らない。肉体の根源的な歪さは愛すべきものだ。というか、当たり前のことだ。たまたまだ。だからそれはそれとして大事にすれば良い。一方で、人が衣服をまとわなかったとしたら、そこには醜い自我も自己愛も、何も無い。本質的に欠けるところの無い完璧な存在である肉体がただ闊歩しているだけだ。それはつまらないなと思う。「こうありたい」という、歪で邪なもの。こういうものが肉体を覆って街を行くからこそ、人の世は猥雑で、醜く、時に美しい。人は装う。それは僕らが本質的に醜いからであり、そしてそれを何かでまとうことも同時に醜い。そしてだからこそ、その醜い自我のノイズが時に、美しい音色を生むことがあるのだろうと思う。僕らは醜い。それでいい。大手を振って、装って生きていこう。