蟹の脳味噌

 10年少し前だったか。8月も終盤というのにいつまでも暑さと湿気で窒息しそうな、そんなある昼下がり、僕はとある西日本の大きな街の駅前をぶらぶら歩いていた。

 当時僕は、世界がひっくり返ってしまうような大恋愛の果てのめちゃくちゃな手仕舞いの後遺症で、だいぶん頭が「茹だって」しまっており、よく分からない日々を送っていた。その日のことも、その時期のことなので、記憶は曖昧で断片的だ。僕が何故その街にいたのかも思い出せない。まぁ、よくある話だろう。

 とにかく僕はその暑い日、とある駅前を彷徨いていた。広めのロータリーの周囲には植え込みがあり、歩道では忙しい平日の昼間の残りを消化する人たちがまばらに行き交っていた。僕はただぼんやりと、何をするでもなく、何を求めるでもなく、その街に辿り着いて、歩いていた。服はじっとりと汗で濡れ、蝉の声で頭の中は埋め尽くされ、いかにも不快だった。そのあまりにも明白な不快さこそが救いであるかのように、僕はただその不快さに圧倒され、それを堪能していた。何日も家に帰っておらず、友人の家を転々としては、街を彷徨き回っていた。消えてしまいたいような気持ちを無理矢理掻き消してくれるのは、夏の暑さだけのようだった。太陽が僕を生かしていた。

「どこ見て歩いとんねんボケ!」突然聴こえてきたその声に驚いて振り向くと、ピタピタの真っ赤なキャミソールワンピースを着た背の高い女が、フラフラしながら喚き散らしていた。女はサングラスをかけていて、長い茶髪の巻き毛を振り乱し、さっき肩でもぶつけたと思しき通行人の男に向かって、ひたすら訳の分からない言葉を叫んでいた。遠目でも50代以上だと分かるような顔つきに、20代でも驚くような若々しい格好をして、恐らく昼間から泥酔しているのだろう、フラフラとしながら酒焼けた声で叫び続けていた。いかにも異様な光景だった。気が狂っているに違いないと思った。

 僕はその姿を目の当たりにした瞬間全身の力が抜け、クラクラとしながら側の植え込みにしゃがみ込んだ。すると女はこちらをカッと見据え、「兄ちゃん!座ったらアカン!」と言って猛然と近づいてきた。

「兄ちゃん、ええ若いもんが、座ったらアカン!へなへなすんな!立て!立つんや!」

「せや!シャキッとせえ!兄ちゃん!飲み行くで!」

 訳も分からず女に腕を引っ張られ、僕はぐいぐいと連れて行かれた。女は僕をすぐ近くの雑居ビルの1階にある猫の額のような小汚い立ち飲み屋に連れて行くと、「邪魔するで!」と叫んだ。呆然としながら卓に着くと、L字型のテーブルの奥には、4人ほどの赤ら顔をした「おっさん」が、全く同じような顔で、ニコニコしながら忙しなくがなり立てた。「おお、兄ちゃん、どこから来たんや」「おばはん、あんま若いもんいじめんなや」「おばはんって誰に言うとんねん!」「兄ちゃん、ここら辺は初めてか」「あんたらもおっさんやろ!」

 僕は暗澹とした気分になりながら、飲みたくもないハイボールだかなんだかを飲み、ひたすら延々と話し続ける「おっさんとおばはん」に相槌を打っていた。「そうですね」「確かに」「いやそういうわけでもなくて……」僕が呟く言葉を女はいちいち拾い上げて噛み付いてくる。「何やその喋り方は!」「何や偉そうに!」「もっと若もんらしい話し方をせえ!」僕は次第に苛々してきた。何が嬉しくて僕はこんな場所で誰だか良く分からない人たちに囲まれて説教されているのか。ふざけるな。ぶっ壊してやる。酔いと共に頭に靄がかかったようになり、喧騒と、テレビの音がぐちゃぐちゃになりながら、次第に遠くなっていった。「ほんでな、こないだのレース」「んなわけあるかい」「あんたな、この街の笑いってのはこういうもんなんや!」「はははは」「アホとちゃうか」「もつ煮ちょうだい」「確かに、って言うのやめんかい!」

 突然、奥にいた同じ顔のおっさんの一人がこちらを向いてニコニコしながら言った。笑っているが、目は据わっている。「兄ちゃん、猿の脳味噌食べたことあるか」「猿……いや、無いですけど」「あれな、美味いんや」「はぁ……そうですか」「あれがいっちゃん美味いんや」「……」「もういっぺん食べたいなぁ」「……」「いつか絶対食べた方がええで」「……」「あれは食べた方がええ」

 僕は店を出ると、ぼやけた頭のまま、繁華街の方に向かって行った。猿の脳味噌、猿の脳味噌……。僕はまとわりつくキャッチの男を無視し、カップルの嬌声を後にし、フラフラと進んで、吸い寄せられるように安居酒屋に入った。生ビールを頼み、メニューを見ると、蟹の甲羅焼きがあった。猿の脳味噌……。僕はそれを注文し、出された蟹の味噌をスプーンで掬って食べた。磯臭く、濃厚な、ドロドロとした物体。蟹味噌とは肝臓みたいなやつのことだ。これは脳味噌ではない。猿の脳味噌……。ドロドロとしたそれを食べるおっさんの顔を想像する。

「兄ちゃんどっから来たんや」

 隣を見ると、ニコニコしたおっさんが、僕の方を見ていた。赤ら顔の、どこにでもいる、同じ顔をしたおっさん。

「蟹味噌、好きなんか」「いや、好きっていうわけでも……」「あれは美味いな」「あれはいっちゃん美味いな」「……」「色々あるけど、あれがいっちゃん美味いわ」「ほうか、兄ちゃんも蟹味噌好きか」「ビール一杯奢ったるわ」「ええから飲み、若いんやからどんどん飲んだらええ」「ほうか、蟹味噌が好きか」

 僕はトイレに行くふりをして店を後にすると、また街に吸い込まれていった。誰かが空き缶を蹴る音がする。意味不明な喚き声が聴こえる。猿の脳味噌……猿の脳味噌……蟹の脳味噌はどこにあるのだろう。蟹には脳味噌が無い。両目と口の近くに、神経が集まっているだけだ。蟹には脳味噌が無い。蟹はものを考えない。蟹は刺激に反応するだけだ。蟹の脳味噌……蟹の脳味噌……。僕はぶつぶつと唱えながら、街をひたすら歩き回って、ただ夜が明けるのを待っていた。