体力をつけるにも体力が要るのだ - 2022/08/24

「服を買いに行くための服がない」という詠み人知らずの歌があるのだが、「体力をつけるための体力がない」というのが俺の慢性的な問題であるなと朝ふと思った。どこを起点と置くかは確定的ではなく、それよりも前にきっと兆しはあったのであろうが、ともかく5年前の「診断」を境に、病気と共に生きるということがデフォルトとなったのであり、もちろん色んな意味での「回復」は確実にあったし、ずっと動けないわけでもなく小康状態の時間も一定割合あるのだが、一度倒れて止まってガクンと落ちた体力が右肩上がりで順調に元通りになるわけではなく、加齢という人類共通のファクターも手伝って、症状の波や社会的経済的浮沈の中で体力をつける、あるいは少なくとも維持する、減退を食い止める程度でも、運動を習慣的に、継続的に行うこと自体が相当に難しいのは事実である。文句を言ってもしょうがないし、出来ることが全くないわけでもないし、支援や学習の原則はいつだってスモールステップで出来るところから一個一個着実に、なわけであるから(着実に、の先の習慣化、安定軌道に載せることになかなか成功しないまでも)、ちょっとした隙間時間にツマが買ったトランポリン(小さな四角いボックス型で、階下に音や衝撃を伝えないもの)の上をピョンピョンと飛んだり、YouTubeで流れてきた3分ストレッチ動画を朝やってみたりとしているわけではあるが、それにしても、である。体力をつけるための体力がないのだよ。

暑さも手伝って、ムスメを園に送って帰ってくるだけでも満身創痍であるが、どうにかこうにかやっていきたい。お盆を終えてしおれてゆく精霊馬と毎朝当園路ですれ違う。お勤めご苦労様でした。

当園路の精霊馬。お盆を過ぎて干からびていっている。