やがて死にゆく者たちの唄

先日、ムスメの要望で「アンパンマンミュージアム」に行ったのだが、駅から徒歩5分10分の道で体力をほとんど使い果たし、到着する頃にはすでに満身創痍であった。ご機嫌に飛び跳ね走り回るムスメと、またひとつの生命を宿してけっこうな大きさとなったお腹を抱えたツマと並んで、なんとわが身の虚弱なことか。合間にちょくちょく休憩させてもらいながら、一緒に回れるところは回るという感じで、それはもうわが家の、僕を含めたこの家族ユニットの現実的な休日の楽しみ方であり、何も悪いことでもないのだが、賑やかなアミューズメント施設でひとり椅子に座っていると、やはりこうコントラストが意識されて、「つらいなぁ」という気持ちになり、実際小さくつぶやいたし、ちょっとだけ泣いた。

風邪のようにはサクッと治ってくれない類の「病」がある。お医者さんによって「名付け」が可能な単位で数えてみれば4つ5つが束になっていて、日々の生活と絡み合ってあれやこれやの「ままならなさ」ー「障害」と言ってしまってもよいだろうーを形成し、それらを携えていかねばならない、そういう身体を生きている。どこを「病」の起点とするかは難しい。生まれてきた時点で「タネ」が脳に埋め込まれていた、とも考えられるし、振り返ればその「芽生え」は幼少期なり青春時代なりにすでにあったのだ、とも言えるかもしれないが、大きく身を崩した、つまり「病」と名付け認識できるぐらいの大きさに「開花」したのは、通院履歴によれば4年前で、そこから少しずつ持ち直し回復したかのような時期を経たものの、またガクンと一段下に落ちて停滞しているのがここ2年である。

何も手につかなくて横になるしかないときもあるが、動けるときは、まぁ、動ける。どこかの会社に入って3年なり5年なり働けば、「もう新人じゃないんだからさ」となるわけで、「病」との付き合いも同様に、そこそこの年数が経てば、自分の身体がどんな傾きを持っていて、どういうときにどうするかという方略が、それなりに蓄積されていくわけで、まぁなんだかんだ生き延びてきたし、これからもどうにかこうにか生きてはいけるだろう、とは思っている。冒頭のアンパンマンミュージアムにおける「つらいなぁ」という嘆息は、時折やってくる「発作」のようなもので、時が経てば収まってちょっと上向いてきたりもすることも知っていて、実際そうであるので、だから別に、「暗い話」を書いているつもりでもない。ないのだが。

障害は社会の側がつくっているのだとか、障害は個人と環境の相互作用であるからして、どこかを変えればできることが増えたり困難さが減ったりするから障害はなくしていけるのだとか、そういう考え方がある。

「メガネをかける」ように、という比喩がよく使われる。紙と鉛筆での読み書きに困難さのある子どもがタブレットで学習できるようにするのは、「目の悪い」人がメガネをかけるのと同じだ、というように。身体のつくりや動かし方、物事の受け取り方考え方表現方法が、「標準」「平均」「多数」とは異なる、「病者」「障害者」などと呼ばれる人たちが、見る、聞く、話す、食べる、移動する、文字を書く/打つ、人とやり取りするetc. なんらかの活動が「できない」でいるのは、対応する「メガネ」がないから「できない」のであって、それをもっとつくろう、増やそうというわけだ。

間違ってはいない。重要な考え方であり実践である。一朝一夕になんでもかんでも解決とはいかず、過去も現在も、そして未来も漸進的にしか変化は起こらないにしても、さまざまな「病」「障害」に合わせた「メガネ」は開発され続けてきた。

生まれてきた時代が時代なら、僕は狂人として座敷牢に放り込まれ隔離されていたかもしれないが、ひとまず、今のところ、そうはなっていないのは、そうならないようにしてきた先人たちの「積み重ね」の恩恵であることは間違いない。

実際、助かっている。毎月の通院費やお薬代は「自立支援医療」という制度により1割負担で済んでいるし、お医者さんと相談しながら種類や量をあれこれ調整した結果いくつか「合う」「効く」薬のセットができたし、「ヘルプマーク」に気づいて電車で席を譲ってくれる人はここ数年で格段に増えて、とてもありがたい気持ちだし、本当に、大いに助かっている。

しかしそれはイコール「病」がなくなるということでは決してない。症状に対して一定効く薬があること、経済的・社会的な脆弱性を補填する制度があることは、僕の生存可能性を上げてくれているのだが、それはそれとして、やはりこの身体はときおり悲鳴を上げるし、その頻度と程度は無視できないほどに大きく、医療と福祉があるからプラマイゼロ、とはならない。

社会モデル的に「障害」を一個一個すりつぶしていった先になお残る「ままならなさ」が、慢性の「病」を抱えて生きることの実体だと思う。

そのかたちは病気の種類によって、また個人によってさまざまだが、僕の場合それが一番象徴的にあらわれるのが「呼吸」なのだろう。

重たい空気の膜のようなものがずっと纏わりついているような感覚だ。

常に呼吸が浅い。少し動くだけで息切れする。いろいろ積み重なって調子が悪いときは動悸が止まらなくなる。認知特性の凸凹、体力の低下、家族のこと、仕事のこと、対人関係etc. 症状を起こし悪化させうる「要因」はそりゃあある程度検討はつくし対処できることはするのだが、総体としては間に合わない、負け戦だ。

抑うつの膜にまるっと包まれた日常を、文字通り「虫の息」でやり過ごしている。

遅かれ早かれ、全ての人間は、個体としてはいずれ死ぬ。歳を取ればみんな身体がいうこときかなくなって障害者になるんだとか、いま健康な人もいつ病気になってもおかしくないとかいった言い方は、その意味で正しいのだが、ひとまずそんなことー「死」を意識しないで済んでいる、相対的に「健常」な人と比べると、いま現在、「すでに」病者・障害者である(との認識で生きている)人は、「みんな同じ」とは言って済まされない程度には「死」に近い存在であることは間違いなく、実際、一緒に活動していた知人・友人が、あるいは界隈のレジェンド、生き字引みたいな人が、それはまぁけっこうな頻度で逝ってしまう。僕を含めて訃報を「受け取る」側にいる人間は、一応、「まだ」生きているものの、次は自分かもしれないと、けっこうな現実感を持って考えてしまうのだ。

しかし一方で、病者・障害者は案外にタフというか、しぶといというか、活動的でもある。

不自由さ、ままならなさがあっても、いや、あるからこそ、どうにか状況を動かそうとする。

似たような病や困りごとを抱えている人は、なんらかのシグナルを送り合い受け取り合いして、ちょっとずつ、自然と繋がっていき、気づいたら社会のそこここで当事者団体やら事業体やらメディアやらなんやらが立ち上がっていたりする。

ここに「痛み」が、「障害」があると、表現し、集い、運動する。仲間や資源や支持が集まり、色んな要素がうまいこと噛み合うと、新法設立や法改正、治療薬の研究・承認、新たな支援技法の開発・普及etc.といった「成果」が残る。

当然100点満点とはいかず、形にしていく過程で骨抜きにされる、違う方面に曲げられるなどして、目指していたところに届かないことは、ままある。

自分が生きている間には、治療法や支援技法や福祉制度やインフラ整備等々が、「間に合わない」病気、世代、個人というものも、残念ながら、存在する。

いくつもの、際限のない個別対応から、こぼれ落ちて残る痛みは常にある。

それでも、なのか、だからこそ、なのか、そういう運動がいつも悲壮感に満ち満ちているわけではない。

たくさんの負け戦のなかで、私たち病者・障害者は、案外によく「笑う」。

僕が出会い繋がり教わってきた仲間たち、先輩たちは、どこか楽観的で、そして創造的な人たちだった。同時代に直接会うことができた人たちだけの話ではない。書物などを通して「歴史」として出会った人たちもたくさんいる。

全てが一挙に解決するなんてことないとは、みんなわかっている。

だから、やれるだけやって、次代に託す。個体を超えた「積み重ね」を信じる。

病気・障害があるということは、それがない状態より「死」に近いとも言えるのだが、不思議なことに、病気・障害と向き合う・付き合うことで、短期的な成果の良し悪しにジタバタしない、長い目で考えることができるようになる、という面も間違いなくある。少なくとも僕はそういう変化を経験していて(冒頭の通り実際よく落ち込むのだが)、それは数少ない、病気になって「良かった」思えることだと言える。

今日の夕方5時頃、近所のドトールでこの文章を書き始めた。隣の席にいた壮年の女性が電話をかけていて、スピーカーフォンモードだったのでやり取りが耳に入った。「自宅から歩いてここ(ドトール)まで来ることができた」と、支援者であろう人(おそらくケースワーカーさんか)に報告しており、相手の人は実に嬉しそうに、本当に、自分のことのように喜んだ声で、「おめでとう、がんばったね」と返していた。

「病」が完全に治ることはなくとも、「生きる勇気」をもたらしてくれる出会いは、出来事は、この世界のそこここに、確かにある。

やがて死にゆくものである私たちは、たくさんの、小さな、大いなる気休めをかき集めて、ひとまず今日も、生きている。