名無しへのご自愛

 テーマである「病」とは何かを、私はよく理解していない。「症状」なら分かる。鼻水が出る、頭が痛い、気分が落ち込む、これは症状だ。

 そういった症状に本人が・周囲が、治療や休養など適切に対処するためにも「病」、つまり病気という概念があるのだろうと個人的には思っている。

 ゆっくり休んで、お大事に。これが言いたいし、言われたい。


 困るのは、抱えた「症状」がどの「病」にもいまいちハマらないときだ。例えば、私は20代前半の時に、「めっちゃオナラ出る」という症状を抱えた。

 その当時はオフィス勤めで、ぎっちぎちに詰まったデスクの自席で1日の起きている時間の大半を過ごし、そこでの私はプゥとオナラをして笑いが取れるキャラを確立できていなかった。だからその症状にとても困っていた、困ってはいたのだが、死ぬほど困っているわけではないのと、症状の類的にも時間の都合的にも深刻になる本気度が沸かなかった。一応行った町のクリニックでは「診断名」はつかず、処方された薬にはあまり効果が感じられず、通院の時間が取れずにいつやら市販薬に置き換わり、次第にそれも飲まなくなった。

 それでも困ってはいて、いつもオナラを漏らさないか心配し、たまにしれっとスカし、スカし損ねて知らん顔をし、とはいえ大半は腹の中に溜め、いつもお腹にじんわりとした痛みを抱えていた。そしていつの間にか、症状はなくなった。


 このオナラプープー病(便宜上、私が今名付けた)は一体何の「病」だったのだろうか。この時のプープー病は自然に解決したが、もし町のクリニックで紹介状を貰い大学病院に行ってみたり、町の漢方薬局に足を踏み入れていたら、はたまた実は大病の予兆だったら、また違ったエピソードとなっていたかもしれない。


 こういった、なんかよく分からないけど具合悪い、病未満みたいなことはままあると私は思う。不調は身体からの何かしらのメッセージだと聞いたことがあるが、それなら、何か伝えたいことがあるのなら、もっと分かりやすく伝えてほしい。そう私の意識の側は思っているが、きっと私の身体の側は身体の側で私の意識側の分からずや具合にうんざりすることは多々であろう。


 とはいえ替えの効かない身体と意識、アニメのパンの奴みたいに顔が濡れて力が出なく出なくとも、「新しい顔よ!」とはなかなかできない。お互いねぎらいあいながら、お互いと一生付き合ってやっていくしかない。

 きっとその営みを、ご自愛と呼ぶのだろう。