“親として子育てするのは意外と楽だ。母親だから、と気負わないで過ごせば、世間で言われている「母親のつらさ」というものを案外味わわずに済む。”
久しぶりに会った友人に進められて、山崎ナオコーラ『母ではなくて、親になる』を買って読み始めた(まだ3章ぐらいだけど)。読んでいて頷くところ多々。
たとえばここ。
“今、私は育児エッセイを書いているが、読者の育児経験の有無によって、文章の読みが変わるということはない、と思っている。もし、ただ経験と照らし合わせるためだけに文章というものが存在するのならば、文章を書くのはなんとつまらない行為だろう。”
そうそう、そういうこと、そうなんだよ、という気持ち。僕が文章を書いているのも、きっとそういうことなのだろう。
「子ども生んだらわかるよ」とか「これは子ども生むまでわからなかった」とか、そういう言葉はやっぱり世間に、身の回りに飛び交っていて、体験するまでわからないことの存在は否定しないし、実際に自分もその渦中にいるのだけれど、こと育児に関しては「経験」「体験」というものが、妙な権威というか圧迫感のようなものを帯びがちで、またそれによって「未経験者」が萎縮してしまうという反作用も、少なくないと思う。
“でも、出産してない人にも出産の話を、私はしたい。(中略)相手の経験の有無で話題を変える必要なんてない、とやっぱり思うのだ。”
経験した人だけにしか話を分かち合えないとしたら、それじゃあ私たちが他者と交わせる言葉の数は、ほんのわずかになってしまう。
実際、子どもを持ったとて、わからないことばかりだし、子どもを持った同士でも違う境遇や道筋を経て今に至っているわけで、授乳や睡眠時間ひとつとってもどれほど個人差があるかという話だし、生んだこと、親になったことによって、私たちはそうでない人と比べていかほど賢く偉いのかと言いたくなる。
別に共感してほしいわけでも、理解してほしいわけでも、解決策がほしいわけでもない。だけど私は書きたい、話したい。平均値とか普通を知りたいわけじゃなくて、自分の人生の出来事として、書きながら、手にとって、確かめていきたい。
そういうことって、あると思う。