仕事柄か、わが子について考えるときに、しばしば頭によぎることがある。それを"不安"に思うというよりは、「もしそうだったら、実際どうするか」とIFの"思考"を泳がせている、といった方が近いかもしれない。
生まれたあとのわが子に、先天性の疾患・障害があったら、という仮定について。
ツマと2人で話した結論は当初から変わらず、「生きられるなら産む、育てる」というものだ。
NIPT等々の出生前診断についても、「受けることに抵抗もないし、もし事前にわかったとしたら、産後の受け入れ環境を整える準備ができる」という考えだった。白状すると、ふたりともバタバタとしているうちに、気づいたら適応週数を過ぎてしまっていて、偉そうなこと言っておいて結局受けられなかったのだけど、仮に受けていてなんらかの先天疾患の可能性がわかったとしても、産むという方向に変わりなはなかった。正確に言うと、無脳症など、ほぼ生存できない疾患の場合はさすがに考えるけれど、現代の医療水準で、少なくとも生存が見込まれるのであれば、その後のケアや生活の困難さがどうであっても、私たちは産む、その子を迎え入れるという風に思っていた。
「産む」ことに関するそういう考えは今現時点でも変わらず、ほぼ100%そうだと言えるのだけれど、やはり「産む」ことと「育てる」ことは別ものである。障害が事前にわかった上で産んだとして、その後に苦労や不安や煩悶が起こらないかといったらまったくそうではないだろう。
まず、どうあっても子どもをケアし、育てる上での経済的・肉体的・心理的負担は通常よりも大きくなる。それはもう、この仕事をしていて、色んな保護者の方々、人生の先輩方のお話を聞きながらひしひしと感じている。とにかく見通しが立たない、情報が少ない、支援や仲間に繋がりにくい。進学・進級先の選択は難しいし、それどころか日常生活・身辺自立すらままならない…たぶん、いやきっと確実に「子育て難易度」のレベルはグンと上がるだろう。落ち込んだりくたびれたり世間に憤ったりということは、まぁ、あるだろうよ。
そしてそれは親である私やツマの生活やキャリアにも影響する。時間的・経済的制約が大きいなかで、それでもわが子含めて暮らしを継続していくために私とツマがどう動くか…前提条件が変わった上での生活とキャリアの再設計が求められる。なんだかんだと仕事を楽しんでいる節があるから、この点に関しては私の方が悩むかもしれないな。
…だけど、ここまで書いてまた考える。そうしたあれやこれやの悩みは結局、子ども本人のものではない。親の側の都合だったり、社会の価値観だったり、それらに影響されて親の側に生じる感情であり問題にすぎない。
もちろん、親には親の人生があるし、そうした「親として」の心配や悩みも、子どものことを思うからこそ生まれる部分もあるし、実際に悩み苦しんでいる先輩方と対面していて、そんなにスッパリ割り切れないよということは痛いほど伝わってくるし、無神経にジャッジしたりなんて絶対できないけれど。
けどやっぱりさ。「価値観」にまみれているのは「大人」であり「親」の側でさ。それは子どもの側の「問題」ではないということは、忘れないようにしたいと思うよ。
間もなく生まれそうなお腹の中のわが子に対して、「どうあったってきっとなんとかなるし、なんとかするから、安心してこの世界に出ておいで」と、ただただ今はそういう気持ちだ。