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あなたがあなたを生きているとき、「美しいよ」と言える人であり続けたい

December 11, 2017 Yuhei Suzuki
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こないだ三十路になりました。

今年も色々ありました。

会社では管理職になったり新規事業にも関わったり、友人と一緒にやってるNPOも法人格を取得して昨日も大きなカンファレンスを無事終えてといい感じ、家の方ではツマが妊娠しましてもうすぐ、実にもうすぐ私はパパになるようです。

今年も色々ありました。

そして三十路になりました。

だからどうしたという話ですが、本当にここ2,3年でようやく「人間」になれてきたというか、幼少〜青年期の掴みどころのない生きづらさからスーッと抜けてきて、社会との接地面を見つけられたなという感覚がします。

二十代前半かそこらでは、ろくな希望も展望も持ててやしませんでしたが、「あれ?いつの間にか?おお、そうなのか」って感じで、気がついたら案外と人生が”進捗”していて、特に今年はその感触が強かったなと。

ときおり、「どうして自分はここにいるんだろう」と不思議な気持ちになることがあります。

冗談ではなく、私は「自分は何者でもない」という感覚をずっと抱いて生きてきたものですから、今、自分と一緒に働いてくれる人たちがいて、そのチームの中に自分が存在していること、共に生きることを選んでくれた伴侶がいること、その人とこれから新しい生命を迎え育てていくこと、どれもこれもがちょっとした奇跡体験アンビリーバボーな感じなのです。

インスタジェニックな写真をアップして、「#最高の仲間にマジ感謝」するほどのセンスも度胸も自己肯定感もありませんが(たぶん上のハッシュタグ例も微妙にセンスがズレてると思う)、しかしここまでどうにか生きおおせてきたのは、周りの人たちがくれた機会や期待に対してなんとか応えようとしてきたからかもしれませんし、能力や結果いかんに関わらず私を私として肯定してくれた人たちに恵まれてきたからかもしれませんし、いずれにしても他者の存在なしにはありえませんでした。


いま、会社のメンバーを誘ってアドベントカレンダーをやっているのですが、こないだまでライターインターンをしていた学生がとてもエモい記事を書いてくれて、嬉しいなぁ採用して一緒に働いて良かったなぁと年寄り目線でしみじみすると共に、「あぁ僕の原点もここにあったなぁ」と改めて自覚させてもらうなどということがあり。

どこにでもいる学生が、”まだどこにもない”記事を書くことに本気で情熱を注いでたんだってば。|あべあいり/駆け出しwebディレクター|note

そう、「何者でもない私」が他者とつながり、社会の中で生きる道を見つけようともがいていた頃から、「書くこと」だけが自分にとっての唯一の突破口だったのです。

取るに足らない小さな自分が、言い訳をせずちゃんと他者と向き合うためには、考えて、書いて、また考えて、手触りのある言葉を探して紡いで…と、それを繰り返すしかなかったように思います。

いま、一丁前にプレゼンをしたり営業提案をしたり部下と面談したりとなんだかビジネスパーソン然としたコミュニケーションを取れているように見えるのは結局この「書くこと」、言葉で考えることの応用延長編でしかなく、それ以外はまことにポンコツで凸凹の大きい人間なのです。


ここまで書いてきて、なんの話をしていたんだっけ、そうタイトルの話。

「何者でもない」自分がサバイブするためという極めて利己的な欲求からネットの片隅にブログを書き始めた私ですが、今では物を書くことや、メディアを運営することがお仕事としてもできるようになりました。

「仕事」となるとまぁ色々なことがあるのですけれど、一番嬉しいのはやっぱり、「書くこと」を通して、誰かの人生が動き出す、その人の物語が開かれる瞬間に立ち会えることです。

どんな人にも、その人をその人たらしめる歴史があり、身体があり、それを固有の、美しい物語として紡いでいくこと。それが「書くこと」の力だと思います。

善い物語は、スポットを当てられたインタビュイーだけでなく、その人と時間を共にしたインタビュアーや、その物語を読む読者にとっても善い変化をもたらします。

書くこと、その前段として「あなたの話を聴く」ことを通して、「何者でもない」僕の人生にはたくさんの彩りが加えられ、その度に世界の見え方が変わっていきました。いつしか生きていていいのだとも思えるようになりました。



それと並行して気づいたのは、世の中には逆に、「何者かである」ことに囚われ縛られ、そして苦しんでいる人もたくさんいるということです。

若者だとか年寄りだとか
障害者だとか健常者だとか
親だとか子だとか
上司だとか部下だとか
当事者だとか当事者じゃないとか

生きていると私たちに色んな「ラベル」が付着したり剥がれたりしますね。
そして、望むと望まざるとに関わらずその都度その都度の「ポジション」を取ります。

その状態を、その痛みを否定することはなく、しかしそのひとつひとつに耳を傾け、一緒にさわっていくなかで解きほぐしていくこと、そこから新しい物語を編み直していくことも、「書くこと」に備わっている力なのだと思います。

新しく紡ぎ出された物語は、やはり他ならぬその人自身のもので、私がゼロからつくり出したものではありません。

だけど、自分の物語を自分独りで見出していくことはとても難しいと思います。

何か明快な答えを出せるわけでもなく、「うんうん、そうかそうか」とお話を聞いたり、「それってこういうこと?」と私の理解・解釈を言葉にして返すことぐらいしかできませんが、傍らの壁打ち相手として、私が何かの役に立てるならとてもうれしい。

テーブルを挟んだとめどもない会話の中で、少しずつ少しずつ、あなたの輪郭が浮かび上がります。私はそれをなるべくそのままに掬い取れるよう、大事に大事に言葉を紡いでいきたいと思う。

出来上がったあなたの物語は、書いた私の自己満足だし、主観ですけれど、間違いなく美しいんです。

In essay Tags narrative
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