今週のほにゃらら 2022/08/29-09/04

閒(あわい)の住人が、今週観た/聴いた/読んだ/食べたものなどを、本人の紹介コメント付きでいくつか選出してご紹介します。

■今週の作業BGM:YAACHAMA J-ASMR「鉛筆で文字を書く音」

鉛筆で文字を書く音というと、学生時代の試験中を思い出します。たくさんの音を聞いているのは、なんだか緊張したものでした。時間が進むにつれて、音が止まったときはなんだか落ち着いたものです。
この動画は、ひとりの人が鉛筆で文字を書く音や、小さい鉛筆削りで鉛筆を削る音が収録されています。
これをBGMに作業すると、私はとても落ち着いて、作業が捗ります。波の音や鳥の鳴き声など自然音もいいけれど、今はこれが一番いいみたいです。
もえさんより

■観たもの:映画『劇場版うたの☆プリンスさまっ♪ マジloveスターリッシュツアーズ』

アイドルグループ「ST☆RISH」のライブを映画館で上映しています。
通常上映と無声応援上映があり、無声応援上映は声は出せないものの、ペンライトを振ったり拍手で応援ができます。
今回は無声応援上映に参加しました。
もう、本当にライブそのもの。
最近のライブでは感じられない歓声も浴びれます。
全編フル3Dなのですが、とにかく顔も衣装も動きもいい。そして表情。これがめちゃくちゃ豊かで!今までは手書きアニメーションでしか表現できないだろうな、と思っていた細かな表情がとても美しく表現されています。
現実ではちょっと無理だと思うぶっ飛んだ演出もたくさんあって、新しいライブ体験ができるのではと思います。
男性アイドルグループですが、性別関係なく楽しめるライブだと思います。興味が出た人は是非映画館に行って、ライブの後に感想を頂ければ嬉しいです。
ゆーさんより

■今週やってみた運動:水中ウォーキング

久しぶりにプールに行ってみた。本当は泳ぎたかったのだけれど、腰が痛くて、うん、とりあえず無理せずにウォーキングをしてみた。
水はひんやり冷たくて、たぶん、歩くだけでも運動効果やリフレッシュ効果があったんじゃないかな。端っこのウォーキングレーンは年齢層高めなイメージだったのだけれど、この日は、屈強なラガーマン体型のお兄さん二人と私の三人でプールをぐるぐると歩いていた。あのお兄さんたちがわざわざメニューに取り入れているんだ。きっと何かに効くんだろうなぁ笑中一の4月、チビで運動が苦手だった私の体力測定結果はひどいものだった。ボール投げの距離、みんなは何メートルか向こうに引かれた白線を基準にメジャーをあてて計測していたなか、私だけ足元からメジャーを引いた。担任の先生があまりに心配してくれて、緩めの部活を見繕い、当時ほとんど泳げない私を水泳部に放り込んでくれたんだった。生涯スポーツだからって。先生、ありがとうございます、今でもプールが好きです。でも私の身体もなかなかのもので、ここ数年はプールで耳が痛くなりがちで、足も遠のきがちだった。
ちょっといい耳栓を買ってみた。あと、プールというよりも、イヤホンが悪いのかもしれない。試行錯誤。
しょーいちさんより

■読んだもの:柳美里『JR高田馬場駅戸山口』

柳美里氏による「山手線シリーズ」二作目。夫が単身赴任し、一人で子供を育てながら、幼稚園や自治会との確執を経て次第に孤立していく女。女は偏執狂的な執着で、3歳の息子を育てる際のありとあらゆるリスクを異様なまでの過剰さで防衛し、放射能のリスクを過大評価して、徹底的に調査をしつつ、幼稚園に執拗なメールを送りつける。その姿には、寒気がする。しかしその寒気は、誰に対する寒気だろうか。この女はあなたの中にも潜んでいるのかも知れない。家族から、地域から、社会から孤立し、狂気を育てていく。どこにでもある、誰にでも起こり得る、ありふれた、絶望。この作品は、そうした、どこにでも転がっていて、そして誰にも気付かれることのない、絶望的な孤独に対して捧げられた何かなのだろう。それは希望ではない、エールでもない、肯定でもない。問いでもなく、道標でもなく、救済などでは決してない。それでもこの作品は書かれるべきだった。書かざるを得ないものとして、書かれたものだった。そう思わずにはいられなかった。
もときさんより

■読んだもの:長田弘『一人称で語る権利』より「1 ウソからでたマコト」

何かのきっかけでジャケ買いして本棚に入れたままだった一冊。ムスメとリカちゃんハウスで遊びながら、ふと目についたので手にとって読んでみた。1つめのエッセイ「ウソからでたマコト」より

一九四六年春。戦後の新制小学校の最初の一年生としてわたしが入学した小学校は、東北の山あいの丘のてっぺんにある小学校でした。ですから、わたしにとって戦後という時代の記憶は、長い急な石段を息を切らしてのぼっていった幼い記憶にはじまるんです。

流行歌やプロ野球がわたしにくれたものは、それらによってじぶんの日々が生き生きと明るくされたという感覚ですね。時代像というものをかんがえるとき、人びとの生活のある場所というか日々の時間を親しく生き生きとさせているものは何だろうか、何だったかということをまずかんがえるんです。

ふりかえってみると、ホンモノだけがホンモノだというかんがえかた、かんじかたがじぶんのなかにそだたなかった時代が、わたしにとっての戦後という時代だった、といえるようにおもうんです。

ある時代のなかで生きた人が、個人的なことをわざわざ「エッセイ」として書くことの意味がここにある。

ゆうへい